9.ならいっそのこと
黒い視界が開けた俺の目に真っ先に入ったのは、赤茶色に塗られた鉄の大扉だった。
ああ、ここか。
人生の追体験が始まる前に俺がいた、よくわからない空間。
元の場所に帰ってきたのだ。
まわりを見回すと閻魔はいなかった。
きっと、俺の人生を天秤か何かにかけて天国行きかどうかを判断するんだろうな。
どういう仕組みでそれが判断されるのか見当もつかなかったが、そんなことをのんきに考えられるほど俺の精神は健常ではなかった。
俺のせいでZは。
俺のせいで。
あんな悲惨な結末を辿ってしまったんだ。
「待たせてごめんね」
亡き愛車を悼む俺に、どこからともなく現れた閻魔が声をかけた。
「結果が出たの?」
「うん」
車があのままでは浮かばれない。
そう思いながら、閻魔の次の言葉を待っていた。
「空凪澪さん。あなたは天国へ行くことを許可されました」
閻魔がにっこりと笑顔をみせながら話を続ける。
「わかってたとは思うけど、余裕で天国行きだよ。おめでとう。
詳しい話は向こうで聞けるから、今はとりあえずこれを持ってて」
差し出されたカードのようなものを俺は受け取らずに、全身全霊で土下座する。
「頼む!」
「え?」
「俺を生き返らせてくれ!」
閻魔は「うーん……」と困った顔をして黙り込んでしまった。
「自分勝手な頼みなのは重々わかってる。それでも、あの車を死んだままにはしておけないんだ! だって、俺のせいであのZは……!」
それ以上は言葉にならなかった。
あのZに対する俺の罪を償いたい。
その一心で、俺はわずかでもあるかもしれない可能性に賭けて頼み込んだ。
「Zをこの手で蘇らせるまで、俺は成仏なんかできない……!」
天国へ行けたって、地獄へ行ったって、あのZはもう戻らない。
「……どうしてもZを諦められない?」
「無理だ」
「じゃあ逆に、Zさえあれば他は何もいらない?」
「いらない」
閻魔は「うーん、どうしようかな……」と独り言を呟き始めた。
ちょっと待て。
『どうしようかな』?
ということは、まだ俺にチャンスが残されているのか?
「わかった」
そう言って、閻魔が俺を真剣な目つきで見つめる。
わかった……?
いやまさか、そんな簡単に生き返らせてもらえるはずがない。
「どうしてもっていうなら、手段がないわけでもないんだけど……」
え、嘘?
手段があるのか!?
「完全にイレギュラーなケースだし、話は伝えるだけ伝えてあげてもいいけどどうするかは自分で決めて」
なぜか拗ねたような表情をしている閻魔に、覚悟を決めて聞く。
「話っていうのを、教えてくれ」
「はぁ……しょうがないな。結論から話すよ。あなたは、Zでもう一度レースできたら何よりでしょ?」
「もちろんだ」
「ならいっそのこと、異世界でレースしてみない?」
閻魔が話してくれた要件をまとめると、こんな感じだ。
この世には、俺が今まで生きてきた世界だけではない。
いろいろな世界が存在し、それぞれの世界に独自の文化で人は暮らしている。
そのなかでもいくつかのグループがあって、同じグループに属する世界は、もとは同じだった世界の集まりだ。
かつてひとつだった世界は、さまざまな結果を取りうる可能性によってバージョン違いが複製されていく。
このバージョン違いが、いわゆる「パラレルワールド」と呼ばれている世界を指す。
完全に別のグループの世界なら言語も生活感覚もまるで違うが、このパラレルワールドに分類される異世界は元は同じ世界だったから、何かと共通な場合も多いのだという。
俺が住んでいた世界にも無数のパラレルワールド的異世界が存在するのだが、その中の1つがどうやら「破滅的な未来」を歩んでしまうらしい。
その世界を救う義務がある閻魔大王は、いろいろな算段を組み立てて破滅的な未来とやらを回避しようとしているが、あの世では人材が足りないらしい。
そこで、俺が手を貸すことになったのである。
なぜ俺かというと、どうもその異世界は元いた世界と比べて自動車産業が大きく発展しており、モータースポーツも盛んらしい。
だから俺を前世の記憶を保持したままその世界の人間として生まれ変わらせ――転生というらしい――その世界に送り込む、というのが話の筋だ。
俺がその世界のレースで勝てばバタフライエフェクトによって未来が変わり、破滅的な未来が防げるのだという。
しかしただのレースではダメで、その世界のトップに位置するグランプリで優勝する必要がある。
なので閻魔は俺のドライビングテクニックを買ってくれたというわけだ。
俺にとっては奇跡のような話だが、ひとつ気がかりな点がある。
「俺のZはどうなるんだ?」
「向こうの世界でしかるべき時に使えるよう、あなたの車も転生させるつもりだから安心して」
「決まり」
承諾しない手はない。
俺の愛車でもう一度レースができるのだ。
これ以上の話はない。
「ただし、条件が1つ」
やっぱあるか。この際なんだっていいが。
「私も転生して、あなたを近くでサポートする」
「え、閻魔が?」
「うん。まあ私の場合はもともと霊界の人間だから、正確に言えば転生ではないんだけど」
予想外の条件だった。
失敗したら地獄送りとか、そういうのを覚悟してたのだが。
「あなたの人生を見てきたけど、さすがにひとりで行かせるのも心配だし」
「閻魔大王としての仕事はいいの?」
「ちょっと前に父から連絡があって、もう復帰できるって」
ああ、兄貴のアパートにいたときか。
そういえば連絡がなんとかって言ってた気がする。
「言っておくけど、転生後の私たちはお互いに気づかないからね」
「え、なんで?」
「人間の記憶は、閻魔大王みたいな存在に対応してないの。そして私は、ここの記憶を持っていけないから」
「それじゃあ転生した目的がわからないじゃん」
「ごめん、言葉足らずだったね。あなたは私の姿形や名前を忘れてしまうけど、生前の記憶や、異世界に転生したこと自体は覚えてられるって感じ。私の場合は単純に、ここの記憶を他の世界へ持ち込むのはルール違反だし」
なるほど。わかったようでよくわからない。
「まあ余計な心配はしなくていいよ。あなたは異世界で、レースに勝てばいいだけ。どうする? 転生する?」
閻魔が俺に向かって片手を差し出してくる。
「もちろん転生する。……ありがとう」
「いいって」
俺は差し出された手を握った。
「じゃあ、頑張ろう」
「うん」
目の前の視界は白く霞まずに、溶けるようにして歪んでいった。
だんだん頭が痛くなってくる。
頭痛がひどくなってきた。
熱い。眠い。冷たい。痛い。痒い。
いろいろな感覚が一気に押し寄せた。
次の瞬間、そのすべては消え――――――
〈第一章 完〉