5-3 幕
余りにいきなりすぎて、何も言えなくなってしまった。
すらりとした線で描かれた造形。
なだらかに波打つ黒髪に、清潔そうな制服、切れ長だが、強さよりも柔らかさを秘めた目。いつもどおり、頬には薄い笑みを浮かべている。両手にはなぜか大きめの旅行鞄。
みゆきだ、とはわかったが、そこから思考が進まない。
まるですいぶん昔の、竜と対面したアーサーみたいに。
「ひさしぶり」
少し上ずった声が聞こえて、それでようやく呪縛が解けた。
同時に、みゆきの笑みが少しぎこちないものだということに気付いた。
「ひ、ひさしぶり」
なぜか軽く手を上げて答える。
滑稽な姿に見えないだろうか、と思ったが、みゆきに笑う感じはなかった。
どこかぎこちない。顔だけでなく、全体的に。そんな感じだ。
それはいつもいる姿がないからかもしれない。
イレイネがいなかった。この前の大会で消耗しすぎたのかもしれない。
そこまで来て、大会以降、みゆきのことをほとんど考えていなかった自分に気付いた。
なんて馬鹿なんだ、大会中好き勝手やっといて。つい先程までの自分が馬鹿みたいだ。
けど、なんで忘れてたんだ、そんな大事なことを、と思っていたとき、みゆきの声が聞こえてきた。
「えっと、これ、歩の服」
そう言って、両手に持った旅行かばんを上げた。学校指定のバッグをそのまま大きくしたようなやつだ。
「ああ、ありがと」
「えっと、どこ置こうか?」
そこらへん置いといて、と言おうとして、途中で止まった。
病院では、私物はベッド隣の簡易デスクに置くことになっている。
つまり、みゆきに言うならば、そこに置いておいて、となる。
しかしそうなると、みゆきがすぐ隣に来ることになる。
それは嫌だった。
みゆきが嫌いになったわけじゃない、だが今みゆきとすぐ近くに居るのは抵抗があった。
今はみゆきとの間に適度な距離が必要なんだ。少なくとも、今は。
「そこ置いといて」
そう思って、ベッドの脇、歩の足元の方を指した。
その意味がわかってか、みゆきはうん、と答えつつ、そっとバッグを置くと、二歩ほど歩から離れていった。
それから沈黙が続く。どちらも何も言いだせない、しかしこの時間を終わらせることもできない、そんな時間だ。
喉のあたりがむずがゆい。しかし腹にたまったものをそのまま口にすることはできない。
そんなことをしたら、壊れてしまうような気がするのだ。
何が、とも言えない。それすらも怖い。
しばらくそのままでいた。ここが個室でよかった。こんな気まずい雰囲気を人に見せたくはない。
そこでふと、なんで母親はみゆきに服を持って来させたんだろう、と疑問が湧いた。
そして気付いた。きっと歩とみゆきが合う口実を作ってくれたんだろうと。
「えっと、みゆき、怪我はどう?」
意を決して、そう言った。
すると、みゆきは歩の顔を見て、数瞬ほどその態勢で固まって、それから、ああ、と声を漏らしてから、答えた。
「大丈夫。運動はできないけど、こうして類さんの頼みを聞く位はね」
「イレイネの姿は見えないけど」
「それがね――ほら」
そういうと、みゆきはその場でくるりと回転した。
髪とスカートが横に広がり、少しだけ覗いたふとももとうなじの白さに一瞬どきっとしたが、それも一瞬だった。
背中には小さくなったイレイネがいた。どこで覚えたのか、みゆきをアニメ調にデフォルメしたような外見をしている。激闘の余波か、赤ん坊ほどの大きさしかない。
だが様子がおかしい。歩の方をちらちらと、上目づかいに覗っている。
まるで窓ガラスを割ってしまった子どものよう。
「もしかして俺の傷のこと?」
身体をひねり、顔だけでこちらを見ているみゆきが頷いた。
歩が今病院のベッドにお世話になっているのは、みゆきイレイネペアとの試合で負った傷が原因だが、その中で最も重い傷は、背中のもの。
イレイネの円錐に変型しての一撃で受けた傷だ。
それをイレイネは気に病んでいるのだ。
「そんな気にしなくていいのに。勝負の結果だろ?」
「私もそう言ったんだけどね」
イレイネの半透明な顔を見ると、いつもうるうるとしている瞳が、一層揺らいでいる気がした。でもそうやって寝てるじゃない、と言っているように見える。
ならば、と歩は足をベッド脇に下ろし、立ち上がろうとした。
が、そこで背中の傷跡にそうように痛みが走り、思わず顔をしかめてしまった。
失敗した、と慌てて顔を取り繕ったが、イレイネにはきっちりと身咎められていた。
目の潤みが激しくなっている。完全に逆効果だった。
馬鹿してばっかりだ、ほんとうに。
「歩――座ってても――」
「いいよ」
こうなったら最後までするしかない、と立ち上がる。痛みはあったが、一度経験すれば噛み殺せるものだった。こんなもののために、自分はイレイネを悲しませたのかと思うと、怒りが湧いてきた。
歩はその勢いで立ちあがると、そのままイレイネの方へ寄っていった。
一端立ち上がり、痛みに慣れると、案外楽に動けた。
こういうとき、自分の頑丈さが有難い。
「ほら、大丈夫だからさ」
少し屈んで、同じ目線になってイレイネの顔を覗いつつ、言ったが、イレイネの顔は晴れなかった。
どうやったらいいのだろう、と途方に暮れつつも、頑張って舌を動かす。
「そりゃ少しは痛いけど、それを言うならみゆきだってそうだろ? それもひどいやり方で負わせた怪我だし」
みゆきの負った肩の傷は、歩が背中の傷を負い、反射的にみゆきの意識がゆるんでしまった瞬間、負わせた。
それはなあなあで勝負を済ませると、あの奇跡的な時間が空気が抜けた風船のようにしぼんで終わってしまう、と咄嗟にやった行動だったが、今になると、けっこうひどいことをしたようにも思える。
「な、悪いことをしたっていうなら、俺の方が悪いって」
イレイネは納得したわけではなさそうだった。だが、先程よりも潤みが落ち着いている。
ならばこれが最後だ、イレイネの小さな手に手を伸ばした。
「それにイレイネが小さくなったのも、俺と戦ったからだろ? おあいこだよ。な? だから、これで仲直り」
握手。軽く上下に振ると、イレイネの半透明な腕もちぎれることなく続いた。しっかりしている。
まだ何かを怖がっているような顔だったが、もう大丈夫そうだ。
さあ、と思い顔を起こすと、すぐ近くにみゆきの顔が見えた。
固まっている、それもそうだ、こんなに近くにいるのだから。みゆきも二人の間には距離が必要だ、と思っていたようだ。
歩も強張る。ただ身体は二歩ほど距離を取らせた。
みゆきがくねらせていた身体を元に戻し、歩に向かって正面を向いたが、顔は俯き気味だった。
その肩口から、イレイネが顔をのぞかせる。
先程の親の機嫌を覗うような子どもの顔だが、怖がっているようには見えない。
もしかして、イレイネの策だったのかも、歩とみゆきを近付ける。
それは考え過ぎか、と思ったところで、俯いたままみゆきが言った。
「大会の決勝、素敵な時間だったよね?」
素敵な時間。歩が奇跡的な時間と思ったものを、みゆきはそう言った。
「ああ。奇跡的、と思った」
「だったよね。なんだか、こう――通じ合った、って感じの」
そういうみゆきは恥ずかしそうだ。俯いていても、頬が赤らんでいるのがわかる。
歩も同じ気持ちだった。同じように顔が熱くなり、俯いてしまう。
あの全てをさらけ出しぶつあうような感覚は、そういう類のものだった。
なんて無防備で、気恥ずかしい状態だったんだろう。それも剣と棍を交える場でだ。
高校生同士のコミュニケーションにしては、あまりに無骨すぎるし、場にそぐわない。
あ、とそのとき思った。そうだ、わかりあっていた気がしたのだ。
全ての問題がなくなったような感覚。少なくとも二人の間には。
だから歩は、いざ会うまでみゆきのことを忘れていたのだ。間にはもう何も問題がなかったような気がしていたから。
「今思い出しても、恥ずかしくなる位だったな」
「――歩にとって、あの時間は大事なものだった?」
目と目があった。俯いていたみゆきの目と、しっかりと交わる。
そこには何かが揺らいでいた。
「大事だった。とてつもなく」
だからそう答えた。そうすべきだと思った。
「――歩、私、財前敬悟と婚約解消したから」
顔を上げ、みゆきはそう宣言した。頬はまだ赤い、しかし眉には力が、目には確かな光があった。揺らぐことのない、大事な柱を得たのだ。
「たった一日で、全部片付いたの?」
「うん。実際、断ろうと思えばいつでもできたから。財前敬悟がなんだかんだ私に触れられなかったのは、そのせいだったし」
「お父さんとの兼ね合いはいいの? それが一番の問題じだったんじゃない?」
歩はそう石を投げた。柱に向かって。しかしそれはきっとやらなければならない、しかしみゆきからはしづらい行為だった。
「うん。父にも、話をした。それに私はもう一人で生きていけるから。今まで苦労ばかりかけてごめんなさい、って」
みゆきの目尻に、温かいものが見えた。それはみゆきが今まで背負ってきた、そして捨てたものだと。
みゆきを抱きしめたかった。そうすべきでもあった。そうすればきっと、全てがまるくおさまる。少なくとも二人の間は。そう思った。
しかし歩はやらなかった。
代わりに、言った。
「リーゼロッテ・A・バウスネルンさんの告白は断った」
「――よかったの?」
よくはなかった。失ったものは大きい。
「選んだだけだよ」
だから、そう答えた。
すると、みゆきの顔が赤くなった。
うん、今自分何か赤くなるようなこと言ったっけ、と考えて、気付いた。
選んだだけ。つまり、リズを選ばず別のものを選んだだけ。という意味になる。
そしてこれまでの流れから、選んだものはまずみゆきになる。
あなたを選びました、って完全に告白じゃん。
なんて間抜けな愛の言葉だ。
背中がひどく痛んだ。力が抜けてしまった。今日一番の馬鹿だ
「それって、どういう意味?」
そうみゆきは言った。いつの間にか俯いていたが、その目はしっかりと歩を捉えている。
やばい。これは言わなければならない。だけど、歩は言えない。
でも、言わなかったら――どうにか、して。
そのとき、間抜けな、んあぁ、という音がした。
これ幸いと音の方を向くと、大口を開けるアーサーが見えた。
感謝。今度いい酒買って来てやろう。
「――ん、みゆきか。どうだ、仲は治ったか?」
「おかげさまで」
みゆきはいつになく機嫌悪そうに言った。顔は見ない。見れない。
それを無視するように、アーサーは、そうか、と答えた。
「アーサー、本当に寝てたの?」
「ん? うむ。快眠であった」
「寝過ぎじゃない? 大会でも、指示出しもしてなかったんでしょ? 疲れるときなんてなかったでしょうに」
確かに、アーサーは大会で何もしなかった。本当に仕事量ゼロだ。
幼竜殺しは言うまでもなく、一見働いていないようだった悪食蜘蛛のときも、最後は倒れ込んだ位だったが、今回は何もしていない。
だがアーサーはよく寝ていた。多分、本当に。
「ん、何かあったか? すまんな、寝起きが悪くて。察しておれば、おのずと消えておったのにのう。んで、どうなった?」
「知りません」
みゆきは怒り半分拗ね半分といった感じだ。そりゃそうだ。
しかし、歩は言わなければならないことがあった。
「アーサー、聞きたいことがある」
「何だ、改まって」
「マジな話だ」
アーサーがむくりとこちらを向いた。深緑の瞳が見える。
飲みこまれそうな色だ。
「私達、いなくなろうか?」
「いや、みゆき達にも聞いてほしい」
そう言いながら、歩はアーサーに寄っていった。
背筋を伸ばし、アーサーを見下ろす。それを見て、アーサーは飛んだ。
そして同じ目線の高さのところで、止まる。
そういえば、最初にアーサーと会ったとき、アーサーが生まれたときもこんな感じだったな、と思いだした。
「して、なにか」
歩は一度深く息を吐いた後、言った。
「お前、言ってないことあるだろ」
「そりゃいくらでもあろう。我も一角の男子故」
「そうじゃない。大事なことだ。いずれ生活が崩壊してしまうかもしれない、危険のある話だ」
みゆきが息を吸い込む音がしたが、歩も、アーサーも動じなかった。
ただ目を合わせる。みゆきとの奇跡的な、素敵な時間とは違うが、これも何かを言いあう時間だ。
「何の話だ」
「お前、半年位前から口数減ったよな。特に最近とか」
「なんだそれは」
呆れたように言うアーサーに向かって、歩は頬がぴくりと動いた。
実際のところは、歩自身、はっきりとした確証がない話ではある。
だが当たっているという感覚があった。
「お前、竜苦手だったよな。キヨモリと初めて会ったとき、亀みたいになってた」
「だからなんだ? 我を馬鹿にするのか? それを乗り越えるべく、努力したのではないか!最近では何かおかしな様子あるまい! 我を馬鹿にするでない!」
そう、おかしな様子はなかった。
しかしそれは歩も、他の誰も気づかなかっただけ。こいつの嘘が上手いだけだ。
アーサーを見る。怒ったような口調だったが、顔は平然としていた。翼だけがばさばさと動き、他は何も、瞳の光さえも揺らがない。
強いやつだ。だが、強すぎるのも考えものだ。
「お前、今でも竜苦手だろ。ってか最近、もっとひどくなってないか?」
「……何を根拠に?」
「口数が少ない、ってのは俺の気のせいかもしらんが、酒の量は減ってるだろう。少なくとも、泥酔はないな」
「それが何を?」
「抑えが効かなくなるのが怖かったんじゃないのか? もしかしたら、起きたときにはキヨモリやリンドヴルムを喰い殺してしまってるんじゃないか、っていう風に」
ここまで言っても、アーサーの様子に変わったところは見られなかった。
今になって、思う。こいつはどんな経緯で、こんな強いやつになったのだろうか。
生まれたときから? そんなことがありうるのか?
そもそもインテリジェンスドラゴンってなんだ?
「よく寝てたのも、実際疲れていたからだろ? 衝動を我慢しまくるのって、辛いもんじゃないのか?」
「だからみゆきに直接的な行動に出れなかったのか」
やっぱこいつ狸寝入りしてたんだな、と思ったとき、みゆきがどういうこと? と言った。
そういえば、みゆきは知らなかった。リズの家がインテリジェンスドラゴンについての、資料を持っているということを。
「アーサー自身、自分の出生については無知だ。竜殺しの竜であることを、幼竜殺しとの一件で知った位だからな。だけど、アーサーが耐えるだけで疲れきって眠りこんでしまう位になった今、直面しないといけない。インテリジェンスドラゴンについて」
「それが、どう繋がるの?」
「だけど情報はほとんどない。だいたい竜殺しの竜なんて存在が知れ渡ってたら、俺らもう死んでるしね」
「だが、こいつが断ったリズは、インテリジェンスドラゴンについて情報を持っている」
みゆきが黙った。おそらく、理解と嘆きが胸中でうずまいているんだろう。
「だから、リズとそのことについて話をしなきゃならない」
「情報を人質に、結婚? そんなひどい人なの?」
「そういうわけではない、いい人間だし、いい女だ。こいつには勿体ない位のな」
そういう不穏な言い方やめてくれないかね、と思いつつ、核心を言う。
「だけど、多分みゆきと付き合ったりとかはできないと思う。リズがいい顔するわけないから」
「リズね」
あ、ミスった。そう思ってみゆきの顔を覗ったが、そこに怒りはなく、諦めたような顔をしていた。
「私、歩とアーサーについていくために、強くなったんだけどなあ」
「ふむ、決勝はなかなかであった」
「頑張ったんだよ、私。隠れて特訓して、歩の背中は守れる位にはなりたかったんだけど」
「十分だよ。けど、これからはな」
はあ、とみゆきが息をもらした。
「卒業後?」
「ああ。その間も、リズと話をしなくちゃならないけど」
みゆきが天井を見上げた。釣られて、歩も見上げたが、そこにはただ白しかなかった。
「ひとまず、これで幕だな」
「幕?」
アーサーを見る。いつのまにか籠の中におさまり、身体を丸めて寝る態勢に入っていた。
「子ども時代が終わるのだ」
「嫌な終わり方だな」
「本当」
そう言うとアーサーはすっと目を閉じた。本当に寝始めたのは、今ならわかる。
少しだけ、思う。こいつは今まで本当に眠れたことがあったのか、常に竜殺しの竜である自分を恐れながら、ぐったりしていただけではないのか。
そう思うのも、子ども時代との決別だろう。
そう締めくくって、歩はみゆきの方を振り返った。
貴族からの刺客、終です。
最後、どたばたでしたが、見てくださった方、ありがとうございました。
申し訳ないですが、続きは桜舞うころになると思います。
もしよかったら、四章もどうぞ。