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聖家族  作者: 門戸明子
23/32

米倉俊哉の話(下)

 コンコンコン……


 来るな! 来るな! 来ないでくれ!


 ハア……ハアハア……ハア……


 心臓がやぶれそうだった。


 汗がシャツに貼りつき、私の熱を奪っていく。熱いんだろうか、寒いんだろうか……? 正常に判断することすら難しくなっていた。

 ジャケットを脱げばマシになる……しかしそんな時間すら惜しかった。

 足が痙攣し、もうどちらの足を次に出すべきなのか、頭が判断しなかった。


 転がるようにして降りきり、やっとのことで地下駐車場へと続くドアをこじ開け、飛び出す。


 458イタリアへ飛びつき、その美しく冷たいボディに抱き付いた。


 ハア……ハアハア……ハア……


 私の呼吸の音だけが、大きく響いていた。


 ぺたりと車体に触れた頬から伝わる冷気が、私の熱を冷ましていく。


 その時。


 ガチャリ……非常階段のドアが、開いた。

私は息を止めてその先を見つめた。

 そこから出てきたのは……警備員だ。

 車に貼りついている私を懐中電灯で照らし出すと、


「こちらの会社の方ですか?」


「あぁ……あの、NAコーポレーションの……」


「はいはい。あれえ、お知らせいってませんか? 今日は電気ケーブルの総点検があるから、8時以降停電になりますって、全社にお知らせしてるはずなんですけどねえ」



 なんだそれは……。全身から一気に力が抜けた。


 愛車の中に崩れ落ちるように座り、ロックをかけ、ハンドルに抱き付いた。


 エンジンをかけようとして……その時、ダッシュボードからはみ出した写真が目に留まった。

 朝出かける際、そこへまとめて突っ込んだので、全部入りきらなかったらしい。

 舌打ちしてダッシュボードをあけ……そしてもう一度、写真を手に取った。


「これは……」


 中の1枚に目が留まった。

 路地裏らしい、薄暗く狭い空間で寄り添うように歩く私と明美だ。

 今朝見た時は気づかなかったが……それはカトレアの裏口で待ち合わせた時のものだ。

 あそこはその裏にあるホテルの通用口にほど近く、私たちはよくそこで待ち合わせ、ホテルへ入ったのだ。

 この角度から撮影されたということは……これはカトレアの店内からカメラを構えているんじゃないか?

 それはつまり、カトレアの関係者が撮影した、ということを意味している。


 綾乃……?


 綾乃は……カトレアのママだった。

 私の中に、疑惑が膨れ上がった。

 そうだ、そういえば、カトレアを最初に私に紹介したのは、仁科だったじゃないか!

 その時代から、綾乃には決まった男がいると噂があって……しかしそれが誰なのか、私は突っ込んで調べたことはなかった。関係ないと思っていたし……だがそれが、仁科だったとしたら?

 8年前の事件を調べていたとしたら?


 仁科の復讐を……私に?


 新条と組んだのか、それとも単独での行動なのか、それはわからない。

 だが……


 私は夢中で車を走らせた。外苑、四谷を抜け、神楽坂へ。瀟洒なデザイナーズマンションへたどり着くころ、まるで私自身が走り通してきたかのように、息が上がっていた。


「米倉さん」


 わずかに開いたドアの隙間に手を差し込み、むりやりこじ開けた。


「どうしたの米倉さんそんなに慌てて」


 くつろいでいたのだろう。スウェットの上下、ノーメイクというカジュアルな格好の綾乃が、顔をだした。

 この女は、私が小坂の影に怯え、恐怖している間、ここでくつろぎ、笑っていたのだ! 

 目の前が真っ赤になるかと思うほど、私は逆上し、綾乃の腕をつかんでわめいた。


「よくもだましてくれたな……!」


「え? な……何言ってるの?」


「仁科とつきあっていたんだろうが!」


「何? 一体何のこと!?」


 私は綾乃を突き飛ばし、土足のまま上がり込んだ。

 リビングに垂れ下がるシダのカーテンをつかんで力いっぱい引っ張った。あっけなく植木鉢は床に落ち、砕け、土をまき散らしながら崩れた。

 戸棚を一つ一つ引っ張り出し、中を乱暴にかき回しながら確認し、床にぶちまける。


「米倉さんっやめて! 何するの!!」


綾乃が悲鳴を上げたが、私は振り返らなかった。

 この部屋のどこかに、仁科と綾乃との関係を示す証拠が必ずあるはずだ。

 かならず、あるはずなのだ!


「お願いだからやめて!」


 くそっ! なぜ何も見つからないっ!!


 綾乃が隠しているのか!?

 私は暗い視線を背後に向けた。

 綾乃がおびえた目をして、後ずさる。


「や……今日おかしいわよ米倉さん」


 逃げようとする綾乃の腕をつかんで押し倒すと、馬乗りになって彼女の首を締め上げた。


「言え! テープをもう新条から渡されたのか!?」


「一体何のこと!?」


「新条に仁科を殺せと依頼したテープだ! 知らないわけはないだろう!」


 綾乃の目が大きく見開かれる。そこにあったのは、憎悪や嫌悪ではなく……純粋な驚きだけだった。


 え……?


 まさか、本当に知らないのか……?

 小さな声が私を咎めたが、私は構わず綾乃の首を締め上げた。

 いっそこのまま殺してしまおうか。

 綾乃の白い首を見ているうちに、私の精神状態はどこかおかしくなっていたのだろう。


「や……やめっ」


 細く、白い首……青く浮き上がる血管……ここをこうして、力を込めて……そうしたら……空気が遮断されて……


「社長!」


 叫び声がして、何者かが強い力で私を綾乃から引きはがした。


「おやめください! 何をなさっているんですか!」


 振り返ると、沼田の狼狽しきった顔があった。


「放せ! こいつは仁科の女だったんだ!」


 言いながら、私はふと、なぜここに沼田がいるのかと、いぶかしんだ。

 しかも、だ。バスローブをはおり、髪からは水が滴っている。

 これは……つまり。どういうことだ?


「綾乃とつきあっているのは自分ですっ!」


 一瞬、沼田の言葉が理解できずに、私は放心した。

 ゆるゆると、力を抜くと、沼田が綾乃を抱き起す。


「いつ……から」


「もう、10年以上になります」


「じゅうねん……だと?」


 綾乃がおびえたように震えながら沼田の胸に顔をうずめ、震えている。

 きつく抱き合う2人の前で、私はへたりこんだ。



 愛車を自宅の地下駐車場に停め、パーキングブレーキをかける。キーを回してエンジンを止めると、静寂が辺りを包み込む。

 458イタリアの中でため息をついた。

 ハイテク機器をそのエレガントなボディに隠して、あくまでも超然と、私を高みから見下ろしている美しきもの。

 なんと完璧な存在であることか。

ここにずっと閉じこもっていたい……。

少しずつ呼吸が静まっていく。


 誰だ? 一体誰なんだ?


 思考はブラックホールの中に落ちていくばかり。何も浮かび上がってはこない。完全に、私は目指すべきものを見失っていた。


 ふいに、コンコンと、ガラスがノックされ、私はハッと顔をあげた。

 祥子が窓ガラスをたたいていた。


「何やってるのよ? 音がしたから、もう上がってくるかと思って待ってたのに」


 私はため息をつき、ドアを開けた。


「少し考え事をしてたんだ」


「ほんとにあなたって、車が好きなのねえ。車の中にオフィス作れば?」


 冗談めかして言い、ふと振り返る。


「ね、夜食作るから、一緒に食べない? ワインでも開けて。だって今日は」


 私はそんなのんびりとくつろぐ気にはとてもなれなかった。


「悪いな。食欲がないんだ」


「……そう」


「ちょっとひとっ走りして、風にあたってくる」


「ふうん……いってらっしゃい」


 祥子はいつもと変わらぬ微笑みをうかべ、そのまま階段を上がっていった。



 私はグランツーリズモに乗り換え、エンジンをかけた。


 夜の街には、こいつが似合う。

 一気にぐんと加速させ、なめらかな走りを堪能する。


 高層ビルの明かりが、視界を煌びやかに覆いつくす。

 アクセルを踏み込むと、四方の光が、直線となって流れていく。

 やはり車はいい。

 窓越しに過ぎていく景色、視界に入るすべてが、自分のものになったような、超然としたこの気分。


 少し……落ち着こう。

 綾乃でも沼田でもなかった。では……誰だ?

 もう一度、幹部を一から洗い直すか。

 それとも、新条拓巳と一度会って話した方が早いかもしれない。何か知ってるかも……。


 そこまで考えた時、携帯の着信音が遠慮がちに鳴った。

 一瞬ハンドルを握る手が汗ばんだが、ディスプレイには「祥子」とある。

 私は力を抜き、スピーカーをオンにした。『あなた? 今どこ?』と祥子の声が車内に響く。


「首都高に乗るところだ」


『今日はマセラティでしょ?』


「そうだ。よくわかったな」


『ふふ……あなたのことなら、なんでもわかるわ』


「どうかしたのか? 何か買って帰ろうか?」


 そう聞くと、くぐもった音が聞こえた。どうやら笑っているらしい。


『ねえあなた』


「ん?」


『さっきわかったの。結局あなた、12年も一緒にいて、わたしのことなぁんにも理解してなかったんだなって。しようともしてくれなかったでしょう?』


 機械を通じてさえ、その声の冷ややかさは手で触れることができるようだった。


「祥子?」


『ねえ、あなた、今日が何の日か、忘れてるでしょ』


「今日……?」


 結婚記念日? 祥子の誕生日? いや、どれも違う……。


『ほぉら、やっぱり』


 バカにしたような笑いが聞こえる。


『命日よ。あの子の』


 あの子……?


 今度こそ本当に、心臓が止まるかと思った。……そうだ、あの子……私と祥子の、初めての子ども……!


『あなたは仕事ばっかりで、それでよかったでしょうけど。私の気持ち、考えたことある? 家に一人残された私の気持ち』


 彼女のまなざしが目に浮かぶようだ。パチパチと燃え散る氷のような火花を散らして……。


『年下の友達に、どんどん2人目3人目が生まれて、おめでとうって笑ってプレゼント渡して。ハイハイしたの、タッチしたの、ママって言ったの……そういう子育て話、笑いながら聞かなきゃいけないつらさ、あなた考えたことある?』


「そ……そんな友達と付き合わなきゃいいだろう」


 しかし祥子は私の言葉などもはや聞いていなかった。


『あの子が生きていたら、あの子が生まれていたら……何度も何度も考えた。子どもの声が聞こえるとね、あの子じゃないかっていつも振り返っちゃうの。ごめんね、産んであげられなくてごめんね、一緒にやりたいこといっぱいあったのよって謝って。でもどうしてですか、わたしの何がいけなかったんですかって神様を憎んで。あなたにその気持ちがわかる!? ……あの日、あなたがそばにいてくれたら。すぐに病院に行けていたら、あの子は死ななかったかもしれない! あなたが女のところになんか行かずに、せめて携帯に出てくれていたら!』


 その時になってようやく、私にはすべてが見えた。彼女の怒りが、私の浮気ではなく、子が失われてしまったあの日にあったことに――。


「だ、だが、不妊治療のチャンスはいくらでもあったのに、お前全然その気にならなかったじゃないか!」


『当たり前よ。新しい子が生まれれば、それでいいの? 死んでしまったあの子のことは、忘れてそれでおしまいなの? そんなこと……絶対に許さないわ』


 許さない……? まさか……まさか……


「それで、話したのか……新条に、小坂のことを」


 私を、破滅させるために?


『新条? 小坂? 一体なんの話?』


 何……? 違うのか?


『でも、あぁ翔也には話したわ』


「え?」


 翔也……あのホストのことか?


『あなたが仁科明美と不倫してたこととか、彼女を手に入れるために仁科さんを殺したこととか』


「な……! 殺してはいないっ!」


『直接にはね。でもコロシを依頼したのはあなたでしょ。翔也ったら、興味しんしんで聞いてくれたわ』


「お前……知ってたのか」


『あなた、わたしを空気か何かみたいに考えてるの? あいにくですけど、わたしには目も耳も、心もあるのよ』


 もう、周りの景色など何も見えなかった。 チラと考えもしなかった……。あのホストが、中目黒の事件を知っていたなんて……だとしたら、だとしたら、彼を殺したのは……!?


『そろそろ、カーブかしら?』


 え……?


『もちろんあなた一人を責めるつもりはないわ。結局わたしの体が弱くて、あの子を守り切れなかったことが原因だもの。だからわたしも一緒に行く』


「何を……言って……」


 コーナーがゆっくりと近づいてくる。深く考えることもなく、私の足は自動的に動いてブレーキを踏んだ。

 しかし……そこには何の感触もなかった。

 まるでスポンジに足をつっこんだかのような、ふにゃりとしたゴムの感触があるだけ。


 え……


 ブレーキが……効かない!


「お前……車に何をした!?」


『一緒に天国で、あの子に謝りましょう』


 通話はブツリと唐突に切れた。

 狂ったように私は何度も何度もブレーキを踏み続けた。しかし足の感触は変わることなく、スピードは少しも落ちる気配はなかった。


「うわあああああああ……!!!」


 ギリギリのコーナリング、私は必死にステアリングを切り続けた。しかしそれはもう無駄なあがき……ああ曲がり切れない……!


 私は12年間、祥子の一体何を見ていたんだ……所詮、夫婦など他人というこ


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