平成ぞんび娘。
深夜。少し欠けた月がぽっかりと浮かぶ空にはうっすらと雲がかかっています。
大通りは街灯でオレンジ一色に染められています。日中は混雑する道路もこうしてみるとなかなか広いものでした。たまに通る自動車もさも爽快といった様子でにタイヤを転がしていきます。
人工の光で照らされ明るいとはいえ太陽もすっかり沈んだ時間帯ですから、ヘッドライトの光が煌々とともされています。サビの目立ってきた道路標識も、風にあおられ道路を横切るポリ袋も、歩道をふらふらと歩く女性の姿も一瞬明るく照らしだされます。向かいから歩く人がいたのなら、その女性の顔がライトのせいでなく、異様に青白いことに気づいたことでしょう。
足をひきずるような歩き方は幽霊というには質量感があり、かといって白く濁りきった瞳は生気を感じさせるものではありません。体にまとわりついているのは、香水のような甘い香りとは程遠い、嫌悪感をかきたてるような臭い。普通に暮らしていればなかなか立ち会うことのない、死の香り。口にするのは容易とはいえ、説明するには難しい、いわゆる死臭と呼ばれるものです。
女性はひんやりとした夜の風に身を震わせることもなく、白い吐息さえ吐かず、ただずりずりと足をよじるようにして歩いていきます。彼女にとって奪われる体温は存在しないのです。熱源を取り込む胃も、熱を生み出す肝臓も、熱を送り出す心臓さえも動いてはいないのです。
動くはずのないもの、人間だった存在、生ける屍。それが彼女なのです。
どうしてこうなったのかは当人でさえ理解できていません。ただ安らかな眠りについていた彼女の目を覚まさせたのが、紛うことなき生への執着であることは確かでした。今この瞬間、喉の渇き、生者の持つ熱への欲求に突き動かされていることも紛うことなき事実です。
街灯の列が途切れ、どす黒い闇が道路を覆います。まぁ平成のこの時代、コンビニや飲み屋、カラオケ店など深夜営業中の店は多々あるものですし、繁華街から離れたこの場所ですら煌々と灯るネットカフェの看板が手招きをしています。
能面が張り付いたような顔をそっと上げると、ガラス越しに店員の姿が見えました。フロントに客はおりませんから、隙を見てドリンクバーの手入れをしているのでしょう。
動かないはずの心臓がドクンとたかなった気がしました。だらしなく開かれた口元はうっすらと赤く染められ、腹の底から喉を通り抜け出る空気は生臭く、乾いた舌と黄ばんだ歯がちらちらと見え隠れしています。暖かい液体が喉を通り抜けていく感覚を思い返すと重たい足も徐々に軽くなっていく気がしました。
自動ドアは生気をもたない彼女にさえ何の疑問ももたずに迎え入れます。
慌ててフロントの中へ戻る店員を、白く澱んだ2つの眼が捉えます。
彼女は受付へとまっすぐ進むと手をゆるやかに突き出し、生臭さを漂わせる口を店員に向かって大きく開きました。
「シート席、ナイトパックで」
「おタバコはお吸いになりますか?」
「禁煙席で。あと携帯の充電器お借りしたいんですけど」
ゾンビ娘は生きていれば大学生で、喫煙だってできる年齢です。健康なんてどうでもいいんだから試してみようかなと考えているとカウンターに充電器がコトリと置かれます。
「お席は58番になります。ごゆっくりどうぞ」
ゾンビ娘は慣れた調子で入店手続きを済ませるとのっそりとドリンクバーコーナーへ足を運びます。お気に入りのホットミルクティーで冷たい手を温めながら、まっすぐ自分のブースへと向かうのでした。
ゾンビ娘は死体ですから、明らかに異様な顔つきをしています。もし顔写真入りの証明書の提出を求められていたのなら、警察のご厄介になって、あちこち調べ回されて、謎の変死体として処理されていたかもしれません。
でもまぁ、まさか死人が動いているなどと考える人はそうそういません。現に店員もすれ違った客もたいして反応は見せませんでした。ひょっとしたら他人の顔に興味がなかっただけかもしれませんが、すれ違っただけの他人なんて気にもしないのが普通なのです。
マフラーを取り、コートを脱いで、ゆったりとしたシートに腰をかけるとパソコンの電源を入れます。軽快な起動音をBGMにミルクティーをひとすすり。食を必要としなくなった体でも、腹のそこに染み渡るこのぬくもりはどうしようもなく愛おしいのです。
ゾンビらしく墓場に引きこもっておれば良いものを、と思われる人もいるでしょうが、平成の日本で土葬が許されている地域といったらまぁ少ない。おまけに墓を作ろうとしたら病院に行っても死亡確認をしてもらい、書類を提出せねばなりません。そんな苦労をしてまであんなジメジメとしてそうで暗そうで狭そうな場所に入りたくはありませんでした。
それにひきかえネットカフェといったら天国のよう。程よい空間と、人の気配を感じられる程度の静けさと、適度に抑えられた照明はゾンビ娘を癒してくれます。誰かにじろじろと見られる心配もなく、かといって一人ぼっちではないと感じられるこの場所は、生きているとも死んでいるとも言えない彼女でさえ柔らかく受け止めてくれるのです。
ネットで話題のマンガを調べると、さっそく借りてきました。数冊のマンガをパソコン台の上に積み上げると、一緒に持ってきた少年漫画雑誌の最新号をペラペラとめくります。少年雑誌とはいえほどほどの残酷表現はあるもので、流血沙汰死傷沙汰なんてしょっちゅうです。とはいえ所詮はフィクションですから腕がとぼうが袈裟懸けに切りつけられてようが殴り飛ばされようが平気です。だけどゾンビの頭が潰されるのにはちょっぴり肝が冷えました。死んでますから内蔵なんてとっくに冷えてますけれど。
さめたミルクティーを飲み干すと、ブースから這い出ます。おかわりのジュースは決まってコーラ。ゾンビの常識かどうかはしりませんが、とりあえずこのゾンビ娘の命の水は炭酸飲料なのです。ドリンクバーコーナーで目的のジュースを注ぐと、さっそく次に飲むターゲットの品定め。メロンソーダにカルピスソーダ、ぶどうソーダにジンジャーエールとお馴染みのジュースが並びます。その中に混じる手書きのPOPが白い眼に飛び込みました。
“店長オススメ!今話題の塩飲料!”
その名も塩サイダーという安直なものです。今話題というにはちょっとブームが過ぎ去った感が否めませんでしたが、生前ならきっと試飲をしていただろうと思います。けれどゾンビ娘は顔をしかめるしかありませんでした。ゾンビ娘がどうなるかは知りませんが、とりあえず塩が霊的生物の天敵なのは常識なのです。
万が一にでも今ここでお払いされてしまったら、きっとこの死にたてほやほやとは言い難い体が残ってしまいます。おそらくは変死事件として取り扱われることでしょう。さらにさらに学生証から身元が割れて、大学にも親元にも連絡がいくはずです。
学校にばれるのはともかくとして、親元に連絡がいくのはちょっと困ります。なにせこみいった事情ですから自分で説明したい気持ちがあるのです。親だって、成人になって間もない娘が謎の孤独死を遂げたなどと人づてに教えられるのは、あまりにもむなしいものでしょう。生ける屍としてきっちり遺言くらい残しておくくらいはしておきたいのです。
塩サイダーに未練を残して自分のブースへ戻ります。ネットで見つけた音楽動画をヘッドフォンで聞きながら、積み上げておいた漫画をちゃくちゃくと読み進めていきます。紙コップを空にしてはジュースをついで、漫画を読んでは新しい漫画を借りに行き、たまにソフトクリームをジュースの上にのっけてみます。
そうこうしているうちに空もしらんできました。夜が明けてしまったのですから、ゾンビとしてはさっさとねぐらに戻らねばなりません。まぁ漫画を一心不乱に読みふけるゾンビ娘がそのことに気づくのは、次のドリンクタイムなのですが。
「ありがとうございましたー」
ナイトパックを堪能したゾンビ娘が外へ出ると、明けた空と、すっきりとした冷気が朝だよと語りかけてきます。朝のゆるい日光もゾンビ娘には大敵です。眩い日差しの下では乾ききったお肌や異様な双眸が、文字通り白日の下にさらけ出されてしまうのですから。マフラーをきつめにまいて帽子を深くかぶり、重い足を引きずって家路を急ぎます。
早朝から活動をしているなんて非常に健康的な気もしましたが、徹夜明けの朝ですし、とっく死んじゃってます。ちょっぴり虚しい気持ちになりました。
一人で勝手に落ち込んでいると、曲がり角からひょっこり飛び出してきたわんこに吠え掛かられました。泣きっ面に蜂、泣きゾンビに犬です。ただでさえ青い顔の彼女がさらにブルーになります。
「コラッ、ゴン太! どうもすみま……せん」
犬の手綱を握っていた男性は、若干言葉を濁しました。きっとゾンビ娘の顔に気づいてしまったのでしょう。まさかゾンビだとは思わないでしょうが、それほどに異様な顔をしているのはゾンビ娘も自覚しています。
顔を隠してそそくさとその場を離れる彼女の背中に、犬の唸り声が突き刺さります。もともと動物には嫌われるたちではありません。けどそれは生前の話。動物は勘が冴えるといいますから、きっと人間ではないことを直感的に理解したのでしょう。それに犬ですから死人特有の臭いを嗅ぎ分けて吠え出したのかもしれません。
そこまで考えてゾンビ娘の足がぴたりと止まります。臭い。それは乙女の天敵の名。あまり鋭いとは言えない鼻で体臭を確認します。なんだか臭う気がします。気になり出すと止まりません。今は冬だからいいものの、夏になったらどんな悲惨なことになってしまうのでしょう。慌てたゾンビ娘は急いでコンビニに飛び込み、消臭スプレーを買いました。ついでに口臭対策のガムも。
人目につきにくい路地で体中にスプレーをふきかけると、あたりにフローラルな香りが満ちます。部屋用ですが今は非常事態なので気にしません。これで見ず知らずのワンコに吠えられる悲しい事態を避けることができるはず。いやいや、やっぱり変な匂いがすると吠えられるかもしれませんが。
――とりあえず香水でも買おう。
キシリトールガムを噛み締めながら、ゾンビ娘はそう誓うのでした。