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私は性悪ミストレス

身の程知らずの悪党の末路 改訂版

作者: 銀ねも

 床に転がる俺の傍らにかがみこんだ伯爵が、俺の耳朶を摘まんで、小首を傾げる。


「おや? 私の贈り物、あのピアスは何処へやった? お前の瞳の色と同じエメラルドのピアスだよ。肌身離さず身につけるよう言いつけた」

「ピアスって、あれですか? あの電波発信器? あれなら、ニックの奴にくれてやりましたよ。お詫びのしるしにとっておけってね。あいつ、元気にやってます? あの時は容赦なくガツンとやっちまって、悪いことしました。後遺症とかそういうの、何も無けりゃいいんだが」


 俺は軽口を叩く。声は上擦って、掠れている。

  伯爵は人殺しが趣味の悪魔だ。恐ろしい化け物だ。そんな男が、俺の生殺与奪の権を握っている。


「面白いねぇ」


 伯爵は俺の前髪を鷲掴みにした。俺は首を逸らして伯爵を見上げる。伯爵は俺の耳に唇を寄せると、一音ずつ区切って言った。


「う、ら、ぎ、り、も、の」


 俺は伯爵の微笑をまじまじと見つめた。出会った頃から変わらない、綺麗に整った面構え。骨相が歪むまで、ボコボコにしてやりたい。伯爵の指図で、元同僚達が俺をそうしたように。


 伯爵が俺の顎を掴む。爪の先まで整えられた優美な手だ。ピアノの鍵盤を叩いて美しい音色を奏でるのが似合いそうだ。ところが、この手が実際に奏でるのは他人の悲鳴と断末魔で、爪弾きにするのは、他人の恐怖と苦痛なのだから、この世には優しさとか、慰めとか救いとかが、圧倒的に不足していると思う。


 伯爵は俺の顔を覗きこむ。この綺麗な面に唾を吐いてやったら、この不吉なアルカイックスマイルに罅を入れることが出来るのか。俺ではない勇敢な誰かさんに、是非ともお試し頂きたい。俺にはとてもじゃないが、出来そうにない。俺はマゾヒストじゃないからな。可能なら、今すぐに、真性のマゾヒストになりたいんだが。そうしたら、これから先、かなり楽しめるだろう。


 伯爵は無精髭の生えた俺の顎を撫でながら、とりとめのない口調で言った。


「お前は私を愛さない。私はお前を可愛がっていたのに、お前は私を毛嫌いしている。何故だろう?」

「俺の好みをご存じ無い? 金髪碧眼の巨乳美女だ。あなたはブロンディーですけど、おっぱいはないし、股座に余計なモノが生えてるでしょ」

「私が人殺しの悪党だから?」


 俺の下品な減らず口を黙殺して、伯爵は小首を傾げる。わかってるなら訊くんじゃねぇよ。


 伯爵は俺の顎をつかみ、下唇を親指のはらでなぞりながら、物憂げにため息をつく。


「そうだろうね。お前は優しい男だから。しかしね、お前にも私のような、人殺しの血が流れているのだよ」


 やっぱりな。このクソ野郎、俺のことを何から何まで調べてやがる。クソ親父は、酒と薬の為なら、なんでもするようなクソッタレだった。親父が人を殺す瞬間を目撃したことはない。だが、親父は人殺しだ。


 親父は俺の弟を殺した。俺には人殺しの血が流れている。それだけじゃない。弟を殺したのは親父だけじゃない。あいつを捨てたあいつの母親、あいつを虐めて悦に入ったあいつの客。そして、あいつを見殺しにしたこの俺。皆して、あいつを切り刻んで殺した。


 伯爵は俺の顰め面を食い入るように見詰める。そうして、その白い顔に微苦笑をじわりと滲ませた。


「可愛いルカ。可哀想なルカ。お前は何も知らない」


 チクショウ。ニヤニヤしやがって。気色悪いんだよ。そもそも、第一印象からして最悪だった。気に入らない点はいくつかあるが、特に嫌なのが薄い唇だ。


 その酷薄な唇の端がめくれるのを見るだけで、ゾッとする。隠れていた悪意が飛び出してきて、残酷なことを始める。その合図に思えてならない。


 俺は真っ当な道から大きく外れている。俺はこの伯爵が、ドラキュラみたいな怪物だと知っていて、彼の手をとった。ところが、実像は想像よりずっと悪かった。とどのつまり、俺は甘いのだ。甘ったれの甘ちゃんだ。見通しが甘い。何もかも、甘すぎる。


 うんざりして目を閉じると、床に転がる俺の姿が見えた。床に倒れた肉体は、傷だらけて血を流していて、痛々しい。それは、すでに死んでいる。


 俺は自嘲した。そんなバカな。俺の末路はこんなものじゃない。一目で俺だとわかるような、綺麗な死体は俺じゃない。


 痛めつけられた肉体の苦痛は、火の玉みたいに燃え盛っている。辛いことが余計に辛かった。この程度のことは挨拶代わりだ。これで参っていては先が思いやられるぜ。


「人魚って、いるだろう」


 伯爵は朗らかに言った。俺の神経はりつめて、切れちまいそうだ。いっそのこと、一思いに切れちまえば良いのに。


 応えたくなかったが、無視するなんて怖くて無理。俺は仕方なく応えた。


「お伽話の中になら」


 伯爵が笑った。


「現実にも人魚はいる。私がつくるから。お前は可愛い人魚になるんだよ。ピアスは、新しいのを贈ろうね。うんと可愛くしてあげよう。だから、可愛い可愛い、私のルカ。楽しませてくれ」


 俺は絶句した。


 俺は脚を切られ、その断面に海獣の下半身を縫いつけられ、硫酸のプールに放り込まれる。


 伯爵は新しい遊びを思い付くと、聞いてもいないし、聞きたくもない俺に話して聞かせる。『人魚姫』はその中でも、とびきりぶっ飛んだもののひとつだった。


 犠牲者は、苦痛のあまりバシャバシャやっているうちに、ドロドロにとかされて死ぬ。『人魚姫は泡になって消える』のだ。


 それが俺の末路。なんてこった。ヒーローごっこの代償は高くついた。


 『伯爵』は血に飢えている。裏切り者の俺は、異常なやり方で責め苛まれて、殺される。


 後悔なら死ぬほどしているが、人生はやり直しが利かない。


 もし、神様が降りてきて、やり直す機会をくれたら、どうだ? 俺はあの子を見捨てるか? いや、やり直せるなら、俺はあいつを助けたい。


 ……うん。どっち道、俺は死ぬ。


 俺は目を閉じた。


 いっそ、このまま死んでしまいたいと願いながら、俺は、こうなった経緯を思い返していた。




 ***


 血に飢えた伯爵のシャトーにて。夜な夜な盛大に催される夜会は、悪趣味を極めていた。


 夜会は快楽の為の遊び場だ。高貴な悪魔たちは伯爵のもとに集い、楽しむ為に人を甚振る。


 美人の泣き顔が扇情的だって意見は、わからなくもない。だが、細切れにしたり、輪切りにしたり、黒焦げにしたりする楽しみは、さっぱりわからない。わかったらおしまいだ。


『生贄』の殆どは、金で売り買いされる奴隷だ。伯爵曰く、結構、需要があるらしい。大枚はたいて人殺しを楽しむ悪魔的な変態は伯爵とそのお仲間たちだけじゃないってこと。この世界は地獄だ。


 需要があれば供給がある。世の中には、忽然と姿を消しても差し支えない人間が、ゴロゴロ転がっているのだ。


 うちの末弟なんか、まさしくそれだった。


 親父は、アル中にしてヤク中のクズ野郎。五人の物好きな娼婦が親父と暮らして、ガキを一人ずつ産んだが、全員が親父に愛想を尽かし、ガキを捨てて家を出た。


 俺を産んだ母親の顔を、俺は覚えていない。声だけは、なんとなく覚えている。高く澄んだ声が豊かに弾んで、俺の名前を呼んでいた。歌手になる夢を追いかけてここまできたが、多くの同郷の怠け者たちと同じように、敗けて埋もれた。その程度の女だと嘲る親父の酒やけしたダミ声は耳障りで、俺は大嫌いだった。 


 親父は機嫌が良くても悪くても、いつも誰かを嘲笑って、薄い唇を意地悪くひん曲げていた。また、酒と薬のためなら、何をしでかすかわからない、危険な男でもあった。 


 酒と薬を切らすと、発狂した親父に殺されかねない。だから俺達兄弟は、それぞれ金策に奔走した。


 俺は専ら盗みで稼いだ。物心ついた頃から、他人のものをくすねて暮らした俺の、手癖の悪さは折り紙つきだ。それなりに悲惨なガキだと言って差し支えないんじゃなかろうか。


 だけど末の弟は、俺なんか目じゃないってくらい、悲惨だった。


 俺が六歳になった年に、あいつは生れた。あいつの母親は後光がさすような美女だったが、とにかく頭が弱かった。ついこの間までハイハイしていたてめぇのガキが、端金と引き換えに、ペドフィリア野郎のオモチャにされても、にこにこ笑っていられるような。ある意味、幸せな女だった。

 ひぃひぃ泣いているあいつの髪を撫でて、お薬を買って来てあげる、とかなんとか言って出掛けて行ったきり、帰ってこなかった。


 親父はますます酒と薬に溺れ、機嫌が良かろうが悪かろうが、あいつを殴った。蹴った。それだけじゃ飽き足らなくなった。あいつの客は、拷問好きのド変態ばかりだった。


 あいつはいつも、傷だらけの体と、色が抜けて真っ白になった頭を抱えて、ガレージの隅でぼんやりしていた。


 あの家で、親父だけがあいつを見ていた。俺達は皆、見て見ぬふりをしていた。あいつに関わるとろくなことがないからだ。  


 俺はあいつの口に飴玉を放りこんだところを親父に見つかって、肋骨を折られた。すぐ下の妹は、あいつに朝の挨拶をしたところを親父に見つかって、前歯を折られた。二人のバカを見て学んだ、利口な弟と妹は、あいつとは目も合わせなかった。


 恐怖と苦痛と孤独が、あいつの日常だった。誰も、それ以外のことをあいつに教えなかった。


 あいつがいなくなった日、親父は上機嫌だった。まとまった金が手に入ったと言っていた。あの淫売を地獄に叩き落としてやった。ざまぁみろ、とも言っていた。つまり、そういうことだった。


 あいつがいなくなった、翌年。十五歳になった俺は、家を出た。


 ニューヨークの下町、性根の腐った貧乏人が犇めくスラム街を後にして、各地を転々として。俺はたどり着いたニューハンプシャーの田舎、人里離れた森の中にある黒々としたシャトーに住み込みで働いている。伯爵はそこの主人だ。 


 伯爵はいつも祖国を恋しがっていた。恋しく想う故郷があるのは素敵なことですね、と俺は無難に愛想を言う。文句があるなら帰れとは、口が裂けても言えない。なぜか? 分かりきったことを。命が惜しいからに決まってるだろうが。


 伯爵はすべてを見透かすような視線を、俺に投げ掛ける。お前のことはすべてお見通しだと言わんばかりだ。故郷を、家族を、過去を、何もかも捨てちまった俺は、空っぽで、おまけに穴が開いている。いつまでたっても満たされない。俺はそういう人間だ。一から十まで知り尽くしているから、伯爵の微笑はいかにも慈悲深く、俺を憐れんで、俺を貶める。


「この国に、本物の文化はない。何もかも、かりものだよ。このシャトーだって、石材を丸ごと輸入しなければ、建たなかったのだからね。しかし、ここには夢がある。ファンタジーを楽しむには、うってつけの国だ」


 鹿爪らしく伯爵の靴紐を結び直しながら、俺はこっそり舌を出す。そんなに夢がお好きなら、永久の眠りにつくことをお勧めします。お休みなさい、素敵な悪夢を。


 伯爵がその邪眼を開いて見る夢は、邪悪なファンタジーだ。壮絶な最期はいつも、俺のすぐ傍にある。


 奴隷の恐怖と苦痛は最期まで、途絶えることがない。禁忌なんてない。何もかも、悪魔のお気に召すまま。仔羊は生きながら食い殺される。神は死んだ。少なくとも、俺達が生まれる前には、既に。


 ファンタジーが具現化して、人を食い殺す瞬間を、俺は数え切れないくらい、目の当たりにして来た。時々、考える。金持ちの道楽で殺される奴隷の人生に、楽しいとか、嬉しいとか。幸せを感じられる瞬間はあったんだろうか。


 そんなことをつらつらと考えると、決まって、あいつを思い出す。


 俺はあいつの腹違いの兄貴だが、俺は血の繋がりを、特別な繋がりだとは思わない。死にかけたあいつが俺の袖を掴んだとき、俺はその手をすげなく振り払った。


 あいつは勘違いをしていた。勘違いさせたのは俺だ。飴玉なんか、やらなきゃ良かった。どうしてヒーローを気取ったりした? 鏡を見てみろ。どこからどう見たって、俺は悪党だろうが。


 俺は伯爵の傍に控えている。話しかけられれば、面白がられるようなことを言う。笑うべきときには笑いもする。笑えることなんか、何もないが。


 そうやって、やり過ごしている間にまたひとり、奴隷が死ぬ。またひとり見殺しにして、俺は生き延びる。


 これまでずっと、そうしてきた。俺はヒーローじゃない。だからと言って、悪魔でもない。たいしたことない小悪党だ。小悪党らしく、狡賢く立ち回れば、それなりに、生きてゆけると思っていた。




 ***


 その日の夜会で、高貴な悪魔たちの食卓に饗される生贄は、二人の少女だった。年の頃は、姉は十代後半で、妹は十代前半。お揃いの艶やかな黒髪と神秘的な黒瞳が印象的だ。よく似ているから、一目で姉妹だとわかる。二人とも、目はぱっちりしていて、色白で、鼻の頭はつんと尖っている。


 キラキラ眩しい美人姉妹の登場に、高貴な悪魔達は色めき立った。


 姉妹は目に見えて憔悴していた。虐待と失神、泥のような昏睡を繰り返せば、筋骨隆々のタフガイでもこうなる。

 伯爵が買いつけてくる奴隷たちは、本格的な調教を受けていないが、夜会に出されるまでの過程で、奴隷達はひとり残らず、恐怖と苦痛を骨の髄まで叩き込まれる。


 以前、遊びの最中に奴隷が失神したことがあった。伯爵は、奴隷に応急処置を施し、生理食塩水に栄養剤と気付け薬を混ぜたものを注射するよう、俺に命じた。


 嫌な役割りばかり回してきやがる。俺に何の恨みがあるって言うんだ。


 なんて、不平不満は漏らさず、作業にとりかかる俺の背後に伯爵が立つ。虚ろな視線を彷徨わせる奴隷を見下ろして、伯爵は言った。


「『夜と霧』を読んだことは? ふむ、ならば読むと良い。アウシュビッツの囚人達もこの子と同じように、呆然と目を見開き、闇の一点を見つめていたことだろう。人間というのは、理不尽な暴力に晒され続けると、感情活動が麻痺する。慈悲深い神によって、そのようにつくられたのだ。だが、奴隷に慈悲は不要だろう。奴隷は人ではないのだからね」



 文盲の俺を捕まえて、読むと良い、ときたもんだ。バカにしてんのか、畜生。とかなんとか心のなかではまぜっかえしながら、俺は息を詰めた。ピストンを押す指先の震えを抑え込むのに苦労した。  


 結局、その奴隷は首を捩じ切られて死ぬまで、意識を鮮明に保ったまま、伯爵と高貴な悪魔達の遊びに付き合わされた。


 これから姉妹を待ちうけるのは、それを凌駕する恐怖と苦しみになる。夜会のお遊びは、回数を重ねるごとにエスカレートしていた。


 高貴な悪魔たちは、なごやかに、冗談を言い合って笑いさざめきながら、グラスを傾ける。歓談を交えつつ、調教のプランについて話し合う。寛いだ様子で抜け目なく、彼らの発言に対する奴隷の反応を観察し、調教プランを練っている。想像は痛みを鋭くすると言うのが、伯爵の考えだ。


 使用人達が伯爵の指図で、道具を揃え、舞台のセッティングをする間、俺は伯爵の傍に控え、彼や来賓に酒を注ぎ、軽食を取り分ける。 


 伯爵曰く 


「お前はかわいくて愛想が良いから、接待に向いているんだよ」


 とのこと。なるほど、俺は可愛いのか。俺が鏡を覗き込むと、目の下のクマが目立つ陰気な男が、切れ上がった瞼の間から、やたらと目立つグリーンの瞳でこちらを睨みつけてくるのは、何かの間違いか。俺の目がおかしいのか。それとも伯爵の頭がおかしいのか、どっちだ。どっちでも、たいして変わらないか。


 客の求めに応じて、酒と料理をのせたワゴンを押して回る。ただそれだけの、楽な仕事だ。しかし、忘れちゃならないのが、ここでふんぞりかえっている奴ら全員、人間を切り刻んで、苦しめて痛めつけて、肉片にして喜ぶキチガイだってこと。ライオンの群れに放り込まれたインパラにでもなった気分だ。


 伯爵は、俺が嫌がっているのを知っていて、給仕の役を回してくるに違いない。そのうち、嫌がる俺を無理矢理、舞台に立たせようとするかもしれない。次に切り刻まれるのは、俺なのかもしれない。


 奴隷は人間では無いから、神の慈悲は与えられないと言って憚らない伯爵は、彼の思想で言うところの、最も人間らしい人間だ。神は彼を贔屓した。地位と名誉、莫大な資産に加えて、頭の先から爪先まで黄金律が適用された、完璧な美貌まで与えた。そこまで手をかけておいて、まともな人間性を与えなかったのは、手落ちか手抜きか。どういう了見だ。神様よ。


 伯爵がワイングラスを持ち上げる。合図を見逃さず、伯爵のグラスにバルバレスコを注いだとき、奴隷姉妹の、姉のほうが叫んだ。


「私は、どうなっても構いません! ですから、妹は、妹だけは、助けて下さい。お願いします!」


 奇跡が起こった。俺がバルバレスコを伯爵の腹にぶちまけなかったことも。恐怖と苦痛に支配されたこの地獄で、ハイティーンの少女が妹を庇ったことも。奇跡だ。


 水を打ったようになる会場で、伯爵は、優美な曲線を描く眉を上げた。たったそれだけで、痺れるような緊張がはしる。俺だけじゃない。その場に居合わせた全員が凍りついた。


『奴隷は主人の快楽に仕え、欲望を解消する為に存在する』


 それが、伯爵が定めた絶対の掟だ。奴隷は主人に最大限の敬意を払わなければならず、不服従は許されない。口答えも反抗もダメ。主人に意見するなんて、それもよりによって、伯爵に要求するなんて、もってのほかだ。


 伯爵が目を伏せる。くるりと上を向いた長い睫が、瞳に影を落とす。彼の頭髪はプラチナブロンドだが、眉と睫は瞳と同じブラウンだ。眉墨要らずのマスカラ要らず。ぬけるように白い肌には、ファンデーションも要らないだろう。頼むから、善良な美女に生まれ変わってくれ。


 出し抜けに、伯爵が手を叩いた。手綱を引かれたかのように、皆が伯爵に注目する。


「麗しき姉妹愛に胸を打たれた。もし、それが本当ならば、こんなに素晴らしいことはない。ほ、ん、と、う、な、ら」


 伯爵の笑顔が眩しい。俺は卒倒しそうだった。伯爵には近寄りたくないと、常日頃から思っているが、こう言うときの伯爵とは、おなじ空気を吸うのも耐え難いと思う。


 裸に剥かれて、吊るされた少女の細い足は、生まれたてのバンビみたいに震えていた。怖いもの知らずって訳じゃないらしい。怯えながら、それでも、妹に微笑みかけた。


「大丈夫。大丈夫よ、アマンダ。姉さんが守ってあげるからね」


 アマンダが、目を見開いた。か細い声で姉を呼ぶ。みるみるうちに瞳が潤み、大粒の涙が窶れた頬を伝った。


 アマンダは姉のもとへ駆けつけようとした。屈強な男に押さえ付けられても、諦めず、アマンダは足掻いた。泣き叫び、姉へと手を伸ばす。大の男が小さな女の子に手を焼いている。アマンダは必死だった。


 伯爵は、アマンダにギャグを噛ませるよう、俺に命じた。三度、同じ命令を繰り返されて、俺は我に帰った。わたわたと用意をして、アマンダのもとへ駆け寄る。慌てて、不用意に手を伸ばすと、親指の付け根に、思いっきり噛みつかれた。甲高い声が、俺を罵る。


「この悪党! 姉さんに酷いことをしたら、許さないから!」


 俺はアマンダにギャグを噛ませた。突き刺さる言葉を封じても、突き刺さる視線からは逃れられない。俺は、俺の半分も生きていない女の子の、鋭い瞳を恐れた。


 俺を傍に呼び戻すと、伯爵は姉の方を向いた。

 始める前に、気が変わればいつでも言うように、と言った。


「無理強いはしない。お前は本当の痛みを知らないようだから」


 伯爵は、舞台の端で木偶の坊をしている俺を手招く。伯爵のもとに駆け寄ると、伯爵は俺の耳許で囁いた。


「あの娘は裏切るかな? どう思う? お前なら、どうする?」


 伯爵は明らかに、姉の翻心に期待していた。妹なんかどうでも良いから、一思いに殺してと、意地も誇りもかなぐり捨てて、無様に泣き叫ぶ醜態を見たいんだろう。俺だったら切りつけられた瞬間に屈伏して、無様に命乞いをする。伯爵は、その醜態を嘲笑いたいんだろう。


 ところが。健気な少女は胴を切り離され、息絶える最期の瞬間まで、妹を守るという誓いを撤回しようとはしなかった。



 ***


 アマンダの慟哭が、俺の頭の中で反響している。彼女が地下牢へ連れていかれ、高貴な悪魔たちが去った後も、ずっと響いている。


 こう言うとき、人生を左右するこうした局面には、言葉が消える。


 映写機がフィルムを巻き戻すように、音の無い追想が駆け巡っていた。


 俺がくれてやった飴玉を口のなかで転がすあいつの顔。瞼の腫れ上がった目を細めて、切れた口角をほんの少し上げた表情。まるで、笑っているみたいな。


 俺とあいつは、親父の目を盗んで、同じグリーンの瞳で見つめあった。

 あのとき、あいつは何か言っていた。何て言っていたのか、ずっと謎だった。今になって、わかった。


『兄さん』


 そうだ。あいつは俺を、兄さんって呼んだんだ。


 俺はあいつの兄貴で、あいつは俺の弟だった。あいつは俺へと手を伸ばした。兄貴を頼ったのだ。


 あのとき。悪魔じみた客に切り裂かれて、血塗れになって、死にかけたあいつが、真夏のガレージに閉じ込められたとき。


 もしも、俺がバカだったら。救いようのない大バカだったら。アマンダの姉さんみたいな兄貴だったら。

 俺は親父に立ち向かっただろう。怒り狂った親父に殺されたかもしれない。殺されなくても、無事では済まない。親父は装填したショットオフを振り回していた。  


 俺はずるくて賢いから、あいつを見捨てて、生き延びた。

 アマンダの姉さんは勇敢なバカだから、アマンダを庇って死んだ。  


 アマンダの瞳にうつる彼女の姉さんは、気高く美しかった。あいつに飴玉を分けてやるとき、あいつの瞳にうつる俺だって、負けちゃいなかった。あいつの瞳のなかでなら、俺はヒーローになれたんだ。


 俺は生きている。だけど、死ぬほど後悔している。気がついたら、もう、ダメだった。


 地下牢へ忍び込んだ俺は、アマンダの拘束を解いた。自由になったアマンダは、金切り声をあげて襲いかかってきた。


 アマンダの小さな拳が、膝をついた俺の顔を滅茶苦茶に殴る。目を開けていたら目を潰される。顔を背けながら、何とかして、アマンダを宥めようとした。


「ちが、ちがう。俺は、き、きみを」


 ひどく興奮していて、言葉がつっかえる。言いかけて、口ごもる。


 何が違う? アマンダの姉さんを殺す片棒を担いだ俺に、何が言える? なにも言えない。言える筈もない。だからと言って、ここで黙って目玉を抉られる訳にはいかなかった。


 アマンダは遅かれ早かれ、彼女の姉さんと同じ運命をたどることになる。彼女の姉さんはゲームに勝ったが、伯爵は奴隷との約束より、己の快楽を優先するに決まっている。だからこそ、俺はここまで来た。同僚を三人、殴り倒して。死んでなきゃ良いが。


 俺はアマンダと見つめあった。黒い瞳を覗きこみ、その奥に怒りを、さらなる奥に悲しみを見る。耳朶にビリッとした痛みが走る。アマンダがびくりと竦み上がって、手を引いた。右手の拳から、血が滴っている。ピアスを引きちぎったようだ。


 首輪が外れた。俺は自由だ。


 体が軽くなった。心も軽くなった。今なら、飛び立てる気がした。


 俯くアマンダの顔を覗きこむ。戸惑い顔が可愛かった。俺は笑った。笑うのは久しぶりだ。


「君を、助けに来た。君の、姉さんと約束したんだ。絶対に、君を助けるって」


 勝手に、一方的に、な。


 アマンダが目を見開いた。鏡面のように、俺ばかりを映し出す双眸を見つめる。俺自身の心の裏側がさらけ出されていた。


 理屈じゃない。俺は、俺の弟を助けたかったんだ。だけど俺は、出来ないと決めつけて逃げ出しちまった。これは神様のくれたチャンスだ。俺はアマンダへ、手をさしのべる。


「俺と一緒に来てくれないか」


 アマンダの躊躇は短かった。彼女は姉さんの遺志を、しっかりと受け止めていた。


 俺はアマンダの手を握った。今度こそ、掴み損ねない。


 俺はアマンダを抱えて、黒いシャトーから逃げ出した。ピアスは床でのびた同僚の尻ポケットに突っ込んでおいた。



  俺はこうして、また過去を捨てた。俺が過去を切り捨てても、過去が俺を逃がさない。俺は逃げ切れない。わかっていても、俺は悪党のまま、終わりたくなかった。



 ***


 アマンダを陽のあたる世界へ送り出す為に、俺は手を尽くした。あちらこちらを転々としてきただけあって、知り合いは多い。


 そこから、アマンダを託すことの出来る、完璧な人間を見つけるのは、一朝一夕の仕事じゃなかった。


 その間、俺とアマンダは各地を転々とした。一緒に過ごす時間はたっぷりあるが、交わす言葉は限られていた。アマンダは彼女から大切なひとを奪った人殺しの悪党を憎んでいる。当然だ。全面的に俺が悪い。


 時々、アマンダは癇癪を起こす。泣き叫んで、俺を殴ったり蹴ったり、物を投げ付けたりする。死なない程度にやってくれる分には構わない。辛いのは、嵐のあと。膝を抱えるアマンダの後ろ姿を見るのが辛い。悪夢に魘されるアマンダの苦しむようすを見るのが辛い。何もしてやれない自分を殴り殺したくなる。


 悩み悩んで、俺がしたことといったら、かわいそうなアマンダの傍らに、飴玉を置いておくことくらいだ。

 それが精一杯だった。一瞬でも良い。甘い飴玉が、アマンダの心を慰めくれないだろうか。


 わかっている。俺はどこまでも独り善がりだ。アマンダには見透かされている。飴玉は必ず、ゴミ箱の中でゴミに紛れていた。


 俺が別れを告げたとき、アマンダは黙って頷いた。いつもの通り、俯いたまま、落ち着かないようすで指先を擦り合わせていた。


 俺は戸惑っていた。ようやく、俺と離れられるんだ。アマンダはもっと喜ぶかと思った。俺の紹介だから、信用できないってことか?

 そう考えると、虚しくなる。そんな資格は無いってことは、わかっていても。


 俺はアマンダを心ある仲介人に引き合わせた。仲介人は、アマンダの為に新しい人生を用意すると約束してくれた。博愛と奉仕の精神、正義感と慈悲の心を持ち合わせたナイス・ガイだ。疑り深いこの俺が、この人ならば信用できると見込んだ男だ。アマンダも納得してくれたように思う。仲介人と話すと、表情が柔らかく和んで、見違えるほどだった。


 仲介人といったんわかれ、二人で過ごす最後の夜。アマンダは癇癪を起こした。これまでで、最も激しい癇癪だった。アマンダはナイフを持ち出した。


 殺されると思った。それも良いと思った。すぐに我にかえって、思い直したが。アマンダの手を、悪党の薄汚い血で汚すわけにはいかない。この子は明るい未来を生きていくんだから。


 そう言ってナイフを取り上げると、アマンダはその場にへたりこんだ。近づこうとすると、長い髪を振り乱して叫んだ。


「気持ち悪い! あんた、気持ち悪いんだよ! なんで、姉さんはあんたなんかに……あんたが死ねば良かったんだ。あんたみたいな偽善者、生きてる価値ない! ものすごく苦しんで、ものすごく痛がって、死んじゃえばいいんだ、あんたなんか!」


 アマンダは泣いた。俺はただ、その場に立ち尽くしていた。飴玉が、ボロボロと床に落ちた。


 次の日。仲介人がアマンダを迎えに来た。俺は彼を、扉の前で迎えた。痣と切り傷に埋もれた俺の顔を見て、怪訝そうに顔をしかめる仲介人を待たせておいて、俺は大急ぎで部屋を片付けた。


 アマンダは窓辺で膝を抱えて大人しくしていたが、俺が彼女の足元に散らばった飴玉を拾おうすると、猛犬みたいに俺を睨んで唸った。

 仕方がない。片付けは諦めて、仲介人を招き入れた。


 仲介人は部屋の隅で小さくなるアマンダの前で膝をつき、視線の高さを合わせた。にっこりと感じの良い笑顔を浮かべた仲介人の差し出す手に、アマンダはその手を重ねた。


 アマンダは去った。俺は二人の背中が見えなくなるまで見送った。アマンダは一度も振り返らなかった。


 ひとり、モーテルの部屋に戻った俺は、部屋を見回した。はて、と首をかしげて、ゴミ箱を引っくり返す。アマンダがはなをかんだ紙屑が床に散乱する。その他には、何もない。


 しばし放心した後、俺はマッチを擦り、火を点ける。赤く昇る陽炎の中に、見たこともない、アマンダの笑顔を思い描いた。やけにリアルだ。にやけちまう。


 窓辺に立ち、煙草をくわえる。薄暗い室内に、小さな火が灯もる。役目を終えた火は、さり気ない一振りで、呆気なく消え失せた。


 茜色の空をゆっくりと流れる浮雲を見上げ、俺は溜息のように紫煙を吐きだす。


 ガキの頃。親父の留守に、俺は適当な理由をつけて、末の弟がいるガレージへ立ち寄ることがあった。探し物をする合間に、あいつの隣に腰をおろして、一服することもあった。煙で輪をつくって見せれば、あいつは目を輝かせて手を伸ばしていた。まるで、雲を掴もうとするみたいに。


 俺は空へ手を伸ばした。短い手は空高く流れる雲には決して届かない。さっきまでそこにあった紫煙さえ、手の届かない高みへ昇ってしまった。


 残酷な伯爵は、今頃、笑っているだろう。俺を捕えたあとの、めくるめく残酷な拷問と処刑に想いを馳せて。同僚達は呆れているだろう。奴隷を盗み出すなんて、狂気の沙汰だ。まともじゃない。 


 俺はおかしくなった。だからこそ、血に飢えた伯爵との追いかけっこをやってのけたんだ。アマンダを送り出したら、気が抜けちまった。神経を極限まですり減らしてきた。もうまっ平らだ。頭がぼうっとする。


 背中を窓に擦り付けて、床に座り込む。ベルトにさした、抜き身のナイフを引き抜いた。手にとって、まじまじと眺める。


 どうする? 死ぬなら今しかない。今死ねば、苦痛は少ないぞ。   


 俺は悩んだ。悩んで悩み抜いて、ナイフを空っぽのゴミ箱に放り込んだ。


 逃げるな。せめて、最期くらい。もしも死後の世界があったとしたら、どうだ。ここで逃げたら、あいつにあわせる顔がないだろう。


 俺みたいな悪党は、苦しんで痛がって、死ななくちゃ、おさまりがつねぇんだからよ。


 それにしても、驚いた。俺は博愛主義者じゃない。もしそうだとしたら、いくら金が欲しくたって、あんな狂ったシャトーで、働けやしない。


 どうしても、放っておけなかった。あんなところで、死なせたくなかった。逃がしたかった。


 なぁ、アマンダ。幸せになってくれ。

 君が自由になれたら、幸せになれたら。俺は死んでも、希望が残る。このがらんどうの胸に火がともる。灰になったこの体は、その温もりに寄り添って、どんなに苦しんでも、安らかに逝けると思うんだ。

 とどのつまり、君の言う通りだよ。俺の自己満足に付き合わせて、悪かったな。


 俺は空を見上げた。太陽は地平線の向こう側へ去り、夜の帳が下りる。


 ドアが叩かれた。聞き覚えのある怒鳴り声がした。包囲されたようだ。逃げ場は無い。


 膝が震える。歯の根が合わない。まだ始まってもきないうちから、俺はガタガタになっている。いざ伯爵のお遊びが始まったら、どうなることやら。


 アマンダ、君の姉さんは本当にすごいな。こんな恐怖に揉みくちゃにされながら、毅然としていられるなんて。君の姉さんは特別だよ。


 俺はダメだ。もう既に、後悔している。たぶん無様に許しを乞うだろう。君の姉さんのようにはいかない。君を逆恨みするかも。


 俺は笑った。


 あり得る。なんといってもこの俺は、身の程知らずの呆れた小悪党だ。


 それでもいい。俺の心がポッキリ折れても、アマンダは大丈夫だ。俺は何も知らない。俺が知っている程度の情報がもれたところで、なんてことはないよう、仲介人が万事取り計らってくれた。


 もちろん、見苦しくなく死ねたらそれに越したことはないんだが、そうは問屋が卸さない。伯爵の残酷さも、俺の小物ぶりも、俺はよく知っている。


 俺らしくて良いさ。俺はヒーローにはなれない。血迷っただけの小悪党だ。


 扉が蹴破られる。俺は瞳を閉じる。


 瞼の裏に浮かんだのは、飴玉を頬張るアマンダの顔。その表情は、笑っているように見えた。


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[良い点] 伯爵様がすてきな点。 家族の誰かがちゃんとスノーウィーを気にかけてくれた点。 [気になる点] 伯爵様に可愛がって貰えるのに感謝の気持ちを持たないルカ君。 [一言] 伯爵様に可愛いと言って貰…
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