表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ふたりは

作者: If

 身体が重くて敵わない。歩けなくなるのも時間の問題だった。このまま死んでしまうなら、それはそれでいいかもしれない。生に執着する気力はとっくの昔に尽きていた。

「誰?」

 もう自分が歩けているのかどうかも分からなくなってきた。声を聞いた気がしたが、今際の幻聴かもしれない。

「誰だって聞いてるんだけど」

 いや、どうやら幻聴ではないようだ。かすんだ視界の中に、確かに人影らしいものが見える。

「怪我人? こんなところで倒れないでよ。倒れるなら森を抜けてから倒れなさい。町があるわ」

 そんなことを言われても、もはや身体は限界だ。なけなしの気力で立っているようなものだが、ようやく追っ手以外の人間を見つけたという安堵が――安堵したということは、心のどこかでまだ生きたいと思っていたようだ――ついにその最後の気力まで奪い去る。途端目の前が真っ暗になって、身体が勝手に傾いで落ちていった。

「ちょっと、ここで倒れたって私は助けないわよ! 起きなさいよ。あんた死にたいの?」

 地面と激突した衝撃でぷつりと何かが途切れた。なにやらうるさかった声も、すうっとどこかに消え入る。

 ああ、死んだな、と思った。


 ◆


 飯の匂いだ。空腹だった。誘われて上半身を起こすと、身体中がひりひり痛んだ。斬られたのは腰だけだったはずだが。布団をどけて見てみれば、全身、特に右半身が擦り傷だらけになっていた。服も擦り切れていたことから考えて、どうやら引き摺って運ばれたらしい。

 贅沢は言うまい。意識を失う前に聞いた声は女のものだった。引き摺る他なかったのだろう。あのままだと野垂れ死んでいたはずの身だ、助けられただけで感謝せねばならない。

 周囲をぐるりと見渡した。小屋の中のようだが――ひどく建てつけが悪い、おそらく素人造りだ――ずいぶん狭い。一人暮らしなのだろう。質素と呼ぶべき域を軽く通り越して、ほとんど何もないも同然の部屋だった。部屋の隅に本だけがたくさんある。今まで寝かされていたベッドは形をそろえることすらしていない木を適当に並べただけで、全身の痛みはこの寝心地の悪さの所為でもあると思われる。よく見れば布団と思っていたものは古着の寄せ集めという代物で、腰に包帯代わりに巻きつけられた布も襤褸と言って差し支えない。

 これだから。

 溜息をついていた。職業柄、お偉方の屋敷にはよくお邪魔する。民たちは貧困に餓え苦しんでいるというのに、お貴族様は贅の限りを尽くした屋敷で悠々自適な生活を送っている。こんな差があるから、俺みたいなのが出てくるんだ。少々金目のものをいただいたところでああいう輩はちっとも困りやしないのに、どうして地の果てまで追いかけられた挙句ぶっ刺されなければならない。

 ひとしきり愚痴ったところで腹が鳴った。ベッドと同じように歪な形の木をいくつか並べた、おそらくテーブルと思しきものの上に料理が並んでいた。芋をふかしたもの、青菜の炒め物、キノコのスープ、剥いた木の実数種、そして焼いた兎の肉。水も用意してある。器は欠けてる物も多かったが、食事それ自体は至れり尽くせりの豪華さだ。

 家人は留守にしているようだった。どこの馬の骨とも分からない男を一人残してどこかへ行くなんて、無用心も甚だしい。俺が義賊でなかったら、今頃この家は荒らされて――いや、荒らすほどのものがないのか。だとしたら、得体の知れない男と二人きりにならないように避難しておくのは賢明な判断だな。しかし食事まで用意してくれるとは、「ここで倒れたって助けない」とか何とか言っておきながら親切な女だ。ありがたく頂戴しよう。

 控えめな味付けだったが、どれもこれも美味しい。あっという間に平らげてしまった。これでもそれなりに名の知れた犯罪者、あまり長居しては悪かろう。刺される代わりに手に入れた宝石の一つを怪我の手当てと一宿一飯の礼に代えて、空になった皿の横に残すことにした。純度の高いダイヤモンドで逸品だ。これほどのものには中々お目にかかれない。一番金になるだろう。本当は相応の額で売りさばいてからの方がいいのだろうが、この際仕方あるまい。

 立ち上がって伸びをする。腰がずきずき痛んだが、歩けないというほどではなかった。


 小屋の外は森だ。町はまだ先らしい。雨が降っている。家主はどこに避難したのか。だいたいどうして女が一人でこんな場所に住んでいるのだろう。人にはそれぞれ事情というものがあるものだが、どうにも気になった。しかもこの雨だ、森とはいえ外にいてはそれなりに濡れるし、この辺りは夜信じられないほどに冷える。町まで避難したのだろうか?

 勘が、それは違うと言っている。塩以外には香草だけの味つけ、欠けたままの皿、どう見ても素人が造ったとしか思えない小屋に家具、そして裏にあった畑。長いこと町には行かず、自給自足の生活を送っているらしいことは容易に推測できた。何か町に行けない理由でもあるのだろうか。ならば礼に残した宝石も役に立たない。これでも義理と人情を重んじる義賊、命を救ってもらっておいてただで帰るのは流儀に反する。

 人の気配には敏かった。小屋の裏手、一際大きな木の陰から視線を感じた。あそこだ。目を向けると身を隠したが、残念、その程度で俺はごまかせない。足音を殺して忍び寄る。ちょうど手前まで来たときに、再び様子を窺おうとした家主と鉢合わせした。

「ちょっ、なんで居るのよ!」

 この声、間違いない。慌てて後ずさった女は、既に長い間外に居たらしく水浸しになっている。大きな目を一杯に見開いて驚いていた。

「いや、礼をと思ってさ」

「いらないわよそんなの。早くどっか行って」

「そう言わずによ。これでも義賊やってんだ。義を欠いちゃ終わりでな」

「あんたが行かないなら私が行くわよ!」

 逃げ出しかけた女の腕を取る。その異常な熱さに思わず瞬いた。

「離してよ」

「あんたこれ、熱出てんじゃねえの?」

「うるさいわね、放っといて……って、な、何?」

 有無を言わさず、強引にその女を抱え上げた。やはり熱い。雨の中夜通し外にいたのだとしたら、こうもなる。

「下ろしてよ! 何する気?」

「医者に診せる。町はまだ遠いか? 金なら俺が持って――」

「やめて!」

 ふいに顎の辺りにものすごい衝撃が走って、一瞬目の前が真っ白になった。よろけて女を取り落としてしまう。どうやら振り回された肘が見事に入ったらしい。痛え。

「あんたなあ、別に取って食おうってんじゃねえんだから」

「本当に迷惑な奴ね! 勝手に人ん家の傍でぶっ倒れて、今度は何? 放っててって言ってんだから放っときなさいよ。せっかく命拾いしたんだから、早くどこにでも――」

 立ち上がろうとした女が途端、よろけた。ほら、言わんこっちゃねー。支えてやる。意識が朦朧としているらしく、今度は抵抗してこなかった。

「いいのよ私なんて、どうなったって……どうせ死ねないんだから」

 焦点の合わない瞳を彷徨わせ、そんなうわ言を残して、女はついに気を失ってしまった。


 そうしようとした俺に強烈な肘打ちを食らわせるほど、町へ行くのは嫌らしい。仕方がないから小屋に戻ることにした。濡れきった長い髪をベッドの上の襤褸の一枚で拭いてやったところで、さて困った。びしょ濡れのこの服を着っぱなしでは、下がる熱も下がらないだろうが、勝手に脱がせてよいものか。

「おい、あー……そういや名前聞いてなかったな。誰かは知らないけど、そこの勝気なあんた。服着替えて欲しいんだけど?」

 無論返事はない。熱に魘されている様子を見るに、早い方がよいのだろうが。途方にくれて、頭を掻く。別に女の裸を見るのは初めてではなかったが――義賊をやっていれば女には困らない――やはりそういうときとこういうときはまた別物であって。

「返事ねーし、勝手にすんぜ」

 一応承諾を取る。まあ、返事は返ってこないのだが。下着くらい着てんだろ。そっちまで脱がせりゃさすがにまずいから、濡れたままで我慢してもらう。手早く終える――つもりだったのだが、見えた物に知らず手を止めていた。

 腹部に、多数の刺し傷。

 白い肌にそれはよく目立った。しかも傷の形からしておそらく自傷だ。腹を横一文字に掻っ切ったようなものまであるが、普通、こうまでしたら死んでいるのではないか。

 ――いいのよ私なんて。どうせ死ねないんだから。

 先ほどの女の言を思い出す。何となく思い至って、細い左の手首を取ってみた。こちらにも繰り返し切った痕がある。まだかさぶたが残っている生々しいものまであった。

 服を着せてベッドに転がして、さらに布団をかけてやってから、女の顔を見た。まだ若い。俺よりも年下だろう。それなりに美人だし、料理の腕も悪くない。少々性格はきつそうだが、そういうのがいいって男もごまんといるし、見ず知らずの行き倒れを助けてやるくらいには思いやりもある。なんだってこんなところで一人暮らしをして、しかも自殺しようとしているのか。世の中楽しいことなんて、探しゃあいくらでもあるのによ。

 寝返りを打つ音がしたので目を遣れば、女は泣いていた。傷痕も、この涙も、あの尖った物言いからは全然想像がつかない。熱の所為で顔色が悪いのも手伝って、とても儚げに見える。

 ――いいのよ私なんて。どうせ死ねないんだから。

 遠い昔の自分が重なったような気がした。気づけば指を伸ばして、女の涙を拭っていた。


 ◆


「起きなさいってば!」

 何かでどつかれた。頭を起こすと、傍に女が立っていた。襤褸布を何枚も手に持っている。あれで叩かれたらしい。自分はと言うと、どうやらあのまま机に突っ伏してもう一眠りしてしまったようだ。寝すぎるほど寝たはずなのに、なぜか眠くてたまらない。欠伸混じりに答える。

「どーもおはようさん」

「おはようさんじゃないわよ! あんたいつまで居座るつもり? 早く出て行きなさいよ」

「熱は?」

 女はぷいとそっぽを向いた。素っ気ない応答が返ってくる。

「もう下がったわよ」

「それは良かった」

 かなり高熱だったはずだが、一日で復活するとはなかなか丈夫だなと思う。ひとまず安心した。俺を助けたせいで大事に至ったのでは、申し訳ないことこの上ない。

 女は顔を背けたまま俯けた。照れたのかもしれなかった。

「そういやさ、あんた名前はなんてーの?」

「なんだっていいでしょ」

「恩人の名前くらいは知っておかねえと」

 かなりの間悩んで、女はようやく応じることに決めたようだ。小声で呟くように答える。

「……ミリテナよ」

「どうもミリテナちゃん。昨夜はお世話になりました。お礼に――」

「ちゃん付けはやめなさいよ」

「年下だろ?」

「子ども扱いされてるみたいで腹立つわ」

「はいはい」

 肩を竦めて一つ頷いた。十八かそこらだろうが、子ども扱いを嫌がる間はまだ子どもだ。最も、そんなに年は離れていないだろうが。

「あんたは?」

 唐突に質問が降ってきた。片眉を上げる。

「何が?」

「名前よ。……あんたも私の恩人でしょ」

 懸命に照れを抑えて、視線を逸らさないよう努力しているのが見て取れる。不器用な女だなと思って笑った。

「ノア。結構名前売れてんだけど」

「知らないわ」

「そりゃ残念」

 そうだろうと思っていたし、そもそも名前を売るために義賊をしている訳ではない。ちっとも落胆しなかった。そんなことより、礼が先だ。俺のせいで風邪を引かせたなら、その分の侘びも足さなくてはならない。

「あんた町へ行くの嫌なんだろ? 礼と侘び代わりになんか必要なものあったら買って来てやるよ。金ならあるしさ。何が欲しい?」

 ミリテナはまた視線をあらぬ方向へ遣った。

「別に不自由してないわ」

「じゃ、適当に見繕って――」

 テーブルもどきの組み木に手をついて立ち上がろうとした、その瞬間、なぜかふらりとよろけた。目眩がしたわけではない。急に身体から力が抜けて、片方の膝がかくんと折れたのだ。こんなよろめき方をしたのは初めてで少々戸惑う。三日三晩追っ手から逃げて走り続けたときも、こんな風にはならなかった。

「寝すぎたか」

 そう結論づけたが、どうにも納得がいかない。まだ身体に力が戻らないで、さらに何か気だるい。風邪でも引いたのか。しかし熱っぽさはなかった。

「……早く出て行きなさい」

 急に陰った声を不審に思って顔を上げれば、ミリテナは瞳に睫の影を落として暗い顔をしていた。

「なんでそんなに追い出したがるんだ? そんな警戒しなくても、俺別に何もしねーし」

「そんなんじゃないわよ」

 ふるふると首を振る様子は、何か憑き物を払わんとするように激しい。

「ここに居たら、死ぬのよ」

 覇気を失った声が頼りなげに震えた。意味が分からない。

「は?」

「何でもいいから早く出てって!」

 ミリテナは強引に俺を立たせると、そのまま背中を押して小屋の外へ追い出した。


 ◆


 バイヤーの目が高くて助かった。町ではかなりの額になった金を盛大にばら撒くことができた。これでここの人間も、しばらく楽な生活が送れるだろう。

 このまま次の標的を捜しに町を後にしてもよかった。だが、どうしてもあの森小屋とミリテナのことが気がかりだった。捕まえた男に質問を浴びせると、そいつはきょとんとした顔で首を傾げた。

「ミリテナ? 誰だい、そいつは」

「ほら、町外れの森の小屋に一人で住んでる若い女だよ」

 ここでようやく把握したらしく、男は納得したように深く頷いた。

「ああ、義賊の兄ちゃん、そりゃ死神だよ」

「死神?」

「そうさあ。傍に居る者の命を吸い尽くすんだ」

「あー、そういう妄信の類で迫害されてんのか」

 古くさい考えのやつらは嫌いだ。生きているのならちっとは進歩しろよ、と思うが口には出さない。相手の機嫌を損なわないようにするのは、最も初歩的な情報収集術だ。

「それがさ、妄信じゃねえのさ。よーく聞けよ、実はなあ――」

 男は鼻の下をこすって、得意げに語り始めた。

「ある夫婦の妻の方を好きになった男が呪術師でな、逆恨みされて腹の子が呪われたのさ。十になったら周囲の人間の寿命を吸い取るって呪いらしいぜ。で、吸い取った分の命を生きるまでは、どれほど死にたかろうと死ねない。最初はな、誰も信じちゃいなかったさ。その呪術師相当胡散臭かったしな。だけどな、娘の両親が死に、母方の爺さんと婆さんが死に、次は父方の親戚が死んだ。その隣人たちも次々死んでいき……信じるしかなかったね。娘が十二になったとき、とうとう町を追い出されたのさ。犠牲者は三十を越すらしいぜ」


 ◆


 生活必需品を一揃えして――目には自信がある、良品ばかりを集めたつもりだ――森に戻った頃には、もう日が暮れてきていた。小屋の中には人の気配を感じない。両手一杯になった荷を下ろした後、付近を探索してその姿を発見する。

 ミリテナは、高い木の幹に腰かけて、俺が残していったダイヤモンドを赤い木漏れ日にかざしているところだった。風でぼろぼろになったスカートの裾がはためいている。悲しげな顔をしていた。

「そんなに気に入ったのか?」

 木の下から声をかけると、ミリテナは両肩を跳ね上がらせて驚いた。瞬間、彼女を載せた枝が大きく揺れて。

「あ……嘘、やっ!」

 短い悲鳴が上がって、ミリテナの身体は大きく傾いだ。たわんでいた枝が跳ね戻り、華奢な身体が宙に投げ出される。あんな高さから落下すれば、先日の雨で多少地面が柔らかくなっているとはいえただでは済まない。慌てて落下予測地点に駆け込む。

「どいて!」

 落下しながらミリテナが叫ぶ。

「私は平気なのよ! あんたが怪我す――」

 どさ、という音が二回にわたって上がった。一回目はミリテナが俺の腕の中に落ちてきた音、二回目は支えきれずにミリテナもろとも俺が前のめりに倒れた音だ。

「いってえ……平気か?」

「……平気よ。喋れる元気があるならどいて。いつまで私の上に乗っかってるの」

「それがさ」

 両腕が痛い。死ぬほど痛い。どうやらやってしまったようだ。

「それが?」

「両腕逝ったっぽい」

 ミリテナは血相を変えて、慌てて俺の下から抜け出そうとした。が、折れたらしい腕は彼女のさらに下にある。動かれるとそのたび痛みが駆け上る。堪ったものじゃない。

「いった、いてて、ちょっと待て! 動くなって」

「だって、あんた腕、早く何とかしないと」

「そりゃそうなんだけどよ……痛えって!」

「我慢して」

 ミリテナは激痛に呻く俺をそっちのけで、無理やり抜け出した。そのときそのか細い右手に、例のダイヤモンドをしっかりと握り締めたままでいるのを見た。思わず苦痛を忘れて笑んでいた。


 ◆


 立ち上がるのを介助してもらった後、再び小屋の中へと通された。俺をベッドもどきの組み木の上に座らせて、ミリテナはどこかへ消えたがすぐに戻ってきた。添え木にするための枝をいくつか拾ってきたらしい。

「だから言ったじゃない。私は平気だからどいてって」

 責めるような言葉だったが、顔は申し訳なさそうだった。やはり心中ではそのように思っていたらしく、すぐに謝罪の言葉が続く。

「……ごめん」

「なんであんたが謝るんだ? そもそも俺が声かけたのが発端だろ」

「でも、私を助けようとして怪我したんでしょ」

 両腕に抱えた枝をぎゅっと抱きしめて、ミリテナは視線を左下に流した。消え入りそうな声で付け足す。

「ありがと」

 ミリテナは恥ずかしげに、しかし確かにそう言った。無性に嬉しかった。これほどまでに心が弾んだことは久しくなかったと思う。堪えきれずににやつくと、ミリテナは「何よ」と眉を顰めたが、それ以上は何も言わなかった。傍まで近づいてくると足元に膝をつく。枝を置いて、最初に右腕、次に左手をそれぞれ取ってあちこち調べた後、ミリテナは「ああ」と小さく呟いた。

「これ、折れてないわよ。脱臼の方みたいね」

「脱臼?」

「関節が外れてる状態って言えば分かる? 元に戻すわ。痛むけど我慢して」

 さらりと言うと、ミリテナは左腕を強引に――少なくとも俺にはそう見えた――捻じって、押し込んだ。痛いどころの話ではない。痺れが全身に走って、何かが頭を下から上へ刺し貫いた。声一つ出せない。汗が一度に吹き出す。

「はい、次右ね」

「……はっ、ちょ、ちょっと待ってくれ、一旦休け――いぃっ!」

 問答無用でミリテナは右腕も同じように捻じ込んだ。直前まで喋っていたせいか、今度は喉の奥から変な声が出てくる。

「待てって言ってんだろ!」

 息を落ち着かせてから文句を言ってやると、ミリテナは涼しい表情で答えた。

「脱臼の治療は少しでも早い方がいいのよ。添え木しとくから動かさないようにしなさいよ」

「医学やってんの?」

 左腕を延ばして、ミリテナは部屋の隅を指した。たくさん本が積み上げられている場所だ。

「親が医者だったのよ。それで……あの本、全部医学書よ。暇だからずっとああいうの読んでたの。心配ならちゃんとした医者に見てもらったらいいわ。ここには包帯もないし」

「包帯なら買ってきたけど」

 口を挟むと、ミリテナは不思議げに首を捻った。

「え?」

「他にも皿とか布団とか、調味料に服もさ。あんたの好みは分からないけど、それなりのもん選んできたつもりだ。外に置いてる。運んでやりたいけど、両腕このざまだからさ」

 そちらを見遣ると、ミリテナは立ち上がった。扉を少し開いて、置かれてあった大きな袋を見る。ややあって、何とも表現しがたい沈痛な表情をして振り返った。

「……町へ行ったのなら、私のこと、聞いたでしょ?」

「聞いた」

「どうして帰ってきたのよ。死にたいの?」

 言葉に似合わない静かな口調で、そして今にも涙を浮かべそうな顔で、ミリテナはそう言った。

「あんたはそうやって近づく人間みんな遠ざけて、一人で生きてきたんだな」

 言ってやると、ミリテナは今度は眉を寄せた。俺を睨みつけていくらか強くなった声で、言葉をぶつけてくる。

「そうよ。そうしなきゃ皆死ぬのよ。こうしてる間だって、あんたの寿命削れてるのよ?」

「世の中の楽しさ何一つ知らないで、そのまま死のうとしてる馬鹿な奴だ」

 言わんとしていた何かを飲み込んで、一度ミリテナは押し黙る。視線を外した。また頼りなげに戻った声が返ってくる。

「……うるさいわね」

「せっかく綺麗な顔してんだからさ、笑ってろよ」

 考えてみれば、会ってこの方一度も笑顔を見ていない。見てみたいと思った。

「笑い方なんてもう忘れたわ」

「だったら俺が思い出させてやる」

「どうしてそこまでするの?」

 確かに、疑問だ。俺は義賊だ、これまでだって世のため人のために生きてきたつもりだ。だが、こんなにも一人の人間に入れ込んだことは、記憶にない。理由は案外と手近なところにあった。

「飢饉にやられた村のたった一人の生き残りでさ。義賊始めるまで俺もあんたとおんなじような顔してたよ。他人事とは思えなくてな。それに」

「それに?」

 似ている、が、あのときの俺にはミリテナのように他人を気遣うことはできなかった。自分は誰からも救いの手を差し伸べてもらえなかったのに、ミリテナは俺にそうした。こんな目に遭っておきながら、大した人間だと思う。

 最初は何とかしてやりたいという思いだった。今はもうそれだけではない。

「あんたに惚れたんだ、ミリテナ」

 言ってのけると、しばらくの間ミリテナは呆然と立ち尽くしていた。言葉の意味を理解したらしい後は、ほんのり頬に朱が差す。

「……からかわないで」

 そうして髪を乱して顔を背けたその女を、可愛いと思った。


 ◆


「やっぱりな。よく似合うと思ったんだ」

「こんな服初めて着たわ……綺麗……」

「結構見る目あるだろ?」

「そうね。町の服屋にはこんなのがたくさん並んでるの?」

「そうだな」

「そう……」


 ◆


「布団ってこんなに柔らかかったのね」

「ベッドも買えればよかったんだけどさ、さすがに一回じゃ持ちきれねえし」

「これで寝ても身体が痛くならなくて済むわ。とても暖かそうだし」

「暖かいのがお好みなら添い寝するけど?」

「け、結構よ!」


 ◆


「すげえ美味そうな料理だな」

「あんたが調味料買ってきてくれたから。まだどれをどう使っていいのかは自信ないけど、前よりはましになったはずよ」

「ああ、いい匂いだ。でもさ」

「何?」

「両手動かせねえから、食えねえんだけど」

「そうね」

「……よろしければ食べさせていただけると助かるんですが?」

「最初からそのつもりだったわよ。ほら、座って」


 ◆


「これは何? 飲み物?」

「酒。飲んだことないだろうって思ってさ」

「ないわ。どうやって開けるの?」

「どっかに栓抜きも入ってるはずだ。それで開ける」

「これ?」

「それだ」

「どうやって使うの?」

「栓のところにその螺旋状になってるところを捻じ込んで引っ張るんだ。ちょっと力いるぜ」

「やってみるわ……こんな感じ?」

「ああ、上手い」

「それで引っ張るのね……固いわ、あっ、抜けた。すごい音ね」


「なんだか鼻につんとくるにおいね」

「ブドウ酒さ。それほど高くはねえけど、それなりに飲めるやつだ」

「……にがっ。こんなものなの?」

「すぐ美味く感じるようになる。で、もう腕動かせそうだしさ、これ取っていいか?」

「駄目よ、まだ動かしちゃ。脱臼ってちゃんと治さなきゃ癖になるのよ」

「って言ってもなあ。肘固定されちゃほとんど何もできねえし。俺も飲みてえんだけど」

「仕方ないわね」

「口移しでもしてくれんの?」

「誰が。飲ませてあげるから。はい」


 ◆


 両腕を傷めてしまったのは不便極まりなかったが、ミリテナの小屋に留まる理由ができたという点では有り難かった。一定の場所に何日も留まることなどなかった。各地を忙しく飛び回っているのもいいが、こうしているのも悪くはない。

 何日そうして過ごしたか、ある夜、ミリテナが足音を忍ばせて小屋を出て行った。だいたいの察しはついていた。後を追うことにする。扉を開けるのに添え木が邪魔になったので、もう外すことにした。本当は腕のことなどどうでもよかった。

「どこ行くんだよ、ミリテナ」

 荷を抱えて明け方になるまで森を歩き続けていたミリテナを呼び止める。ミリテナは以前枝に腰かけていたときと同じように肩を上下させて驚いた。

「どこって……ちょっと食料を探しに」

 どぎまぎと拙い返答を寄越すが、その程度の嘘に俺が引っ掛かると思ってるなら見当違いだ。

「こんなところまでか?」

「……腕、もう動かしていいわ。あんたと一緒にいる理由はこれでなくなったのよ」

「俺はもっとあんたと一緒にいたいんだけど」

「私は……嫌よ」

「そのワリには俺の買ってきたもの大事そうに抱えてるし、そのダイヤもずっと握ってるよな」

「これは、そう、お金になると思って」

「あんた嘘下手だよな」

「嘘なんかじゃないわ。だってこのまま私があんたの傍にいたら――」

「先のことはどうでもいいんだよ。俺は今、ミリテナと一緒にいたい。あんたは?」

 柄にもなく、急いていた。洒落た言葉を探す余裕すらないほどに。最近例の不可解なよろめきと脱力感を感じる回数が格段に増えていた。時間がなかった。

「……嫌よ」

 しかし、ミリテナは首を縦には振らない。泣き出しそうな顔で拒絶する。

「だから、嘘はやめろって」

「嘘じゃないわ!」

 声が波打った。ついに堪え切れなかった涙が、左の眦から零れて頬を滑った。透明に透き通った、どこまでも綺麗な涙だ。

「あんたの傍にいたら……楽しくて幸せで……私にかけられた呪いのことを忘れてしまいそうで、怖いの。あんたがいないと生きられなくなって、なのに気づいたらあんたが死んでたってことになりそうで嫌なの! 今ならまだ離れたって大丈夫だって思ったから、私」

 一度溢れたものは止まらない。涙を流し続けるミリテナは、脅えたように抱えていた服をぎゅっと抱き寄せて、右手のダイヤを固く握り締めた。上がった袖からは左手首が見える。そこにもう新しい傷は見当たらない。

「なら、質問を変えるぜ」

 臆病な女だ。だが、とても健気な女だ。こんな女を放っておけるほど、冷たい人間にはなりたくない。

「俺はミリテナが好きだ。ミリテナは?」

 結局、何の飾り気もない言葉を選ぶことにした。まっすぐに目を見て、ゆっくり一語一語刻みつけるように言う。ミリテナは怯んだように後ずさった。が、目は離さない。

「私は……」

 流れる涙を拭うこともせずに、ミリテナは囁くように声を零した。それきり口を噤んで、ずいぶん長いこと葛藤して、そうして震える息を吐いて。

「…………私、も……」

 蚊の鳴くような、吹くと飛んでしまいそうな、そんなか細い声で、ミリテナは言う。

「好き……」

 本当は分かっていたかもしれない。でも、やはり本人の口から聞くのではやはり違った重さがあって。その言葉を期待していたにも関わらず、らしくもなく思考停止してしまった。

「分からないわ……もうどうしていいか、私」

 ミリテナが心細げにさらに足を引いた。それで我に返る。開いた分の距離を急いで詰める。

「分からなくていいんだよ。何も考えなくていい」

「こんなとき、どうしたらいいか……どんな顔をしたらいいのかも知らないの。ずっと一人でいたから、私、何も知らな――あっ」

 気づいたときには、ミリテナを腕の中に抱き留めていた。

 ミリテナが抱えていた服やら何やらが、ばさばさ足元に墜落していった。柔らかい髪が喉をくすぐる。思っていた以上に小さくて細い身体だ。力を込めたら壊れてしまいそうで、どうやって抱きしめたらいいのか分からない。だがミリテナは安心したように息をついた。

「暖かいわ……」

「あんたは柔らかい」

「心臓、すごい音で鳴ってる」

「そりゃ、好きな女が腕の中にいるんだから」

「そうじゃなくて、私の」

「……言葉が足りてねえよ」

「照れたの?」

「うるせーな」

 最後に残った涙を流しきって、ミリテナは初めて笑った。

「好きよ、ノア。好き。好き」

 花が咲くようにとはまさにこのことだと感じるほどに、どうしようもなく美しかった。


 ◆


「呪いが解けたら、何がしたい?」

「そうね、町を歩いてみたいわ。色んな店を見て歩きたい。買い物をして、ご飯を食べて……夜まで遊びたい」

「いつかそうなったらいいな」

「ノアも一緒によ? 一人じゃ楽しくないわ」

「……そうだな」

「ノア、私、ずっとあなたと一緒にいたいわ。だけど、やっぱりこのままじゃ」

「余計なこと考えるなよ。あんたにかけられた呪い、俺には効かねえんだって。これだけ一緒にいても何ともねーんだから」

「本当に?」

「本当に」

「ずっと一緒にいられる?」

「ああ」


 ◆


 人間死期が近づくと分かるというのは本当らしい。ああ、今日だなと思った。死ぬときはミリテナに分からないように、と決めていた。

「ノア、どこへ行くの?」

「買い出しさ。調味料がだいぶ切れてきただろ?」

「ほんとに?」

 ぎくりとした。が、ここでばれては意味がない。平静を装って笑ってみせる。

「嘘ついてどうするんだよ」

「そう……そうよね」

 何も言わずに去ろうと、そう思っていた。けれども、脅えたような瞳を弱々しく伏せたミリテナを見ていると、言わずにはいられなかった。

「ミリテナ」

「なに?」

「あんたにかけられた呪い、俺が解いてやるから」

「どうしたのよ、いきなり」

「呪いが解けたら、あんたは一人じゃない。……俺がいなくても」

 本当は、名残惜しい。最後になる。忘れないようにミリテナの姿をしかと目に焼きつける。愛しい。これからも共に生きられればどれほど良かったかと、そう考えずにはいられないほどに。

「ノア? どういう意味?」

「なんでもない。じゃ、行ってくるな」

「待って、ノア、待ってよ!」

 振り切るように背を向ける。声が追って来たが、振り返らなかった。また身体の力が抜けそうになったが、どうにか持ちこたえて、ミリテナが追いつけない距離になるまで気力を振り絞って走り続けた。


 ◆


 ――その呪術師、どこにいるんだよ。

 ――捜してどうするつもりだい?

 ――決まってる。ミリテナの呪いを解いてもらうのさ。

 ――無駄だぜ、義賊の兄ちゃん。

 ――何が無駄なんだ?

 ――もう死んでる。娘の母親が死んだときに首括りやがったんだ。

 ――呪った本人が死んでるのにまだ解けねーのか?

 ――俺も詳しくはないんだけどよ、呪術っつーのは術者が死ぬとより効力を増すらしいぜ。

 ――ひどい話だよな。ミリテナには何の非もねーのにさ。

 ――兄ちゃん、さてはあの娘に惚れたかい?

 ――悪いか?

 ――いんや、悪かねえさ。ただ、兄ちゃんまだ若いのに……いや、若いがゆえかね。一時の情で身を滅ぼしちゃ可哀想だなと思っただけさね。

 ――後先のことは考えない主義でさ。今を後悔しないように生きてえんだ。そもそも俺、ミリテナが救ってくれなきゃ死んでたしな。

 ――潔い兄ちゃんだ。だったら一ついいことを教えてやろうか。

 ――なんだ?

 ――呪術師が死ぬ間際に言い残した言葉があるらしいんだ。『あの娘の呪いは、誰かに愛され、そしてその者が娘に命を捧げるならば解くことができるだろう』だとよ。

 ――ふーん。どっかのおとぎ話みてーな話だな。

 ――噂だがね。どうするかい?

 ――試してみなきゃ始まんないよな。

 ――無謀というか馬鹿というか。

 ――何もせずにいるよりかはマシさ。

 ――いいねえ、そういうの。あんたはいい男だ。俺もあやかりたいくらいだ。

 ――せいぜい奥さん大事にしてやるこった。あんた昨日の晩、女捕まえて遊んでただろ。

 ――うへえ。なんで知ってるんだ?

 ――夜目が効くんだ。たまたま見つけただけさ。あんたが喋ってくれなきゃ、これを盾に取って聞き出すつもりだった。よかったな、喋っといて。

 ――兄ちゃんが本気だってのは、どうやら間違いないらしい。

 ――分かってくれたか? そんならもう一つ頼みがあるんだけど。

 ――頼みっていうよりほとんど命令じゃないか。

 ――聞いてくれるならどっちでもいい。じゃ、命令ってことで。

 ――構わないよ。あんたの男気には負けたよ。

 ――もしもあんたの言うとおりの方法でミリテナの呪いが解けたら、それ、あんたが町の皆に説明してやって、ミリテナをここで住めるようにしてくれよ。

 ――……分かった。必ずそうしよう。

 ――頼むぜ。もうミリテナを一人にしてやるなよ。あいつ、もう十分一生分の寂しさ味わったんだからさ。


 ◆


 本当は森を出るところまで進みたかったが、残ったわずかな力では叶わなかった。町とは反対方向へ走り続けて、そして、とうとう足が動かなくなった。人の目が届きにくい暗い場所まで這って進む。たどり着いた大木の根元に、どうにか上半身を起こしてもたれかかった。暗くはあったが空気は澄んでいて、こんな場所で死ぬのなら悪くはないなと思った。

 行ったり来たりの意識を手放しあぐねていた。心残りは何もないはずなのに、ミリテナが楽しげに笑う顔を思い出すたびこちらの世界に引き戻された。もう一度あの顔が見たい。往生際が悪いと、一人で笑う。

「ノア、ノア!」

 今度こそ、幻聴を聞いたのだろう。森は広い、ミリテナがこの場所を探し当てるはずがない。よほどミリテナを残して逝くのに未練があるらしい。

「ノア、どこにいるの? ノア!」

 まだ、声は引かない。声だけでも聞きながら死ねるのなら、幻聴でもよかった。

「お願い、ノア、いるんでしょ? 返事して」

 聞くたびにはっきりしてくるのは、それだけ俺があの世に近づいているからだろうか。どうもそうではないらしい。徐々に視界がはっきりしてくる。そして。

「ノア!」

 長い髪が、まず見えた。ゆっくりたどっていく。いるはずのない女が、いた。

「なんで見つけちまうんだよ。手練の衛兵にも、中々見つからねーってのに」

 幻であって欲しかったが、本当はそうであって欲しくはなかった。そして、そうでないのはすぐに分かった。ミリテナは屈みこむと、もう既に泣いていた目で俺に視線を合わせた。

「呪いが効かないなんて、やっぱり嘘だったんじゃない。どうして……」

「聞けよ、ミリテナ。あんたの呪い、俺が死んだら解けるんだ」

 聞き分けのない子どもみたいに、ミリテナは何度も首を振る。ゆっくり延びた両手が、俺の右腕を握った。

「嫌よ。あなたが死ぬなら、呪いなんて解けたって意味が無いわ」

「後のことは、町の南側三番目の通りの角に住んでるおっさんに頼んである。俺が死んだって、ミリテナはもうこんなところで一人で住む必要は」

「いや、嫌よ。なんで……私のためなんかに……」

 涙はどんどん大粒になる。顎を伝った一滴が握られた右腕に落ちた。暖かかった。

「ミリテナ、あんたがいなかったら、俺はあのときあそこで死んでたんだ」

 来てしまったのなら仕方がない。本当は黙ったまま恰好よく逝ってやろうと思っていたが、人生はどうにも上手くいかない。

「俺もさ、それなりに世間の冷たさは知ってるつもりだ。あんたみたいな人間がどれだけ貴重か。あんたが救ってくれた命だ、あんたのために使いたいって思った。俺が決めたことだ。後悔はしてない。惚れた女を救って死ねるなら、むしろ本望さ」

 ああ、本望だ。そりゃあ、できるならこれからもあんたと一緒に生きたかったよ、ミリテナ。だけどできないものは仕方ない。あんたは早くもっといい男を見つけて、今度はそいつと死ぬまで幸せになったらいい。言わないぜ。本当はあんたを他の男に譲るなんて、そんなもったいないこと、したくはないんだ。本当は絶対にお断りなのさ。だけどあんたみたいないい女を、永遠に一人にしとくことはできねーよ。それに、そんなこと言い始めたら、俺まで泣きそうだ。せめて、あんたがふと思い出す記憶の中の俺くらい、恰好よくありたいじゃねえか。

「……ばか」

 泣きながら、しかし、ミリテナは笑った。左手を離すと、服のポケットから何かを取り出す。あのダイヤだ。

「ずっと持ってたの。肌身離さず」

 ミリテナの膝の上に載せられたそれは、こんな薄暗い場所にあっても、眩しいばかりに輝いていた。

「ねえ、ノア。私、とっくに救われてたのよ。ノアが来る前は、死ぬことばかり考えて生きてきたわ。でもあなたが来てからは、私、本当に幸せだった。綺麗な服を着せてもらったし、美味しい食材を使って料理もできたし、ふかふかの布団で眠ることだってできた。でも何より、人と一緒にいることが……人を好きになることが、こんなに幸せなことだなんて、思いもしなかったわ。知れてよかった。ノア、私、もう十分よ」

 また、左手が何かを探る。ミリテナが取り出したのは、血に染まった――おそらく昔の彼女自身の、だ――短剣だった。

「なんでそんなもん持ってんだよ……」

「こうなるかもしれないって、分かってたの。だから。でもね、ノア。私これまでみたいに自分の身を嘆いたからって、これを使うんじゃないわ。あなたに出会えたことに心から感謝して、そしていつまでもあなたの傍で幸せでいるために、これを使うの。お願い、分かって」

 そんなに長い時間ではなかった。だが、短い時間でもなかった。ミリテナが梃子でも動く気はないのは、目を見ればすぐに分かった。

「あんたもばかだな、ミリテナ。せっかく呪いから解放されるっていうのによ」

「ばかどうし、お似合いじゃないかしら」

「そうだな」

 抱き寄せようとした腕を止められる。何事かと首を捻ると、ミリテナは優しく微笑んでいた。そうして顔を寄せながら瞼を落とすと、そっと口付ける。

 ミリテナからは、初めてだった。

「ノア、ありがとう。これからも――」

 ミリテナの身体が、胸にもたれかかってくる。確かな温かさに何より深い幸せを感じる。


 その先はもう、聞こえなかった。


 ◆






























































評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ