誰が盗った
これは別の連載の途中に、気分転換に書きました。
なので大目に見て、最後まで怒らずに読んでくれたらうれしいです。
私はいつものように風呂に入り、風呂から出るといつものようにキッチンに向かった。
そこまではいつもの通りだった。
そう、まだこのとき私は上機嫌だったのだ。
それがまさかあんなことになろうとは……
「ない! ナイ! 無いぃ!!」
夜、八時四十三分。私はあまりの衝撃に声に出して叫んだ。
その声を聞き、驚いた妻がキッチンへ慌しく駆けて来る。
「どうしたんですか?」
ドウシタンデスカ?
今『どうしたんですか』と言ったのか?
あまりの衝撃に、そのとき私は上手く聞き取ることが出来なかった。
冷蔵庫のドアを開け、タオル一枚を腰に巻いた格好で呆然と立ち尽くす私は、さぞ滑稽に映ったことだろう。
放心状態から覚ます大きなくしゃみを一つ――怒り心頭だった私は、妻の質問に答えずドカドカとキッチンを後にした。
寝室に行きパジャマに着替え――このくらいの冷静さは取り戻した――その足で二階に続く階段下へと向かう。
そして二階に向かって声を張り上げた。
「イチコっ! ジロウっ! 今すぐ降りてきなさいっ!」
これほど大きな声は、家の中で発したことはないかもしれない。
私の声に驚き、長女と長男が二階から姿を見せた。
「なによぉ?」
「一体何だよ?」
二人とも顔を見せた途端、揃って小憎らしいばかりに不満を露にした口調で訊いてきた。
「いいから二人ともリビングまで来なさい!」
そのときの私は二人から見れば、威厳に溢れる父親に見えたことだろう。
成長するに従い、私への敬意を失った二人にはちょうど良い。
続いて、心配そうにキッチンから顔を出し、こちらの様子を伺っていた妻にも声を掛ける。
「ツマエ、おまえもリビングに来なさい!」
そう言うと私は颯爽とリビングに向かった。
五分後、リビングに家族四人が集まった。
「一体どうしたんですか?」
「なんなのぉ。マジ、ウザい!」
「用があるなら早くしろよ」
それぞれが不満の声を上げるの目を閉じながら聞き、私は鼻を鳴らしながら腕を組んだ。
そして三人を順番に見回すと大きく息を吸い込み口を開いた。
「いいか、正直に言いなさい。父さんの……父さんのビールを飲んだのは誰だ?」
怒鳴りたいのをグッと堪え、意識的に静かに問いかける。
静かに問いかける方が凄みを増す状況もあるのだ。
思惑通り、三人が『鳩が豆鉄砲を喰らった』ような顔を見せていた。
いや、正確には二人だ。一人は犯人のはずだ。
「はあ? 親父なに言ってんの?」
「バッカみたい」
「あなた……」
フフフ、三人共なかなか自然なリアクションじゃないか――と言いたいのを堪え、神妙な面持ちを保った。
ここで選択は、わずかな間だけ沈黙を保つこと。
その沈黙が、犯人にプレッシャーを与えるのだ。
充分な間を置き、私は絶妙なタイミングで口を開いた。
「いいか、父さんはアルコールの臭いを調べる真似はしたくない! そこまで器量が小さいわけじゃない――」
そこで一度言葉を区切り、私はもう一度三人を見回す。
「だから正直に言いなさい。正直に言えば怒らない」
そこまで言うと、三人はそれぞれの顔を見合った。
最初に口を開いたのはジロウだ。
「バッカじゃねえ? 信じらんねえ」
「アタシらを疑ってるの?マジで信じらんな〜い」
「あなた……」
フフフ、思った通りのリアクションだった。
信じられないだと?
だが残念ながら、現在信じてないのは私の方だ。
「分かった。名乗り出ないなら仕方が無い……。今からアリバイ調査をする!」
拳を振りかかざして言い切った私に、三人は目を見開いた。
久々に気分が良い……。
まず始めに、経緯を順序良く考えていこう。
私は風呂上りのビールを一日の楽しみにしている。
しかし夕食後、今日に限りそのビールが切れているとツマエが言った。
私が言うのもなんだが、ツマエは中々良く出来た妻で、そんなことは今まで一度もなかった。
「今からコンビに言って買って来ます」
そうツマエが言ったので、ちょうど煙草が切れかけていた私は自分で行くと申し出た。
我ながら良き夫だと思う。
そしてコンビに行き、煙草と五百mlのビールを1本、それにマヨネーズを買った。
事件にはあまり関係の無いことだが、一応言っておくと、マヨネーズはツマエに頼まれたものだ。
そして帰宅し、キッチンへ向かった。
冷蔵庫のドアを明け、いつもの場所――牛乳パックの横にビールを入れようとしたが、その場所が空いてなかったので別の場所に置いた。
そう鮮明に覚えている……。カニだ。蟹の横に確かに置いたのだ。
そうしてリビングに戻り、時計を見たのを覚えている。
時計の針は七時五十五分を差していた。
ということは、ビールをしまったのはその時間と考えて間違いないだろう。
その時リビングには、ツマエと娘のイチコ、二人がバラエティ番組を見ていた。
私はソファに腰掛け、新聞を読み始めたのを記憶している。
その約三分後、七時五十八分くらいだろう、ジロウがリビングに入ってきた。
どうやらトイレに入っていたらしい。
そうして八時十二分に私は風呂に向かった。
この時間もハッキリと覚えている。
そして風呂から出た八時四十三分、事件は起きた……。冷蔵庫のビールが無くなっていたのだ。
もちろん、蟹の横にも、いつも置く牛乳パックの横にも見当たらなかった。
よって、八時十二分〜八時四十三分の間がビールの持ち出された時間――いや、『犯行時刻』と言っていいだろう。
私は犯行時刻を頭の中で再確認すると、一人ずつ『アリバイ』を確認することにした。
「これから一人ずつ、アリバイ確認をさせてもらう」
その言葉に子供たちが口汚く批判の声を上げるが、あえてそれは聞き流す。
ツマエは批判の言葉を口にはしないが、何か言いたそうに上目遣いに私を見ていた。
分かっている。私とて我が子を疑いたくはない……しかしっ! これはハッキリさせなければいけない。
家族とはいえ、人の物を勝手に飲んだ挙句、それを訊かれても正直に言わない。
我が子でも……否、断じて否っ!
我が子だからこそ余計にそんな精神を許してはいけない!
決して、私が楽しみにしていたビールだからというだけの問題ではない!
私は決意を固めて咳払いを一つし、子供たちをジロリと見据えた。
まずはジロウだ。
ジロウは無類の酒好きで、その点を考えれば限りなく『黒』に近い。
「ジロウ。私が風呂に入ってる八時十二分から四十分の間、どこで何をしていたか言いなさい」
「な、何でだよ! ふざけんなよ!」
ジロウは慌てふためきながら不平をこぼす。
「いいから言いなさいっ!」
そこで私はピシャリと言い放ち、ジロウの不平を一蹴した。父の威厳だ。
「……しばらくここにいて、それからは二階に行ってたよ!」
口を尖らせながらそう言うと、ジロウはそっぽを向いてしまった。
「二階に行ったのは、正確に言えば何分頃だ? そして二階で何をしてた?」
「なっ……どうしてそ、そ、そ、そんなことまで言わなきゃいけないんだよ」
言葉自体は強気だが、口調はしどろもどろだ。
いきなり本命直撃か?
内心私は落胆した。それではあまりにも骨が無い……。
そんなことを考えながらジロウをジッと見据える。
「ジロウが二階に行ったのは二十四分くらいよ」
ソファの背もたれに肘を突き、そっぽを向きながらイチコがそう答えた。
どうやら、イチコは不本意ながらも協力する気になったらしい――いや、まだ分からん!
イチコはしたたな性格だ。もしかしたら私の心証を良くするための作戦かもしれん。
「……それは確かか?」
「そうよ。だってちょうどCMになったときで、時計を見たもん」
「なるほど……。で、ジロウ、二階で何してた?」
「携帯で電話してたんだよ!」
フフン、どうやらやっとジロウも協力する気になったようだ。
「誰とだ?」
「何でそんなことまで言わなきゃいけないんだよ! プライバシーの侵害だろ!」
『プライバシー』だと? 学生時代に英語の成績が1だったくせに、自分に都合の良い単語だけは覚えおって!
そう怒鳴ってやりたくなったが、その言葉を寸でのところで飲み込んだ。
尋問する側が冷静さを欠いては犯人の思うツボだ。
「誰と電話していたか言いなさい」
私は意識的に声のトーンを落とし、冷静さを殊更アピールしながら言った。
「ととと、友達だよ!」
声が上擦っている。やはり怪しい。
そこで私は一つの作戦を閃いた。
「おい、ジロウ。携帯が鳴っているぞ?」
「え?」
もちろん着信音など鳴ってはいない。
ジロウは首を傾げながらポケットから携帯を取り出し、着信を確認した。
やはり持っていたか!
最近の若者は携帯を手放さない。
聞くところによると、風呂まで持っていくヤツもいるらしい。
私はその期を見逃さず、ジロウの手から素早く携帯をひったくる。
その行動にジロウを始め、イチコとツマエも唖然としていた。
その隙に着信記録を手早く確認する。
「なっ! 何してんだよ!!」
ジロウがやっと我に返り、怒鳴りつけてくるが気にしない。
捜査はときに強引さを必要とすることもあるのだ。
犯行時刻に発信履歴は無い。次は着信記録だ。
そして着信記録には――
「エイコ? 八時二十分?」
「返せよ!」
そう怒鳴なりながら顔を真っ赤にし、ジロウは私から携帯を奪い取った。
エイコというのが気になったが、どうやらジロウは本当のことを言っていたようだった……。
重苦しい沈黙がリビングを包む。
ジロウもツマエに諭され、やっと落ち着きを取り戻した。
「じゃあ、次はイチコだ」
「あなた……」
何か言いたそうにツマエが声を掛けてくる。
「おまえは黙っていなさい!」
そう一括し、私はイチコに向き直った。
「え〜……あたしはぁ、ずっとTV見てたぁ」
「ずっと? 一度もリビングを出なかったのか?」
「そう」
フフン、それが本当か確かめる手段もすでに考えてある。
私は黙ってテーブルの上にあったリモコンを取ると、それを操作する。
それはDVDのリモコンだ。
イチコは好きな芸人が出ると、TVで見ているにも関わらずDVD録画をする。
その熱心さを勉強に活かしていれば――などと今はそんなことを言っても仕方が無い。
問題は、私が風呂に入る前、新聞を読みながらチラリとTVに目をやったとき、その芸人が映っていたことだ。
そして、当然のようにDVDも稼動していた。今はその動きが静寂を保っていた。
私は勿体つけるようにTVとDVDのリモコンを手に取り、それを手早く操作する。
案の定、風呂に入るときに流れていた番組が録画してあった。
記憶を頼りに、私が風呂に行くときに流れていた場面を映すと、一時停止をしてイチコに質問をする。
「番組はこの後どうなる?」
「はあぁ?」
あからさまにイチコが嫌な顔を見せた。が、そんなことでは怯まない。
「どうなるか答えなさい!」
「え〜……。たしかぁ……」
そのような具合に、ランダムに場面を選択して質問を繰り返したが、イチコの記憶力は中々のモノで、全ての質問に的確に答えた。
どうやら『ずっとリビングにいた』と言うのは本当らしい。
しかし、まだ完全に信じるわけにはいかない。
もちろんジロウもだ。
電話をしていたのは本当だが、それが何分までだったかは分からん。
仮に、ずっと電話をしていても、ビールを取ることは可能だ。
ビールを飲みながらガールフレンドと電話する――その光景を思い浮かべ、なぜか無性に腹が立った。
ツマエは……それはない! ツマエは酒の類は一切飲めない。
それと気になることが――それは、三人からは不思議とアルコールの臭いがしないことだ。
ということは、取っただけでまだ飲んでいないのかもしれない。
とりあえず良い打開策が見つからず、沈黙の中で睨み合いが続く。
「ツマエ、おまえはどこにいた」
「あなた……」
また何か言いたそうだが、容疑者がいる中で甘い顔は出来ない。
「いいから言いなさい!」
「……」
ツマエが黙り込んだ。
「ちょっとぉ、お母さんまで疑うの? お母さんお酒は飲めないでしょ! 最低えぇ!」
最低? おおいに結構。このような状況でなくとも、日頃から『最低』と言ってくる。
そんな娘に、今さら最低と言われても、鋼のような私の心は折れはしない。
「イチコは黙りなさい!」
私がイチコを一睨みすると、ツマエが重い口を開いた。
「……あなたが出て来る直前まで、ずっとキッチンで洗い物をしてました」
ツマエが低い声でボソリと言った。
一瞬、三人でギクリとする。
明らかに怒っているときの口調だ。
普段は温和なツマエの怒りは、某アニメの『クマの○ーさん』を見た直後、野生の実物な熊を見て受ける衝撃に値する。
要は、そのギャップに戦慄が走るのだ。
私は取り繕うように咳払いを一つした。
「ああ……おまえを疑っているわけじゃないんだ。その、なんだ……その間に誰かキッチンに来なかっ――」
「来てません」
うおっ! 私が最後まで言い終わらぬうちに答えてきた。
しかし、ここで怯んではいけない。
「そんなわけないだろ! 私は確かに冷蔵庫に入れた! 蟹の横だったと記憶している!」
「……」
「しかし、蟹の横にも無ければ、いつもの場所にもない! 誰かが取ったとしか考えられん!!」
そう声を荒げて言うと、ツマエがスッと立ち上がった。
私を含め、三人でまたビクリと身体を震わせる。
「……」
身を仰け反らせる私たちをよそに、ツマエは黙ってリビングを出て行ってしまった。
残された三人で、これから起こるかもしれない惨劇の予感にソワソワしていると、ツマエが静かに戻ってきた。
そうして、そのまま私の横で仁王立ちをする。
「ひ、ひ、人の話の途中に、ななな、何をしていたんだ!」
ツマエを見上げて怒鳴るが、声が上擦っているのが自分でも分かった。
「……」
黙ったまま仁王立ちしていたツマエの腕が振り上げられた。
「ヒッ!」
私が思わず情けない声を漏らしたその直後――
ダンッ! とテーブルを叩く強烈な音だった。
三人とも肩をすくめ、目を瞑っていた。
「……」
しかし、テーブルを叩いた音の後は静寂が広がり、私は恐々と片目を開けた。
すると目にしたのは――
「なっ! 一体何処に……」
私は驚き、これでもかと言わんばかりに目を見開いた。
テーブルの上にはビールが――間違いなく、私が買ってきたビールが置かれていた。
「ツマエ……おまえだったのか?」
ツマエを見上げ、そう問いかけた私にツマエがボソリと呟く。
「蟹……」
「え、なに? かに?」
「蟹……明日、食べようとしたんです」
「?」
「だから解凍しやすいように、『冷凍室から冷蔵室に移しておいた』んです…」
「冷凍室から……冷蔵室? ……っ!」
私はそこでハッとし、記憶が鮮明に甦った。
風呂から上がり、冷蔵庫を開けた。
ビールは『蟹の横』にも、牛乳の横にも無かった。
私は『冷蔵室を見ていた』のだ。
元々、ツマエが蟹を置いてのは『冷凍室』。
私はいつもの牛乳の横に置けなかったので、まだ移動される前の『冷凍室にあった蟹』の横にビールを置いたのだ!
そう、私はビールを冷凍室にしまった。
ちょうどその方が、風呂上りにキンキンに冷えてると思って……。
「……」
気まずい。とても気まずい空気がリビングを覆う。
刺さるような視線が痛すぎる。
…
……
………
「アハ! 父さん、勘違いしちゃった……テヘッ!」
この後一ヶ月、私は家族から『存在しない人』として扱われることとなる。
テーブルでは、キンキンに冷えたビールが、まるで泣いているように濡れていた……