米倉俊哉の話(下)
コンコンコン……
来るな! 来るな! 来ないでくれ!
ハア……ハアハア……ハア……
心臓がやぶれそうだった。
汗がシャツに貼りつき、私の熱を奪っていく。熱いんだろうか、寒いんだろうか……? 正常に判断することすら難しくなっていた。
ジャケットを脱げばマシになる……しかしそんな時間すら惜しかった。
足が痙攣し、もうどちらの足を次に出すべきなのか、頭が判断しなかった。
転がるようにして降りきり、やっとのことで地下駐車場へと続くドアをこじ開け、飛び出す。
458イタリアへ飛びつき、その美しく冷たいボディに抱き付いた。
ハア……ハアハア……ハア……
私の呼吸の音だけが、大きく響いていた。
ぺたりと車体に触れた頬から伝わる冷気が、私の熱を冷ましていく。
その時。
ガチャリ……非常階段のドアが、開いた。
私は息を止めてその先を見つめた。
そこから出てきたのは……警備員だ。
車に貼りついている私を懐中電灯で照らし出すと、
「こちらの会社の方ですか?」
「あぁ……あの、NAコーポレーションの……」
「はいはい。あれえ、お知らせいってませんか? 今日は電気ケーブルの総点検があるから、8時以降停電になりますって、全社にお知らせしてるはずなんですけどねえ」
なんだそれは……。全身から一気に力が抜けた。
愛車の中に崩れ落ちるように座り、ロックをかけ、ハンドルに抱き付いた。
エンジンをかけようとして……その時、ダッシュボードからはみ出した写真が目に留まった。
朝出かける際、そこへまとめて突っ込んだので、全部入りきらなかったらしい。
舌打ちしてダッシュボードをあけ……そしてもう一度、写真を手に取った。
「これは……」
中の1枚に目が留まった。
路地裏らしい、薄暗く狭い空間で寄り添うように歩く私と明美だ。
今朝見た時は気づかなかったが……それはカトレアの裏口で待ち合わせた時のものだ。
あそこはその裏にあるホテルの通用口にほど近く、私たちはよくそこで待ち合わせ、ホテルへ入ったのだ。
この角度から撮影されたということは……これはカトレアの店内からカメラを構えているんじゃないか?
それはつまり、カトレアの関係者が撮影した、ということを意味している。
綾乃……?
綾乃は……カトレアのママだった。
私の中に、疑惑が膨れ上がった。
そうだ、そういえば、カトレアを最初に私に紹介したのは、仁科だったじゃないか!
その時代から、綾乃には決まった男がいると噂があって……しかしそれが誰なのか、私は突っ込んで調べたことはなかった。関係ないと思っていたし……だがそれが、仁科だったとしたら?
8年前の事件を調べていたとしたら?
仁科の復讐を……私に?
新条と組んだのか、それとも単独での行動なのか、それはわからない。
だが……
私は夢中で車を走らせた。外苑、四谷を抜け、神楽坂へ。瀟洒なデザイナーズマンションへたどり着くころ、まるで私自身が走り通してきたかのように、息が上がっていた。
「米倉さん」
わずかに開いたドアの隙間に手を差し込み、むりやりこじ開けた。
「どうしたの米倉さんそんなに慌てて」
くつろいでいたのだろう。スウェットの上下、ノーメイクというカジュアルな格好の綾乃が、顔をだした。
この女は、私が小坂の影に怯え、恐怖している間、ここでくつろぎ、笑っていたのだ!
目の前が真っ赤になるかと思うほど、私は逆上し、綾乃の腕をつかんでわめいた。
「よくもだましてくれたな……!」
「え? な……何言ってるの?」
「仁科とつきあっていたんだろうが!」
「何? 一体何のこと!?」
私は綾乃を突き飛ばし、土足のまま上がり込んだ。
リビングに垂れ下がるシダのカーテンをつかんで力いっぱい引っ張った。あっけなく植木鉢は床に落ち、砕け、土をまき散らしながら崩れた。
戸棚を一つ一つ引っ張り出し、中を乱暴にかき回しながら確認し、床にぶちまける。
「米倉さんっやめて! 何するの!!」
綾乃が悲鳴を上げたが、私は振り返らなかった。
この部屋のどこかに、仁科と綾乃との関係を示す証拠が必ずあるはずだ。
かならず、あるはずなのだ!
「お願いだからやめて!」
くそっ! なぜ何も見つからないっ!!
綾乃が隠しているのか!?
私は暗い視線を背後に向けた。
綾乃がおびえた目をして、後ずさる。
「や……今日おかしいわよ米倉さん」
逃げようとする綾乃の腕をつかんで押し倒すと、馬乗りになって彼女の首を締め上げた。
「言え! テープをもう新条から渡されたのか!?」
「一体何のこと!?」
「新条に仁科を殺せと依頼したテープだ! 知らないわけはないだろう!」
綾乃の目が大きく見開かれる。そこにあったのは、憎悪や嫌悪ではなく……純粋な驚きだけだった。
え……?
まさか、本当に知らないのか……?
小さな声が私を咎めたが、私は構わず綾乃の首を締め上げた。
いっそこのまま殺してしまおうか。
綾乃の白い首を見ているうちに、私の精神状態はどこかおかしくなっていたのだろう。
「や……やめっ」
細く、白い首……青く浮き上がる血管……ここをこうして、力を込めて……そうしたら……空気が遮断されて……
「社長!」
叫び声がして、何者かが強い力で私を綾乃から引きはがした。
「おやめください! 何をなさっているんですか!」
振り返ると、沼田の狼狽しきった顔があった。
「放せ! こいつは仁科の女だったんだ!」
言いながら、私はふと、なぜここに沼田がいるのかと、いぶかしんだ。
しかも、だ。バスローブをはおり、髪からは水が滴っている。
これは……つまり。どういうことだ?
「綾乃とつきあっているのは自分ですっ!」
一瞬、沼田の言葉が理解できずに、私は放心した。
ゆるゆると、力を抜くと、沼田が綾乃を抱き起す。
「いつ……から」
「もう、10年以上になります」
「じゅうねん……だと?」
綾乃がおびえたように震えながら沼田の胸に顔をうずめ、震えている。
きつく抱き合う2人の前で、私はへたりこんだ。
愛車を自宅の地下駐車場に停め、パーキングブレーキをかける。キーを回してエンジンを止めると、静寂が辺りを包み込む。
458イタリアの中でため息をついた。
ハイテク機器をそのエレガントなボディに隠して、あくまでも超然と、私を高みから見下ろしている美しきもの。
なんと完璧な存在であることか。
ここにずっと閉じこもっていたい……。
少しずつ呼吸が静まっていく。
誰だ? 一体誰なんだ?
思考はブラックホールの中に落ちていくばかり。何も浮かび上がってはこない。完全に、私は目指すべきものを見失っていた。
ふいに、コンコンと、ガラスがノックされ、私はハッと顔をあげた。
祥子が窓ガラスをたたいていた。
「何やってるのよ? 音がしたから、もう上がってくるかと思って待ってたのに」
私はため息をつき、ドアを開けた。
「少し考え事をしてたんだ」
「ほんとにあなたって、車が好きなのねえ。車の中にオフィス作れば?」
冗談めかして言い、ふと振り返る。
「ね、夜食作るから、一緒に食べない? ワインでも開けて。だって今日は」
私はそんなのんびりとくつろぐ気にはとてもなれなかった。
「悪いな。食欲がないんだ」
「……そう」
「ちょっとひとっ走りして、風にあたってくる」
「ふうん……いってらっしゃい」
祥子はいつもと変わらぬ微笑みをうかべ、そのまま階段を上がっていった。
私はグランツーリズモに乗り換え、エンジンをかけた。
夜の街には、こいつが似合う。
一気にぐんと加速させ、なめらかな走りを堪能する。
高層ビルの明かりが、視界を煌びやかに覆いつくす。
アクセルを踏み込むと、四方の光が、直線となって流れていく。
やはり車はいい。
窓越しに過ぎていく景色、視界に入るすべてが、自分のものになったような、超然としたこの気分。
少し……落ち着こう。
綾乃でも沼田でもなかった。では……誰だ?
もう一度、幹部を一から洗い直すか。
それとも、新条拓巳と一度会って話した方が早いかもしれない。何か知ってるかも……。
そこまで考えた時、携帯の着信音が遠慮がちに鳴った。
一瞬ハンドルを握る手が汗ばんだが、ディスプレイには「祥子」とある。
私は力を抜き、スピーカーをオンにした。『あなた? 今どこ?』と祥子の声が車内に響く。
「首都高に乗るところだ」
『今日はマセラティでしょ?』
「そうだ。よくわかったな」
『ふふ……あなたのことなら、なんでもわかるわ』
「どうかしたのか? 何か買って帰ろうか?」
そう聞くと、くぐもった音が聞こえた。どうやら笑っているらしい。
『ねえあなた』
「ん?」
『さっきわかったの。結局あなた、12年も一緒にいて、わたしのことなぁんにも理解してなかったんだなって。しようともしてくれなかったでしょう?』
機械を通じてさえ、その声の冷ややかさは手で触れることができるようだった。
「祥子?」
『ねえ、あなた、今日が何の日か、忘れてるでしょ』
「今日……?」
結婚記念日? 祥子の誕生日? いや、どれも違う……。
『ほぉら、やっぱり』
バカにしたような笑いが聞こえる。
『命日よ。あの子の』
あの子……?
今度こそ本当に、心臓が止まるかと思った。……そうだ、あの子……私と祥子の、初めての子ども……!
『あなたは仕事ばっかりで、それでよかったでしょうけど。私の気持ち、考えたことある? 家に一人残された私の気持ち』
彼女のまなざしが目に浮かぶようだ。パチパチと燃え散る氷のような火花を散らして……。
『年下の友達に、どんどん2人目3人目が生まれて、おめでとうって笑ってプレゼント渡して。ハイハイしたの、タッチしたの、ママって言ったの……そういう子育て話、笑いながら聞かなきゃいけないつらさ、あなた考えたことある?』
「そ……そんな友達と付き合わなきゃいいだろう」
しかし祥子は私の言葉などもはや聞いていなかった。
『あの子が生きていたら、あの子が生まれていたら……何度も何度も考えた。子どもの声が聞こえるとね、あの子じゃないかっていつも振り返っちゃうの。ごめんね、産んであげられなくてごめんね、一緒にやりたいこといっぱいあったのよって謝って。でもどうしてですか、わたしの何がいけなかったんですかって神様を憎んで。あなたにその気持ちがわかる!? ……あの日、あなたがそばにいてくれたら。すぐに病院に行けていたら、あの子は死ななかったかもしれない! あなたが女のところになんか行かずに、せめて携帯に出てくれていたら!』
その時になってようやく、私にはすべてが見えた。彼女の怒りが、私の浮気ではなく、子が失われてしまったあの日にあったことに――。
「だ、だが、不妊治療のチャンスはいくらでもあったのに、お前全然その気にならなかったじゃないか!」
『当たり前よ。新しい子が生まれれば、それでいいの? 死んでしまったあの子のことは、忘れてそれでおしまいなの? そんなこと……絶対に許さないわ』
許さない……? まさか……まさか……
「それで、話したのか……新条に、小坂のことを」
私を、破滅させるために?
『新条? 小坂? 一体なんの話?』
何……? 違うのか?
『でも、あぁ翔也には話したわ』
「え?」
翔也……あのホストのことか?
『あなたが仁科明美と不倫してたこととか、彼女を手に入れるために仁科さんを殺したこととか』
「な……! 殺してはいないっ!」
『直接にはね。でもコロシを依頼したのはあなたでしょ。翔也ったら、興味しんしんで聞いてくれたわ』
「お前……知ってたのか」
『あなた、わたしを空気か何かみたいに考えてるの? あいにくですけど、わたしには目も耳も、心もあるのよ』
もう、周りの景色など何も見えなかった。 チラと考えもしなかった……。あのホストが、中目黒の事件を知っていたなんて……だとしたら、だとしたら、彼を殺したのは……!?
『そろそろ、カーブかしら?』
え……?
『もちろんあなた一人を責めるつもりはないわ。結局わたしの体が弱くて、あの子を守り切れなかったことが原因だもの。だからわたしも一緒に行く』
「何を……言って……」
コーナーがゆっくりと近づいてくる。深く考えることもなく、私の足は自動的に動いてブレーキを踏んだ。
しかし……そこには何の感触もなかった。
まるでスポンジに足をつっこんだかのような、ふにゃりとしたゴムの感触があるだけ。
え……
ブレーキが……効かない!
「お前……車に何をした!?」
『一緒に天国で、あの子に謝りましょう』
通話はブツリと唐突に切れた。
狂ったように私は何度も何度もブレーキを踏み続けた。しかし足の感触は変わることなく、スピードは少しも落ちる気配はなかった。
「うわあああああああ……!!!」
ギリギリのコーナリング、私は必死にステアリングを切り続けた。しかしそれはもう無駄なあがき……ああ曲がり切れない……!
私は12年間、祥子の一体何を見ていたんだ……所詮、夫婦など他人というこ




