余白 その5
明日は会社に行こう。
誠司はそう決めて、リビングの窓に近づいた。
一歩足を出すたびに、ピリ……とまだかすかに痛みが走る。
線路に落ちて捻挫だけで済んだなんて奇跡だ、と医者にも言われたことだし、この程度の痛みは我慢すべきだろう。
ケガを理由に数日休んでしまった職場には、きっと山のような仕事が誠司を待っているはずだった。
少し重たくなった気分を振り払うように、誠司は白いカーテンを勢いよく開けた。
窓越しに、庭に植えられたまだ若い桜の木が見えた。冬の乾いた陽に照らされた枝の先には、目をこらせばもう、ぽつりぽつりとつぼみがついていることがわかる。
「何を見てるの?」
聞きなれた妻の声に振り返る。
「春がくるんだなって思ってさ」
視線で庭木を指すと、みずほは隣にやってきて、静かに微笑んだ。
「冬も、もう終わりね」
冬の後には春が来る。当たり前の理を、信じることができなかった昔の自分たち。言葉にできなかった思いも、しかしみずほには通じたようだった。
そっと誠司の肩に顔を寄せたみずほを少し強引に抱き寄せて、腕の中に閉じ込める。
「誠司さん……?」
「……でくれ」
「え?」
「呼んでくれ。いつもみたいに、パパって」
腕の中で、「変なパパ」とくすくす笑うみずほが愛しくて、その腕に力をこめた。
そして、彼女を初めて抱いた夜のことを思い出す。ようやく見つけた自分の居場所を確かめるように、夢中になって白い体をかき抱いた、あの夜のことを。
ピンポーン……
来客の到来が、遠い過去へと飛びそうになった誠司の思考を現実に引き戻した。
「怪我、大したことなくてよかったですねえ」
リビングのソファに座り、もう一度警察手帳を見せて「石原」と名乗った新宿署の刑事は、膨らんだ腹をゆすって「よかったよかった」と笑った。
「はあ、ありがとうございます。あの……それで、今日は一体?」
誠司はちらりと隣に座るみずほと視線を交わして、石原の答えを待った。
ああ、実はですね、と石原はごま塩頭をなでまわす。
「今回の事故なんですがねえ、目撃者の証言を洗ってましたら、気になるものが出てきまして」
「というと?」
「山崎さんて、あなたの会社の方ですよねえ、彼があの時、線路に落ちるあなたを後ろから見てたって教えてくれたんですが……彼はね、あなたが突き飛ばされたって言うんですよ」
誠司は、膝に置いたこぶしにわずかながら力を込めた。
「もしそれが本当なら、こいつぁ事故じゃなくて、れっきとした殺人未遂ってことになりますからね」
「くく……」
誠司の唇から漏れた笑いに、石原が顔をあげた。
「刑事さん、それは山崎の見間違いです。何しろ新宿駅ですよ。しかも終電近くて、ものすごい数の人があふれてましたからね。もしかしたら、その気がなくても腕が当たってしまうことくらいあるかもしれない」
「ふん……なるほど」
石原は納得したのかしないのか、判然としない顔つきで肩をすくめた。
「そうですかねえ」
石原を送り出してリビングに戻った誠司とみずほは、ソファに並んで腰を下ろした。
「でも、ほんとにパパが無事でよかった」
誠司の左足に触れながらつぶやくみずほの肩を、誠司は抱き寄せた。
「線路に落ちたって聞いた時は、心臓が止まるかと思ったわ」
「まさか、あいつに……あんなことする度胸があるなんて思わなかったから、油断したな」
「どういうこと?」
振り返ると、開け放したドアから制服姿の拓巳が入ってくるのが見えた。
「拓巳……おかえりなさい」
慌ててみずほが立ち上がる。
「あいつって、誰のこと? あんなことって?」
いつになく熱く、拓巳は誠司に詰め寄った。
「父さん、何隠してるんだよ?」
「……」
「ぼくたち家族だろ!? 家族になるって決めただろ!? 全部話してよ、お願いだから!」
しかし、誠司の冷静な口ぶりが揺らぐことはなかった。
「……お前は?」
「え?」
「お前は、父さんたちに全部話してくれてるのか? どうなんだ?」
「……」
拓巳の肩から力が抜けていくのを見届けると、誠司はもう一度窓の外に目を向けた。
小さなつぼみが、寒風の中に揺れていた。




