室生紗智の話(下)
ふわああああ~~……
廊下を歩きながら、口全開で大あくびしてしまって、慌ててきょろきょろあたりを見回す私。大丈夫、誰も見てない見てない。
寝坊して全力疾走で出勤するなんて……小学生みたい。情けないですよね。
今日は朝から外来の担当です。
髪をささって整えながら(ナースさんたちのチェックにひっかかると変な噂されちゃうから、結構気を遣うんです)、ナースステーションでカルテのチェックしてた時。
「あんた室生さんだろう?」
白髪交じりのポロシャツ姿の男性が、杖を突きながらこちらにカウンターの向こうからにこにこ手を振っていました。
外来の患者さんみたいだけど。えっと……誰でしたっけ?
「あの……」
「あぁ覚えてないかい? 昔はよくおうちにお邪魔したんだが」
「はぁ……?」
「えー城井さんて室生先生のお知り合いだったんですか?」
ナースの田所さんと宮本さんが興味しんしんて感じで近づいてきます。
シロイ? 記憶力はいい方なんですけど……そんな人、患者さんにいたでしょうか?
「彼女のお父さんがね、僕の上司だったの。そりゃ優秀な人でねえ。みんなの憧れだったよ」
ギクリ。呼吸が不規則に飛び跳ねました。
お父さんの、部下……。
どうして朝からそんな話を聞かされなきゃいけないの?
「えーだって城井さんてもと……」
田所さんが目をキラキラさせて興奮しています。
「えー何? 何? もと、何よ?」
訳が分からない、って感じの宮本さんに、田所さんがこそこそっと耳打ちしました。
「え、うっそぉ! じゃ、室生先生のお父さんて……マジでぇ!?」
えーっと……キャラ変わってますけど、宮本さん。
黄色い声が、耳元でぎゃんぎゃんうるさく響きます。
あぁこれで今日の午後には医局中が私の家族の話題で持ち切り、決定ですか?
「お兄さんも忙しいだろう。お父さんを凌ぐ逸材だって、噂はあちこちで聞いてるよ」
「はぁ……」
――優秀な息子さんで、うらやましいですな。将来が今から楽しみだ。
――さすが室生の血をひいてるだけある。
私は? 私は、誰?
私は、この家の子どもじゃないの?
見て、誰か、私を、見て!
「えー室生先生、お兄さんがいらっしゃったんですか?」
「知らなかったー!」
はしゃぐ2人に、城井さんは打ち明け話するみたいに顔を寄せる。
「たしか、まだ独身だよ」
ええーーーほんとですかーちょっとわたしねらっちゃおうかなーー室生先生のお兄さんだと、三十半ばくらいですか? 全然オッケー! 室生先生えー紹介してくださいよーー写メとかないんですかーー
バンッ!
思わずカルテをテーブルに叩き付けてしまって、私はハッと周りを見回しました。
城井さんをはじめ、周囲にいたナースさん、患者さんたちが、みんなあっけにとられてこっちを見てる。
あ……バカな私!
「診察……始まりますので」
言い訳をもごもごつぶやいて、私は逃げるようにナースステーションから飛び出したのでした。
もういや! こんなの、もうたくさん!
厄日、仏滅、大殺界……そんな言葉が頭の中に浮かびました。
一体いつまであの家に縛られなくちゃならないの!?
家を出て一人暮らしして、接点をもたないように避け続けてるのに、家族ってだけでつながり続けなきゃいけないんですか!?
募る苛立ちを紛らわせるように、私はほとんど駆けるように、廊下を歩いていました。
苛立ちの原因は、今朝の城井さんとのやりとり、そして……なんと午前の外来に、2人も「剛」って名前の方がいらっしゃったこと、でしょうか。兄さんと同じ名前の。
それだけ? って思いますか?
そう、たったそれだけです。それだけですけど……。
どす黒い何かが、そのたびに体の奥でうごめくような気がして、胸をギュッとつかんで気持ちを抑え込まなければならなくて。
イライラした気持ちが、態度にまで出てたみたいです。なんとなく、みんなが私を避けてるような気がします。
今日は早めに帰ろう。そう決めて医局員室のドアを開けた私の耳に、話し声が飛び込んできました。
「いいよなぁ、教授の秘蔵っ子は、研究も自由にやらせてもらえて」
「低酸素脳症の意識障害ってただでさえ回復率低いんだぜ? そんなもんに何年も莫大な研究費使ってさあ、何の意味があるんだって思うよな」
結城先生と熊野先生だ……。
や……こっちに来る!
ど、どどどうしようっ!
キャビネットの影に隠れたドアに向かって、二人が歩いてくる音が聞こえます。
隠れた方がいいの、この場合? ああ、でも! 足が、足が動かない!
ドアを開けたまま固まっていたら、結城先生が「げ」て声をあげて、私たち、バッチリ視線が合っちゃった……。
「おっと、聞こえちゃいましたか」
黙って下を向く私に、熊野先生の声が突き刺さります。
「この際言わせていただきますけどね、あと何年電極刺激なんて続けるつもりですか? 10年? 20年ですか? これ以上彼女に期待しても無理だと思うんですよ。早くあきらめて、別の患者救った方が有意義だと思うんですけどね」
――お前には何を期待しても無駄なんだな。
――もう何も期待しないよ。何もしなくていい。
ああ、また。ざわざわ、ざわざわ、黒い黒い霧みたいなウイルスが胸の奥から湧き上がってくる……。それは全身の隅々まで浸食して、動きを奪って……そして。
「あ、室生せんせー」
田所さんと宮本さんが廊下からこっちに向かってきます。私を見て。
「せんせ、お兄さんのお話、もっと聞かせてくださいよー」
兄さんの話?
なんでそんなこと、話さなきゃいけないんですか? 私が兄さんのこと考えるだけで、どんな思いを……。
ああ、みんなの視線が、私に集まってる!
話しなさい。何か、話しなさいってば……!
「彼女は生きてるんです。がんばってるんです! 一生懸命、がんばってて……」
あぁいつもと同じ。考えれば考えるほど、言葉が、単語が、どんどん遠ざかっていく……
「だ、だから、私たち、それを否定することは、絶対しちゃいけな……いけな……い」
酸素が足りなくて、ゴホゴホゲホゲホ何度も咳き込みました。でもヒィヒィって呼吸音がおかしくなって。
そして……。
バタン!
あぁ、ドアが閉まっちゃった……。
また金魚みたいに口をパクパクさせて、私は床に倒れこみました。
「む、室生先生! 大丈夫ですか!?」
「室生先生!」
声が、うわぁ……もう、何も聞こえません……。
「さっちゃん?」
「落ち着いた?」
目を開けた私の視界に移ったのは、佐伯教授と……ええっ? みずほさん!?
「み、みずほさん?」
びっくりして体を起こすと、みずほさん「大丈夫?」って枕を背中にあてがってくれました。
「差し入れに来たら、ナースステーションでさっちゃんが倒れたって聞いてね。もうびっくりしちゃったわよぉ」
辺りを見回すと、そこは入院病棟の空き部屋のようでした。
サイドテーブルに置かれた紙袋には、「麦っこベーカリー」のプリント。ふんわり漂う香ばしい匂いが、中身がパンだってことを教えてくれます。
「熊野くんが恐縮してたわよ。自分のせいだって」
佐伯教授の言葉に、私は慌てて首をふりました。
「いえそんな! ……私が悪いんです。子どもみたいに叫んじゃって……」
「いいのよ。あなたがあの患者に特別な思い入れがあるってことは、みんなわかってますからね」
教授はいつだって、理解があって優しい。でも、熊野先生が言う通り、明美さんの生命維持装置には莫大なお金がかかってて……。
「教授……あの」
言いだしてから、みずほさんがそこにいることが少し気になったけど、思い切って「研究費のことですが」って続けちゃいました。
「大丈夫よ。そのためにあちこちから寄付金を募ってるんじゃないの」
教授、ポンポンて私の腕を叩くと器用にウィンク。
「先週もまとまった額が届いてね、当分費用の心配はしなくていいのよ」
「そうなんですか……?」
どなたがそんなお金、出してくれるんでしょう? 一度お礼に伺った方がいいんでしょうか?
「でもねえ」
と佐伯教授が思案顔を私に向けます。
「あなたやっぱり結婚するべきよ」
は、はい? どど、どうして突然その話題なんですか?
「今のあなた、仕事以外に心のよりどころっていうのかしらねえ、そういうものが必要だと思うのよ」
「はあ……」
心の……よりどころ?
そんなに私、危なっかしいですか?
「わたしもそれ、すっごく賛成!」
え、みずほさんまで!
「そう思うでしょう!?」
佐伯教授は我が意を得たり、とばかり目を輝かせます。
「昨日、主人から例の彼の写真を見せてもらったの。そりゃもう、ハリウッドスター並みにいい男でね! 彼の外見とあなたの頭脳、二人の間に子どもが生まれたら、どれほどのスーパースターが誕生するか!」
あのぅ……そんなに都合よく遺伝交配されたら、地球上美男美女の天才ばっかりだと思うんですけれど……。
「うわぁ、わたしも会ってみたいな、その彼! ね、さっちゃん!」
みずほさん、他人事だと思ってそんな無責任な……。
「女性は出産があるからねえ、結婚は早いほどいいわよ」
「お気持ちはうれしいんですけど、特に子どもがほしいとか思ってないですし」
「さっちゃん、産んでみたらそんなこと言えなくなるわよ。かわいいから」
「はぁ」
みずほさんの援護射撃に佐伯教授は上機嫌。「よく考えてみて」ってにこにこ言い置いて、部屋から出ていきました。
よく考えて……お断りしてるんですけど……ね。
すると、みずほさんがぐいって身を乗り出して、私を覗き込みました。
「ねえ、さっちゃん前に言ってたじゃない? 『結婚よりも先にやらなきゃいけないことがある』って。それって、もしかして研究のこと? 植物状態の患者さんを目覚めさせる研究してるのよね?」
「あ……」
みずほさん、聞こえてたんですね、あのつぶやき。
「その患者さん、さっちゃんにとってそんなに特別な人なの?」
特別な……患者。
「……はい。私が脳神経外科を専門にしようって決めたきっかけ、彼女ですから」
私の思考は、一気に過去へと、8年前へと飛んでいく。
焼け跡を前にして立ち尽くす兄さんの背中。あの人も完璧じゃないんだと、できないことがあるんだと知ったあの時……。
――なんでも、犯人を見てるかもしれないって言うんでしょう? もしその人が話せるくらいまで回復すれば、事件が解決する可能性だって……。
「わたしはそれ、賛成しないな」
「え?」
思考が唐突に遮られて、私はびっくりして顔をあげました。
「プロの前でこんなこと言ったらいけないかもしれないけど、もしその人がずっと回復しなかったら? さっちゃん結婚もせず、ずうっと今のまま一人で、人生無駄にするの?」
「無駄って、そんな……」
「結局は逃げてるだけじゃない?」
みずほさんの言葉が、私の皮膚を切り裂いて心臓に突き刺さります。
「逃げてる……私が、ですか?」
「そう。彼女が目覚めなかったら、結婚も出産もしなくていい。変わらなくていい。そうでしょ? 他人に自分の運命ゆだねるのって、たしかにラクよ。心の奥では、今のまま、ラクな道を選びたいんじゃないの?」
私が……変わりたくないって思ってる? そんな……
でも。
でも確かに……その通りかもっていう気もします。
――あと何年続けるつもりですか? 10年? 20年ですか?
私……逃げてるの?
逃げてる……?
でも、じゃ、私……どうしたら……?
その時、ふいに部屋がノックされて、「大丈夫ですか先生?」って顔を出したのは、田所さん。
「あ、ごっごめんなさい。心配かけて。もう大丈夫ですから。部屋、すぐに空けますね」
「あ、大丈夫です大丈夫です。明日までここ使いませんから」
田所さんは明るく首をふって、それから「それで」って続けました。
「室生先生あてにお電話あったんです。先生が寝てらっしゃる時」
「え?」
「お、兄、様、からです!」
しぶくて素敵な声でしたーと体をくねらせる田所さんを見ながら、私は体の震えを抑えるのに必死でした。
兄さんが……なんで職場に!?
「携帯にかけたけど、全然でないからって」
携帯に……かけてきた? どうして?
お父さんのお見舞いの件でしょうか?
「倒れたことお話したら、心配なさってましたよ」
倒れたことを話した!?
私はギョッと田所さんを見つめたまま、シーツをぎゅうっと握りしめました。
あぁ……また、また、弱者のレッテルを貼られる。
やっぱり女はダメだって。役立たずだって。なんで生まれてきたんだって。
ガタガタと体が震えます。
「先生?」
田所さんが怪訝そうに私を見てるけど、私には答える余裕なんてありませんでした。
「あ、これ、よかったら皆さんで分けてください。差し入れです」
みずほさんが、田所さんの視界を遮るように、パンでぎっしり詰まった紙袋を差し出すのが見えました。
「わぁ、ありがとうございますーうわ、すっごいたくさん! あたしここのくるみパン大好きなんですよねー!」
「今くるみパンはちょうどフェア中で、20%オフやってますから、またぜひいらしてくださいね」
愛想よく言ったみずほさんに半ば押されるように、田所さんは部屋から出ていきました。
あぁ……助かった!
私はシーツに顔をうずめて、涙をぐっとのみ込みました。
「何か、つらい思い出があるのね」
みずほさんの手が優しく私の髪に触れて。
そうしたらもう、涙腺が……止まらなくなっちゃうじゃないですか……。
私は体を震わせながら、赤ん坊みたいに泣きだしてしまいました。
また弱虫って言われちゃうけど……女だからしょうがないって、ため息つかれちゃうけど……でも、もう止まらなくて。
どうして放っておいてくれないの? 兄さんの邪魔なんかしないから。関わらないから。だから、どうか放っておいて。お願いだから……!
「兄は……とっても優秀な人なんです」
泣きじゃくりながら、私は話し始めます。
誰かに聞いてほしくて。誰かにすがりたくて。
「性格はちょっときついんですけど、両親の自慢で……私と兄と、態度が違うんです」
兄さんは特別。だから、あの部屋にも入れてもらえる。お父さんからお仕事の話を直接聞ける。勉強だって見てもらえる。
いつだって、ドアは私の目の前で閉まってしまう。
バタン。重い重い音をたてて。
私は入れない、お父さんの書斎。
兄さんだけが……。
ああ……また。
また来そう……やめて、こないで……黒い黒いウイルス……濡れた服を着てるみたいな、べったり不快なものがまとわりつくみたいな。
何なんでしょうか、この感じ。兄さんのことを考えると、いつも胸の奥によどむ、気味の悪い……。
――さすが、室生さんのお子さんだね。文武両道でうらやましい。
――お父さんもご自慢でしょう。
――お父さんを凌ぐ逸材だって噂はあちこちで聞いてるよ。
ウイルスが……さらに濃度を増していく。
黒、それは烏の羽根みたいな美しい黒じゃない。いろんな絵の具をグチャグチャに混ぜて、行きついた果ての色。どんな色にも戻れない……汚くて醜い……
泣きながら浅い呼吸を無様に繰り返す私の背中を、みずほさんは何も言わずに、ただゆっくりさすってくれました。
優しい、穏やかな手……。
再び呼吸が……あぁ戻ってくる。
「兄のことを思い出すと……いつも、なんだか嫌な気持ちになって。嫉妬、かな。たぶん、羨ましいんです、兄のことが」
「でも、さっちゃんだってその若さで准教授でしょ。十分優秀じゃないの」
違う、違うんです。私は勢いよく首をふりました。あの家じゃ、そんなこと何の価値もない。
「あの家で大切なのは『強さ』だから」
「強さ?」
「……私は……子どもの頃から体も小さいし、よく体調も崩して、緊張すると過呼吸になるし……」
だから私はお荷物で、厄介者で……。
それでもなんとか認めてもらいたくて、勉強ならってがんばったけれど、100点を取ったって、オール5を取ったって、みんなの関心を引くことはできませんでした。
「さっちゃんは、少し外の世界を知ることも必要じゃないかしら」
「外の……世界?」
みずほさんは、その美しい顔を綻ばせてうなずきました。
「人生なんてあっという間よ。もっと楽しまなくちゃ! もしさっちゃんに変わりたいって気があるなら、わたし協力するわよ?」
……変わるって……一体どうしたらいいんですか……?
JR中央線阿佐ヶ谷駅から徒歩15分くらいでしょうか、事前に教えてもらった住所を頼りに歩いていると……静かな住宅街の中に、みずほさんの家はありました。赤い屋根がかわいい、洋風のおうちです。
「いらっしゃい! さ、入って入って!」
「お邪魔します」
緊張しながら、みずほさんに案内されて中へ。1階は仕切りがなく広々した、いわゆるLDKタイプのお部屋でした。
家具はすべて薄い色味の木目を生かしたシンプルなもので統一されています。北欧スタイルっていうんでしょうか、インテリア雑誌に載っているような、そんなおしゃれで居心地のいい空間。カメラが何台かディスプレイされてるのは、ご主人の趣味なのかも。
「さ、さっちゃん、ここに座って」
促されてダイニングの椅子に座ると、みずほさんはプロが使うみたいな大きな黒いメイクボックスを取り出し、にっこり微笑みました。
ななな……何が始まるの……?
不安だらけの私の肩にタオルをかけて。
そしてぎゅぎゅぎゅっぐいぐいもみもみって、まずはフェイシャルマッサージ。うわ、なんか……ちょっと痛いかも、です。顔が粘土細工になったみたい~。
それからよくわからない美容液を何種類も塗って、さらにファンデーションやコンシーラーも重ねづけ。いい匂いに包まれて、なんだか夢見心地の時間が過ぎていきます。
「みずほさんて、こんな本格的なメイクどこで習ったんですか?」
私が聞くと、みずほさんはいたずらっぽく笑います。
「これは独学よぅ」
「ええっプロみたいなのに!」
「ふふ。これでもね、昔女優を目指してたのよ。その時にいろいろ勉強したの」
なるほど、それでこの美貌……納得です。
「ダイヤモンドも研磨しなきゃただの石よ。磨かなきゃ意味がないってこと」
う……普段お手入れしてないってこと、バレてますね。
結局いつもは5分で済ませるメイクを、なんと1時間以上もかけてしまいました!
「さっちゃん肌がきれいだし、ナチュラルメイクで十分よ」
ナチュラルメイク? せ、世間の一般基準ではこういうのをナチュラル、っていうんですか!? 日々の寝不足で蓄積されたくすみもくまも全然見えなくて、人形みたいにスベッスベだし、つけまつげで5倍くらい目が大きいし、唇もうるうるぷるぷる……。
「なんだか別人みたいで……ちょっと濃すぎませんか?」
「見慣れないからそう思うだけ。とっても似合ってるわよ。メイクでイメージ変えられるのって、女子の特権なんだから。楽しまなくっちゃ!」
メイクなんかに時間かけたって、対して違わないって思ってたけど……私の平凡な顔がここまで変わるなんて。確かにこの変化は……予想外かも。
別人みたいな新しい自分……私はなんだかわくわくしてしまって、久しぶりに心が弾むのを感じました。なんだ、私だって変われるんだって。
その後、みずほさんが今流行ってるからって貸してくれたのは、ヒョウ柄のニットワンピース、ラメ入りのストッキング、ファーつきのピンクのコート、ピンヒールのロングブーツ……。どれもこれも、生まれてから一度も身につけたことないものばかりで、なんだか違和感があるような気もするんですけど……。
「大丈夫、すぐに慣れるわよ。楽しんできて」
みずほさんの声に後押しされて、私は新宿の街に飛び出しました。
夜の歌舞伎町って……うわあ、初めて来たけど、すごい人!
スーツ姿の人から、コスプレ……って言うんでしょうか、変わった格好の人までいろんな服であふれていて。私の格好も全然浮いていないみたいで、ホッとしました。
キラキラ瞬くネオン、飛び交う多国籍の言葉……まるで魔法の世界に来たみたい……。
高いピンヒールのせいで視界はいつもより高くて広くて、それがとっても気持ちよくて。
背筋も自然にぴんとのびちゃいます。見られてるって視線が心地よく感じたの、生まれて初めてかもしれません。
さて……と。
わたしはみずほさんおすすめのバー「チェイン」を探し始めました。2丁目ってことだから……たぶんこのへん? 携帯で地図を確認しながら歩いていると、真っ白なスーツを着た若い男性がふらりふらりと寄ってきました。
「どっか探してるの?」
「あ……はい。チェインっていうお店なんですけど……」
「チェイン?」
お兄さんの目がチラって光ったような?
「奇遇だね~実はおれも今からそこ行くとこなんだよね!」
「え、そうなんですか?」
「もしよかったらさ、おごらせてよ」
肩に手が、手がのってるんですけど!
も……もしかして、もしかしたらこれは!
ナンパ、というヤツではないでしょうか!?
早速変身効果あり、ですか!? 早すぎませんか、この展開!
あ、あ……足が震えてきましたーみずほさん!
「あの、えっと……その」
私は足を踏ん張りました。
ダメ、か、変わるんでしょう! 変わりたいんでしょう!? 何事も経験してみなくては!
よし、って私は思い切って足を踏み出して、お兄さんと一緒に歩き始めました。
「俺ねーこの辺詳しいから、なんでも聞いて」
お兄さんの言葉に耳を傾けながら……
ところが。
唐突にぐいって後ろからすごい力で腕をつかまれ、私はバランスを崩してよろめきました。そして誰かのかたい胸にドンて顔面からぶつかってしまいました!
「いたっ!」
ちょっと、誰ですか!? 痛いんですけど! って顔をあげて。
そしてその瞬間、途端に何もかも、魔法がとけてしまいました……。
「にいさん……」
「お前……紗智、だよな? 何やってんだこんなところで」
上から下までじろじろ見られて、カアアって頬が熱く、赤く染まっていくのがわかります。
やっぱりこんな格好するんじゃなかった!
後悔だけが頭の中でぐるぐる渦を巻いているけれど、もう遅い……。
「……ごめんなさい」
「おいおいあんた、おれたちこれからデートなんだよ。邪魔すんな」
途端に、ジロッて兄さんのアイスピックのような視線が彼に向けられました。
兄さんの手はスーツの内ポケットに伸び、そして取り出したのは……
「げ、デカ!?」
黒い警察手帳を突きつけられて、「じょ、冗談すよ。やだなあ」って、彼、勢いよく走って行っちゃいました……。
残ったのは嫌な沈黙……早く、早く、何か話さなくちゃ。何か、何か!
「兄さん……あの、偶然ね。どうしてこんなところに?」
「聞き込み中だ。それより、お前がこんなところで何をしてるのか聞かせろ! だいたいそれはなんだ、ああ? 男たらしこむようなカッコしやがって。バカか! 阿呆か!」
言葉はナイフみたいに心臓に深く突き刺さって、血が吹き出していくのがわかるよう。
そうよね、いつだってあなたは正しくて立派で。私は、やることなすこと、いつも失敗ばかり。
――なんだあの受け答えは。まともに挨拶一つできんのか。わしが恥をかいたじゃないか! やはり剛を連れていくべきだった。
ごめんなさい、お父さん。許してください、お父さん。
「だいたいな、お前オレが何度連絡したと思ってるんだ! 病院にまで連絡させやがって。親父の見舞い、もう行ってくれたんだろうな? ええ?」
兄さんの声が、遠くで響いています。
黒い、どす黒い霧が吹きだします。勢いよく体中に回って……。
バタン!
ああ……閉まった……。
呼吸はどんどん浅くなってきて、息苦しさもせりあがってきて、私はズルズルって道の端にしゃがみこみました。
「おい何やってんだ、30過ぎてもそのどんくささは相変わらずだな。さっさと立て! こんなとこ所轄の奴らに見つかったらどう言い訳すりゃいいんだよ」
たまらず地面に胃液を吐いている私の耳に届いたのは、チッて兄さんの舌打ち。
私は汗でぐっしょり濡れた前髪の合間から、兄さんを見上げました。
黒い、黒い霧は、もう目がくらむほどの強烈なエネルギーで、私を包み込もうとします。
飲み込まれてしまう……これは、これは……
その時、ようやく私はわかったんです。この気持ち、黒い霧の正体に。
殺意。
そう……これは、殺意。 私の、兄さんに対する、どす黒い殺意でした。
殺したい。この世から、私の目の前から、存在を消してしまいたい――!
そして同時に、気づいてしまいました。
兄さんが解決できなかった未解決事件を、私が解く。そうしたら兄さんもお父さんも私を認めてくれるかもしれない、そんなことを考えていたけれど。
でも、もうそれだけじゃ足りないってこと。
その存在を消してしまわなければ。そうしなければ、私は永遠に、兄さんの影におびえ続けなければならない……。
何かに突き動かされるように、体が、腕が、指が、兄さんに向かって勝手にうごめきそうになって、私は自分の手を思いっきり噛みました。血の味が口の中にじわって広がって……。でもその痛みが、私の意識をつなぎとめてくれました。
視界の向こう、夜空を覆うように、兄さんの姿が黒々と立ちはだかっています。
「逃げなきゃ……離れなきゃ……兄さんから。あの家から……」
私は口の中で何度も何度もつぶやきました。自分に言い聞かせるように。
だって。
このままだと、いつか、いつか本当に……
――私、兄さんを殺してしまう!
翌朝、私は出勤するとまっすぐ佐伯教授の部屋に向かいました。
お見合いの日程について、相談するためでした。