1-i 転落
当時の私は何も考えずに日々を送っていた。
優しいがダメなことは厳として認めない使用人頭のじいやに、気兼ねなく遊んだ貴族の友人。
貴族としての、理想の生活だった。
そんな日々を過ごせたのは、幼小でも関係なく蠢くはずの醜い権力争いに、ほとんど巻き込まれなかったのだ。
小学四年生のことにじいやに聞いたところ、それは能美家の地位によるところらしかった。
じいやは能美家の地位を上流中層と称した。
他の貴族からしてみれば子分になるには低く、逆に子分にするには高すぎるという、半端な位置。
誰も利用しようとせず、それでいて地位を維持できるため、希望すれば権力闘争の荒波から、そっと抜け出ることができる。
能美家は代々その地位を望み、現在もそれを維持している。
それがじいやの説明だった。
当時の私としては理解できない話だったが、一つ確かだったのは、私がおだやかな日々を送っていたということだ。
しかし私は知らず、気付きもしなかったが、その裏で父と母は苦悩の日々を送っていた。
まず私の同じ色をした両目は、片側のみの色つきコンタクトレンズで対外的には通した。
私には決してそのコンタクトレンズを外さず、万が一外れたときは、決して目を開かないことを強く言いつけた。
各種検査も行われた。
遺伝子検査も行われた。
結果は、私が父と母の子どもである可能性はほぼ百パーセントというもの。
だからといって私の目がオッドアイになることは、勿論なかった。
その他の検査結果も、全て白だった。
科学的には白。しかしオッドアイという伝統には黒。
その間に立たされた両親の内情は、想像すらできないほど苦しく、割り切れないものだったに違いない。
その苦悩から二人が解放されたのは、私が十一になったときだった。
貴族の中でも上層の一部のみで共有されている秘密に、パートナーの誕生前選別がある。
通常、卵を破り出てくるまでわからないパートナーの種族を、竜かそうでないかだけ判別できる、預言者のような存在がいるのだ。
私の卵を判定したのは、まだ若いが、青白い顔に今にも叫び出しそうな笑みを浮かべた、近寄りがたい雰囲気を持った男だった。
面会したのは、ネズミ色で乱雑に塗られた壁に囲まれ、粗末な鉄製の椅子が置かれただけの、刑務所のような一室。
拘束着を身にまとい、両腕を自分の身体を抱きしめるように張りつけられた男は、私を見るなり、にやついた笑みを浮かべた。
ねちゃりと音を立てながら口を開き、ひび割れた声で男は言った。
「大変心中お察しする結果ではありますが、竜ではありませんね」
後ろから私の肩を掴んでいた父の手に大きな力が入り、私は痛いと漏らした。
父ははっと身を震わせ手をどけたが、私を見るその目には明らかな嫌悪感が覗いていた。
続いてカタンという音がして、そちらを振り向くと、両手を頭の上に組んで突っ伏す母の姿があった。
今にも消え入りそうな声で、違うの、違うの、と何度も繰り返し呟いていた。
それからの一年間、父が家に帰ってくることはほとんどなかった。
私に声をかけることは、ただいまやおはようさえも、一度もなかった。
母親が笑うこともほとんどなかった。最初の一カ月は、全く表情がなかった。
何が起こっているのか、断片的にしかわからなかった私だが、すぐに暗くなりがちの家を明るくしようと頑張った。
使用人の名前は全て覚え、明るく挨拶をした。
にっこりと笑みを浮かべて返答してくれるのが半分、もう半分はなんとも言い難いあやふやな表情で、小さく頭を下げてきた。
夕食の席では、学校で起こったことを楽しげに話した。
母は聞いてくれたが、反応はささやかな笑みを浮かべる位しかなかった。
テストの点は基本満点を維持し、交友関係にも全く問題を起こさなかった。
家庭訪問に来た教師からは、絶賛の声しか上がらないようにし、実際そうなった。
私のそうした目論見はほとんどが成功した。
しかし何も変わらなかった。
そして私の誕生日の一カ月前、事件は起きた。
私自身にはほとんど記憶はない。ただ出来事として記憶されているのみだ。
私は母に右目を炙られた。