根厳令その1
最初は現在の山口県付近で起こったことです。
概要
1304年、原坂村(現在の山口県付近)で施行された法律である。その内容は災害発生後の原坂村における復興についてであった。この法案が発表された直後は、村民はその危険性について言及し、反発を行なった。しかし当時原坂村を統治していた宮針(当時の地方自治における最高位)を務めていた曽野田紀世助によって強行採決され、正式に採用された。その期間は実に13日間と短く、その日数から「いざみきの法」とも呼ばれた。いざみきとは古語で「死に急ぐ」を表す。
曽野田が宮針に就くまで
これが施行された1304年9月26日(陽暦)の約1か月前、1304年8月30日に原坂村で大雨、それに伴う洪水が起こった。その災害の被害は極めて甚大であった。被害は死者134人、行方不明者30人と記録されている。また、原坂村の主な収益は農作物であり、大雨による経済的被害も非常に大きかった。
災害時に宮針を務めていた笹田藍吾郎は信仰心の極めて強い人間だったため、この災害の鎮静の祈り及び災害後の対応の遅れに責任を感じて首吊り自殺をする。
その後、宮針の後継者を務める人間を誰にするかという問題が原坂村を統治していた節渡群の宮下(現在でいう役所や県庁)で起こった。
宮針の候補として名を挙げた人物は2人いた。
1人が後に宮針となる曽野田紀世助、もう1人が金平定満である。
2人は実質宮下における2位の立場にいた。
金平は災害が起こる1年前に韋胡群(現在の愛知付近)からそこでの高い統治力を買われて節渡へきた。対して金平は生まれが節渡にある村、道竹村で、親は節渡の宮下に務めていた。
宮針の後継者を決める覇権争いは、最初は金平が優勢であった。高い政治力を買われていたというだけあり、後押しする人物が多数いた為だった。逆に曽野田は節渡における長い経歴を持つものの、目立った活動はなかった。また、宮針の後継者選びが通常の任期満了に伴うものでなく、突然起こったものであった為、両者ともに手回しをすることができなかった。そのせいもあって、目立った活動をより多く行なっていた金平に宮下の官僚は目を向けていた。
とはいえ、2位の立場にいる曽野田にも当然のことながら後援がおり、互いに引かぬ状況が続いた。
ところが、災害発生から10日後、災害における混乱が収まってきた原坂村、およびその周辺の村にその覇権争いの話が流れていった。村民からしてみれば、どこで何をしたのかいまいち理解できない金平よりも、長く地元にいた曽野田に対して好感が集まった。
災害が起こっていたと同時に、それより前から幕府との関係において上手くいっていなかった節渡群は市民の声を無視して、より溝を深めることはできないと判断した。その結果、最終的に覇権は曽野田に渡り、形勢逆転の形となった。そのまま曽野田は宮針につき、金平は呼んでおきながら宮針の地位を渡さなかった節渡群に怒りを感じ、生まれである韋胡群へと帰った。
金平がこの時詠んだ「雨降りし 流れいきては 元の国」という句は有名である。
この一連の覇権争いは2人の姓から「曽金の針取り」と呼ばれる。
根厳令の詳細
宮針の座を手にした曽野田には隠された関係者がいた。それが節渡群の隣にある清綱群の元宮針であった玖寺基嗣である。
曽野田の父が玖寺のいわば弟分であった。その為、曽野田が幼い頃からもう1人の父親として玖寺は曽野田を育てていた。曽野田の父は厳格者であり、玖寺の言うことも父親の言うこと同然として聞かされていた。父親は曽野田が11歳の時に死去した。曽野田は母親と兄弟4人でしばらく暮らした。その後、曽野田が宮下に務めようと決心した際に、その後押しをしたのが玖寺であった。
そして、曽野田が覇権争いを始めようとしていた頃、玖寺には大きな野望があった。それが節渡群を吸収し、本州南部を大きく統一し、その権力を強めると言うものであった。玖寺は宮針を退いてはいたものの、宮針時代に作った宮下における高い信用ゆえに、その権力は影で強いものとして働いていた。
曽野田の宮針就任後、玖寺は曽野田に対し、原坂村の崩壊を命じた。この出来事はその談話が行われたとされる玖寺の別荘地の名前から「参賀の密話」と呼ばれる。
曽野田は当然のごとくそれを受け入れ、また玖寺の狙いも認識した。当時清綱の宮針を務めていた風巻遠之進は高齢であり、近々引退すると曽野田は認識し、吸収後も高い地位でいられると判断したことも、それを受け入れた原因ではないかと考えられている。
そして、その崩壊を目的とした法令が「根厳令」であった。内容は、原坂村付近にある大きな山である水敷山の管理を全て節渡の宮下が行い、村民は近づいてはいけないとするものであった。その大義名分は、村民の不用意な行動によって、死者やけが人を出さないようにし、また宮下が一括で管理することで、山にある木々を使い、経済的復興効率を高めるというものであった。
しかし、その裏に隠された目的はその山にある木々を根絶やしにし、山のダムとしての力を緩め、土砂崩れの危険性を高めることが狙いであった。
村民は経験則や過去の言い伝えなどから、木々を根絶やしにすればそのような危険が高まることは知っていた。その為、曽野田もこの根厳令が村民まで伝わらないようにする為、宮下における自らの派閥の人間以外には伝えなかった。また、派閥の人間であっても、覇権争いの時に、途中から派閥の移動をした者には伝えなかった。しかし、この法律を形にする為に法案にあげると同時に、村民にもそれが届いてしまった。村民の激しい反対を受け、派閥でない者は法案に対し強く反発した。しかし派閥の移動をした者は他の派閥の人間からの強い圧力を受けたせいで反発することはできず、賛成せざるを得なかった。
結果として簡単に過半数を占めた曽野田派閥は、宮針としての権力を事実上は使ったものの、形式上では使うことなく、根厳令を、わずか13日間で採択した。
根厳令の結果
根厳令は速やかに施行された。また、崩壊の目標となる木々の根絶やしも大雨による事故がもう起こらないと判断されたその日のうちから行われた。木々はわずか2週間のうちに姿を消し、山は見るも無残な姿になったという。この時、その山を見た宮下の反曽野田派閥の人間が詠んだとされる「節渡 御山より絶ち 根や欠けん」(御山すなわち水敷山から根が絶えた、ということと、宮間すなわち宮下から政治を支える真っ当な人物が居なくなった、ということを掛けている。また、根や欠けん、は寝や欠けん、つまり寝ていられないということも掛かっている)は、根絶やしの句として、現在も水敷山の山頂にある石碑に刻まれている。
根絶やしになった山は耐久性を失い、曽野田の予定通り9ヶ月後の雨で土砂崩れが起き、4人の犠牲者が出た。