ヴァモス、ヴァモス、ヴァモス!
坂の上に風が吹いた。ホセは路上の砂を舞い上げるその風に甲高い笛のような音色を聞いて振り返った。坂の遥か下で何かが叫んでいるようだった。ああ、とホセは淡く溜め息をついた。そうだ。今日はそういう日だった。
「どうしたホセ」
地べたに尻を下ろしたアレハンドロが訊いた。若干色褪せたようなコークの缶を真っ逆さまに傾けて中身を飲み干し、片手で握り潰して足の間に置く。風に吹かれた缶は耳障りな音を立てながら坂を駆け下りていった。ざらついた腕の皮膚を撫でながらアレハンドロはホセの答えを待っている。言えば笑われるだろう、とホセは思った。状況が悪ければ怒り出すに違いなかった。だがどういうわけか、見なかったことにはできなかった。風と共に吹き過ぎていったそれが咆哮と分かってから、ホセの体の中には静かな闘争心が萌し始めていたのだ。
「なあ」
「おう。だからどうしたんだよ」
「行かないか」
ホセは極めて冷静に切り出した。
「どこへ」
「アレナへ」
「アレナ?」
今日の出し物は、まで口にしたアレハンドロはぎょっと目を見開いた。
「まさか、まだスシ・ザ・ファイナルの応援行ってんのか?」
こくりとホセは頷いた。アレハンドロは勢いよく額に手をやった。芝居がかった仕草に苛立ちは感じられない。純粋に呆れている時のそれだろうと思うとホセは漸く胸を撫で下ろした。
「ったくお前ホント変人な。スシなんて言っちゃなんだけど、要するにゲテモノ中のゲテモノじゃねえかよ」
ゲテモノという言葉にホセはぴくりと眉を引き攣らせたが、アレハンドロがそう口にしたこと自体を否定するつもりはなかった。この街で、いや、スシ・ザ・ファイナルを知る者全員がそう思っているに違いなかった。ホセ自身とて例外ではなかった。確かに彼はゲテモノだ。実に、どうしようもなく。
得意技はディー・ディー・ティーとエル・ヌド、カバージョ。それから申し訳程度のパターダともたついたムーブ。スシ・ザ・ファイナルはこの小さな街の寂れ切ったアレナでさえひとつの勝ちも掴んだことがなかった。フライ級の中でも飛び抜けて華奢で、まるで十歳を辛うじて超えた貧しい田舎の子供みたいな腕や脚をしている。真っ黒な地に白と赤とでタトゥーのような模様を入れたマスクは、両耳から頭頂にかけて肉のような色の柄がある。本人はこれこそがツナのスシなのだと言うが、ツナもスシもないこの田舎町ではナーナ(おばあちゃん)と呼ばれていた。老いた女のするヘアバンドに似ていたからだ。戦い方もナーナだ。もしや自分ですら勝てるのではないかと試合中にホセが思った回数は、アレハンドロが坂の上から転げ落としたコークの缶より多い。新人ルードの初戦はいつもスシと決まっていた。彼らは言う。あんなに負け慣れてる奴はいない。誰が相手だろうが、あいつは実に〝見事に〟負けてくれるだろうさ、と。
そしてその通りになる。
噛ませ犬専門のテクニコ、史上最弱の異名を取るルチャドール。それがスシ・ザ・ファイナルだった。
「別に応援すんなって言ってんじゃないぜ」
黙り込んだホセにアレハンドロはそう付け足した。
「ただ、スシの試合で『いけ(ヴァモス)!』なーんて言ってんのお前だけだろ。なんだか不思議でなんねえよ」
「お前だって、バーブド・ワイヤ・ジュニアの試合なら『いけ!』って言うんだろ」
「そりゃお前、バビーは負けるのが普通じゃねえからな」
アレハンドロはきらりと目を輝かせて誇らしげだ。
バーブド・ワイヤ・ジュニアはアレハンドロの兄だった人だ。赤の地に黒で有刺鉄線があしらわれたマスクは、かつてバーブド・ワイヤ・ブラスという、アレハンドロの父だったルチャドールがつけていたものを踏襲している。腰を痛めたブラスからそのマスクを受け取り、その顔に被った時、ベンハミンという名の青年は半永久的に失われた。今やバーブド・ワイヤ・ジュニアは国中にその名を轟かせる最強のテクニコの一人だ。
アレハンドロは彼をバビーと呼んでいる。家の手伝いでこの街を離れられないものの、時折ふらりと帰ってきてはあのボロいアレナでマッチをするバビーの勇姿を、アレハンドロは欠かさず見に行く。最前列に身を乗り出して、誰よりも大きな声で叫ぶ。
バビー、負けるな。いけ(ヴァモス)!
「バビーは強いから、いつだって勝つ可能性があるだろ? そりゃ言うさ。でもなあ、スシが勝つ可能性なんかあると思うか?」
ホセは即座に頷くことができなかった。史上最弱のルチャドール。そう呼ばれるスシは勝ったことがないどころか、勝ちそうだったことさえほぼないに等しかった。いつだって観客はスシ以外の誰かを応援している。相手のルードを応援し、或いは待機中の別のテクニコに早く助けに入って見せてくれとせがむ。リング上で戦い、技だって決める時には決めているというのに、あの小さなアレナの中でスシは半ば透明な存在だった。誰もスシの戦いを見ていない。誰もスシの戦いを知らないに等しい。でも俺は知っている、とホセは密かに心を燃やしていたのだった。一昨年の春に起こったあの前代未聞の事件を、ホセは昨日のことのように思い出すことができた。
アレハンドロがバビーの試合を欠かさず見に行くように、ホセはスシの試合があると欠かさず見に行った。一昨年の春にスシが実に鮮やかなカバージョを決めたときも、ホセはアレナの最前列で見ていた。他の観客はきっと見ていなかっただろう。スシのカバージョに一瞬どよめいたアレナは次の瞬間、猛烈な飛び蹴りでスシを吹き飛ばしたエル・ディアブロへの歓声に包まれたからだ。その踵をまともに食らって動けなくなったスシは仲間に支えられてリングの端に避難させられた。だがホセは見ていた。仲間たちの戦いを眺めるスシが、ロープにもコーナーにも凭れることなく真っ直ぐに立っていたのを。荒く息をつきながらもスシは、その視線だけは決してリングの上から逸らそうとしなかった。まっすぐで強く、奇妙に澄み渡った眼差しだった。
そして次の瞬間、スシはぎょっとしたように目を見開いた。小さく息を呑んだ音はアレナを震わせる声援の向こうからホセの耳にまっすぐ届いた。
まるで死に直面したけだもののように絶叫しながら、スシはリングの中央へ飛び込んでいった。エル・ディアブロのヘッドロックは明らかにザ・ファンブルの頸を締め過ぎて、今にも落とさんばかりだった。足掻いていたザ・ファンブルの体から風船の萎むように力が抜けていく。
一瞬だった。
閃光のように走り込んだスシの放った渾身の肘が、エル・ディアブロの顎を完全に叩き抜いた。
客席の喚声は血の気の引くように霧散した。コーナーに待機していたルチャドールたちは呆気に取られて立ち尽くしていた。完全に落ちたらしいザ・ファンブルも、その上に崩れ落ちたエル・ディアブロも、その前のレフェリーすら動かない。ホセは気付いた。スシはリングに敷かれていた暗黙のストーリーを粉砕したのだ。エル・ディアブロの行き過ぎたヘッドロックは、「行き過ぎている」の度を越したこと以外シナリオ通りだった。恐らくは落ち切る寸前で止めるようにと決められていたはずだ。だがエル・ディアブロはそれを破った。スシは、それに怒ったのだ。未だかつて見せたことのない凄まじい威力と鋭さを以てスシはエル・ディアブロを制止し、試合のシナリオを完膚なきまでにぶち壊した。ザ・ファンブルを救い出すために。
切り取られた、静止した時間の中で、スシはふっと息をついた。その背筋はすっと伸びて、契約を切られかねないような掟破りの行為さえ悔いてはいないと見えた。ゆっくりと客席を振り返ったスシの視線が立ち並ぶ顔を順に見遣り、やがてホセの上に落ちかかる。
このアレナの全てが今、スシ・ザ・ファイナルというひとりのルチャドールを見つめているんだ。
そう思った瞬間、ホセの胸にぼっと音を立てて火が付いた。それは竈の火よりも遥かに激しく爆ぜながら体内の空気を膨張させた。スシの視線はゆっくりとホセの顔の上を通り過ぎていく。スシの咆哮の余韻がホセの中に谺する。残響が胸の炎を激しく揺さぶった瞬間、凍りついたアレナを爆発させるように、ホセは叫んだ。
――いけ(ヴァモス)、スシ!
スシの、街中にナーナと笑われた赤と黒と白のマスクが、弾かれたようにホセに向き直った。ホセの全身は興奮に震えていた。自分とリング上のスシの間に、何か深く分かちがたいものが結ばれたのを、ホセは異常なまでの興奮と共に悟った。
スシは暫くホセを見つめたまま動かなかったが、やがて、両腕を体側に貼り付けたまま深く頭を下げた。ホセはそれがどういった意味を持つ行為なのか分からなかった。どこか祈りにも似ていた。きっとスシの生まれた国においては何らかの意味を持つのだろうと思った。それは自分ひとりに向けられたものではないとホセは直感した。ホセの声に応じながらも、スシはアレナの全ての人々に向かって頭を下げていた。頭を上げたスシはホセを一瞥し、気を失ったままのザ・ファンブルを担ぎ上げてリングを下りていった。アレナは俄かに騒がしくなった。医者を呼べと叫ぶ声がした。試合は中止するとレフェリーが言うのが聞こえた。続けさせろと怒鳴る観客に、しかしスシは顔を上げることすらしなかった。ザ・ファンブルの体を時折揺すり上げながら裏へ消えていくスシの背に罵声が浴びせられた。
馬鹿野郎。ショーを台無しにしやがって。ナーナ。ひょろひょろ外国人。大人しく最弱の噛ませ犬やってりゃよかったんだよ。やめちまえ。こいつがお前の最後になりゃいいんだ。
だが、スシは去らなかった。ザ・ファイナルという名も、最弱のテクニコとしてのスタイルもそのままだった。観客の怒りはその次の回でのスシの見事な負けっぷりに早くも鳴りを潜めた。スシはまた半ば透明な何かに戻っていった。あの日見せたような凄まじい動きをすることは二度となかった。
暫くはそれを期待していたホセも、時の経つにつれてあの咆哮を待ち望まないようになっていった。それとは別に、スシの試合には欠かさず足を運んだ。負けてコーナーに引き下がったスシがどこにも寄りかからずに、ぴんと背筋を伸ばしてリングを見つめているのをホセは見ていた。そのシルエットはホセの中の炎に薪をくべるようだった。薪は勢いよく弾けながら炎と熱とを噴き上げる。その興奮を思い出す度にホセは本当に体が熱くなるような気さえした。
体の芯がぶるりと震えた。獰猛なコヨーテの爪と牙を前にした時のような、寒気と共に背筋を駆け上がって浮かぶ微笑がホセの顔に現れた。
コーナーに立つスシが時折、ナーナのマスクの下で獰猛な笑みを浮かべているのではないかとホセは感じることがあった。そのイメージは次第にホセ自身にまで伝染し、固唾を飲んでいたはずの顔面はひとりでに歪んで笑んでいく。あの日ホセとスシとの間を繋いだものが、スシの中で高まるものをホセにも伝えるようだった。言わばそれは闘争の本能だった。勝てるものを勝たず、負けるべきものを負けず、己の求めるままにいく。吼える。叫ぶ。薙ぎ倒す。それを渇望する熱がスシの腹の底で燃えている。大胆に弾け、或いは揺れながら。せり上がった熱風が、爆発的な威力を持ってスシを突き動かす。その瞬間がホセには分かる。だから叫ぶ。その言葉に乗ってスシが突っ込む。味方を庇い、攻める隙を生み出し、そして美しい勝利を相手に与えるために。
「スシは勝たないよ」
ホセは言った。
「スシは勝つ必要なんかないんだ。勝たなくたって最強だから」
その瞳に爛々と光るものを見出して、アレハンドロは思わずぴくりと口の端を引き攣らせた。それ以上ホセが続けないらしいことを見て取ると、途端に深々と溜め息をついて全身の緊張を解く。
「……お前、時々そういう怖い目するよな」
「そうかな? 普通だと思うけど」
「ホセ、ホセ、ホセ。鏡も見ないお前のツラのことは俺の方がよく知ってるんだぜ」
特に反論することもないままホセは黙っていた。不意に強くなった風に乗った砂塵が入らないように目を覆う。手の甲に叩きつけるそれは乾燥していて、断末魔の叫びのような鋭い痛みを残す。暫くそれに耐えてから強風の合間に少し手をどけると、同じように目を開けたアレハンドロが呆れたと言わんばかりに苦笑した。
「――あーあ。お前ホントに変な奴だよ」
どっこいせ、とアレハンドロは弾みをつけて立ち上がった。尻の砂をはたき落とす音を何とはなしに聞きながらホセは坂の下を見遣った。そこには街の誇りと言われつつもひどくボロいアレナがあって、今日はそのリングに最弱の異名を取るルチャドールが立つ。どこにも寄りかからず、内に激しい闘争の炎を抱えて、恐ろしくまっすぐな眼差しでリングを見据えるあの男が。
「よし」
口笛など吹いてみながら数歩坂を下ったアレハンドロが振り返る。にや、と笑った口元は、今は遠いどこかのリングに立っているはずの、最強のテクニコに少しだけ似ている。
「ほら。行こうぜ、スシ・ザ・ファイナルの魂の叫びを聞きに」