3-1
「リズ、敵陣の中にアーサーがいる!」
部下に指示を出そうとしていたリズが、顔をびくりと震わせた。
「あそこ!」
「……はっきりとは見えないわね」
「でもあそこに味方がいるのはわかるでしょ!? そして持ちこたえているのも! そんなことができるのは」
「アーサー位でしょうね――でも私達が言って何ができる? そもそも、私達には私達の仕事がある」
被せるように言ったリズの言葉に、みゆきは声を詰まらせた。リズの言う通りだ。今自分達が立っているのは、この戦争の分水嶺。行動が一秒遅れると、龍に蹂躙されている味方が一人死ぬような。そしてみゆきは現在、歩を助けに行くための偽装とはいえ軍隊に所属している。リズに至ってはその隊長だ。
みゆきは目を凝らし、アーサーの姿を追った。整然とした無数の龍の行進の奥深く、裸山の中腹の乱れた箇所、その中で龍の鱗や牙や甲羅、槍や盾を縫って見える、夜闇のわずかな光を吸いこむような黒。それが確実にアーサーかと問われると即答はできないが、その場の龍達の動きから、そこに彼等にとっての敵が、つまりは味方がいることはわかる。そしてそこは敵陣の奥深くであり、逆算すると、孤立したのはずいぶん前のことだ。なのに未だに戦い続けている、勝ち続けているやつがいる。そんなことができるのはアーサーと歩位だろう。
――私にできることがあるのか?
そうみゆきが思ったほどの、忌まわしい龍殺しの竜とその使い手くらいだ。
視線を隣のリズへ向けた。目を爛々と渦巻かせて、頭の中の天秤を必死に操作している。投石を止めるのに必要な味方の数と歩を救うのに必要な人材の差配、そもそもの圧倒的な数の差、そもそもが無謀な作戦、そんな中での部隊を分けることでの作戦成功率の低下と味方の損害。二兎を追う者は一兎どころか破滅する未来――
みゆきは覚悟を決めて、言った。
「リズ! 私とあなたが歩達を助けないで、誰が助けるの!」
自分の選択が、最も愚かなものだとわかっている。
敵陣奥深くに単身で飛び込み、何もできずに死んだ隊長とその副官。指揮官が抜けた空戦部隊は役目を果たせず失敗。結果、味方は態勢を保てず瓦解。歴史的な敗北を喫した人類は滅亡した。そこまで行く可能性すらある。
だがみゆきは決めた。みゆきにはなによりも大事なものがある。それだけの話だ。人類全てより男をとったと言われても構わない。みゆきはその両方をとっただけだ。どちらも無くてはならないものならば、二兎を追って何が悪い。
「……指示を変更する!」
リズが大声で言った。後方の五人の小隊長の顔がびくりと動いた。
「水城歩とアーサーを発見! 私とみゆきはそちらへ! 各自、各小隊長の指示に従い、作戦を行え! 小隊長、集合!」
五人の小隊長が近寄ってきた。五人の顔を見て、みゆきは安堵した。彼等は切迫した様子こそあれ、リズに失望したような素振りは見られない。他の部隊員にも、戸惑う様子こそあったが混乱や動揺はしていない。
「歩教官をどうかお願いします!」
リズが後はお願いと言った後、誰かがそう言った。声の方に目をやると、五人の小隊長の内の一人、小柄な女性と目があう。右竜が尋ねてきたときに案内をしてくれた人だ。他の四人の小隊長も熱のこもった視線をみゆきに向けてきていた。
「みんな歩教官のファンなんです」
「お二人だけで申し訳ないですが、どうか全員無事に帰ってきてください!」
後方の九十の竜使いに顔を向けると、全員の視線と交差した。全員の視線が、みゆきを励ましてくれている。夜の山の斬るような寒風の中で鉛のようになっていた身体の内、頭だけがほんんのりと温かくなった。
「歩、いい人に恵まれたんだね」
「歩の頑張りがあってこそだからね……行くよ」
みゆきは全員に向かって大きく頭を下げた後、加速したリズの後についた。身をねじるようにして方向転換し、リズは部隊の顔が見えない位にまで離れ、少し高度を下げたところで速度を戻した。
なんとか追いついたみゆきは正面を見据えた。地上に近くなった分、これから飛び込む先が鮮明に見える。灰色の裸の山と、そこを蹂躙する龍達、まるで津波だ。その上には当然暗雲のような翼竜の群れが立ち込めている。みゆきは息を呑んだ。
――あの中に行って、お前に何ができる。
内なる声を押し殺し、目標を見る。敵陣の奥の方の乱れた箇所。確信を覚えた。間違いないアーサーだ。おそらく歩もいるはずだ。
「私は空で、みゆきは地上に降りて、アーサーと歩を助ける、それでいい?」
視線だけで横を見ると、綺麗な碧眼と目があった。意思の確認。瞳の中でなにかがうねっている。
きっと前を向いて少しの後、翼竜の群れに動きが見えた。ぽろぽろと、暗雲から雨粒のようにこぼれ落ちている。無数の一粒の龍、それらはすぐに重力に逆らって空を滑り始めあらたな雲を形成しはじめ、比較的大きな集団と、小さい集団、それぞれ一つずつに落ち着いた。騎竜部隊の本体と、リズとみゆき達、それぞれへの抵抗だ。
「みゆき、イレーネの形態解除して、私の後ろに乗って」
リズが言った。
「いいの?」
「戦わずに、潜り抜けるだけなら、そっちのほうが都合がいい」
リズの真剣な表情を見て、みゆきは手綱を操作し、イレーネをリンドヴルムの方に寄せた。飛び移るときに、遥かかなたの地面を見て、ひやりとした。龍の行進が見えたからだ。落下したら、龍に呑みこまれる、そんなところまでもう来ているのだ。
それでもなんとかリンドヴルムの背に乗りリズの背中に捕まったところで、イレーネに手で合図し形態を解かせた。途端に竜の形を崩したイレーネは、しゅるると音をさせて空に水流を作り、みゆきの背中へと納まっていく。水流のところどころから余分な水分と装具がぼとぼとと地面へ向かって落ちていき、地上の龍のうねりに呑みこまれて行った。
「お腹に手回して、しっかりくっついて。イレーネにも徹底させてね」
イレーネの水流がおさまったところで、そう言ったリズは、いつのまにか身の丈ほどの大剣を鞍に納めていた。潜り抜けるのだけに集中するつもりなのだろう。みゆきも言われた通りにリズと密着した。二人乗り用の鞍がリンドヴルムについているわけはなく、みゆきは背にただ乗っているだけの姿勢。足をかけるところもない。リズが命綱だ。
「歯くいしばってね、行くよ。合図したら地上見て。降りる瞬間は任せる」
――行って何をするの?
内なる声は強くなっている。違う、何ができるかより、何をするかが大事なんだ、今は。そういう存在なんだ、歩は、アーサーは。
やることはシンプル、大丈夫、通常時の歩となら五分以上戦えた、なら――
「行くよ、リンドヴルム」
そのとき、身体がぐいと引かれた。反応が遅れ、一瞬、リズとの間に隙間が空いた。腹からリズの温かな体温が消え、同時に頭から熱が飛んだ。
リンドヴルムに飛び乗るときに見た、龍に蹂躙される地上の絵が思い浮かんだ。死ぬ。だが次の瞬間、背中から何かに支えられた。イレーネだ。ちらと振り返ったイレーネは、叱咤するように険しい顔をしていた。腕に力を入れ、リズの背中にぐっとくっついた後、助かった、ありがとと小声で言う。
――ざまはない。なんだこの体たらくは。こんなお前に何ができるのだ。
そんな内なる声は山の寒風に徐々に吹き飛ばされて行った。それほどリンドヴルムは速かった。本当に。風の音が違うのだ。イレーネと飛んでいるときは、ごうごうと吹きすさぶ感じだったが、今はものすごく澄んでいる。目を開けるのがきつい。怖い。ちょっと手が滑った瞬間、リズの身動きにタイミングがずれた瞬間、リンドヴルムが身をくねらせた瞬間、それだけでまばたきの後には空の藻屑になる。恐怖が恐怖を打ち消している。これがリズとリンドヴルムの全力か。
――リズはすごいね、誰かと違って。
あっという間に、翼龍の集団とかちあった。まるで網のように広がった翼龍、百体はいる。リズはそのどまん中を、突き抜けた。みゆきに恐怖はなかった。翼龍に対する恐怖は。頭の中の恐怖を司る器官は、速さだけで振り切ってしまっている。
いきなり、ぐるりと重心がずれた。あ、と声を上げるまでもなく、上下に円を描くように回転していた。身体にかかる力は一定だ。ただ天地のみがひっくり返っている。少なくとも頭の中ではゆっくりと。おそらく現実では相当な速度で。
回避行動。それはわかる。だが髪に擦りつけるように、頭の下を鱗つきの巨体がくねっていく
たび、血の気が引いて行った。
だけどこれなら最後まで、アーサーのところまでいけるかも。
そう思ったとき、不意に身体が飛んだ。文字通り、飛んだ。右肩を急に引っ張られて。
身体が急に軽くなった。くるくると視線が回転し、空と龍の軍団が交互に見える。寒風を全身で感じる。音はない。何もできない。声を上げることすらできない。
――ほら、お前はこんなもんだ。
そのとき、不意に身体の回転にブレーキがかかった。背中と肩と腰、足と頭、それぞれで何かに支えられ、身体が急制動されていく。安定しだした視界で、落下も止まっていくのがわかった。
「……イレーネ」
肩口に小さくなったイレーネが止まっていた。みゆきの全身に自分の身体を配置し、止めてくれているのだ。核ともいえる本体までも必死におしとどめている。羽もなしに空中を自在に動く、自分のパートナーながら不思議な存在。それが体裁もなく自分を救ってくれている。
身体が完全に宙に止まった。ふとみゆきの目にアーサーが飛び込んできた。少し離れたところで、全身を赤黒い液体で塗装した姿。目をぎらつかせた黙示録の竜。そしてその傍には、黒いマントと刃が飛びまわっていた。
――お前に何ができる
内なる声が聞こえた。だが自然とその声は薄くなっていった。そうだ。言っていた通りだ。何ができるかではなく、何をするか。わけもわからず言っていたその言葉に、別な意味が見えた。そうだ。これが――
ばさりと、羽音が耳に入ってきた。翼龍だ。見ると、みゆきに向かって真っ直ぐ、百体の群れ全てが。取り落としたミミズを拾い直す鳥のように。
イレーネの空中動作で避けられるか? 無理だ。制止したばかりのイレーネに、それほどの加速はできない。
いやでも、大丈夫。わかる。もう一つの別の音が聞こえた。みゆきは全身に力を入れると、イレーネに強固な綱を作り、それを空に垂らすようにハンドサインを出した。
すぐに身体が吹き飛ばされた。翼龍の群れが視線から消える。イレーネに引っ張られて。その先の作りだした綱に、その先のリンドヴルムに助けられて。
「ごめん、身体は大丈夫?」
引っ張られる圧力が減ったところで、イレーネに作りだした綱をひっこめさせていったところで、リズの声が聞こえてきた。綱の先はリンドヴルムの後ろ脚に掴まれており、今の自分は鳥にひっかけられた風船みたいなんだろうな、と思った途端、不意に笑ってしまった。
「……大丈夫?」
差し出されたリズの手に捕まって、リンドヴルムの背に戻ると、リズが改めて言った。失礼な。
「大丈夫だよ――アーサーと歩のところまで、お願い」
リズの目は見えない代わりに、掴まる手にぎゅっと力を込めた。次はひっかけられても落ちたりしない、と意思を込めて。
その意をくんでくれたのか、リズが手綱を操作した。途端にリンドヴルムは速度を増し、ゆらりと方向転換、アーサーと歩がいるあたりへ。
空に乱入者が現れたせいか、龍の群れの進行には乱れが生まれている。それを見て、みゆきはいける、と思った。この龍達にも隙はある。
「タイミングは任せる。空は任せて」
「おねがい――」
――お前に何ができる――
みゆきは息を吐いた。内なる声を少しでも体外に出そうと。今から三つの難題と向き合うことになる。龍の群れに突っ込む。そして歩を救う。アーサーを救う。正直、無理な話だ。その全部を自分が解決しようなんて、正気の沙汰じゃない。内なる声は正しい。私は間違っていた。自分が全てを解決しようなんて傲慢すぎた。
だから――みゆきは決意した。私は私のできることを、その中でやりたいことを選ぶ、と。
リズが高度を下げた。小柄な武装龍が向ける槍、それらの届かない境界ぎりぎりを滑るように進んでいく。足元では、リンドヴルム――敵の飛龍に反応して向けてくる、武装龍の槍の穂先と目、我関せずと進行する巨躯の陸龍の背の甲羅が、月光を受けてきらきらと光っている。川みたいだと思った。そしてこれから私はそこに飛び込む。
それはすぐ傍まで来た。整然と進む陸龍達の軍、穏やかな川のような場所の、一カ所の渦。中心に向かう、目や槍や甲羅でできた光の渦、その中心部の黒。混沌を生み出す黒き竜と――黒の騎士。いた。歩だ。武装龍に取り囲まれ、黒いマントを振りまわし、槍を閃かせている。
「いくよ」
渦の上空に入ったと同時に、みゆきは立ち上がった。そしてタイミングを計り、飛び降りた。