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ミユキ・バルギール。
リーゼロッテ・A・バウスネルンのはとこにして、彼女を隊長に据える第三独立騎竜部隊の副官を務める者であり、これから私が名乗る名前だ。
「独立部隊って、なんで独立?」
「実験の言いかえ。まあ飛びまわる竜に乗って戦おうなんて、戯言だったからね」
それを変えるために活動しているんだけど、とリズが苦笑いした。
その姿はミユキにはまぶしく写った。牛車の窓から指す月明かりだけなのに。
「名目だけでなりゆき上のこととはいえ、私がそんな部隊の副官になるのは申し訳なく思うわ……他の人は納得してくれてるの?」
「大丈夫、みんな歩の支持者だから」
私が大学生をしている間にも、歩は進んでいたのか。
「ならなにがなんでも連れ戻さないとね」
「よろしくおねがいします、ミユキ・バルギールさん」
お互いの顔を見て、くすくすと笑いあった。
多分、こうした空気ももう終わるんだろうな、と思うと少し勿体ない気がしてきた。
リズの提案を受けてから、十日が過ぎた。
その内訳は、出国準備に二日、イレーネを水竜に擬態させるための訓練と、最低限リズの副官を務めるための勉強の時間に七日、そして移動日に一日だ。
水竜としての擬態は戦時二時間、通常時六時間まで伸び、みゆきは軍と騎竜の知識と実践、バウスネルン、バルギール両家の歴史を暗唱できるまでになった。
「ああ、東洋の血が混じっているんですね」
竜使い達による警備網で言及されたのはそれだけだった。バウスネルンの用意したIDは完璧だったようだ。だけどこれから必要になるケースもなくはない、尻尾を出さないように気をつけないと――東に渡った理由は新種の――
「現在、戦争中です。報告では前線で全て食い留めていますが、念のためご注意ください」
設定を思い出す時間はそれで終わった。
戦争中……龍との。
「ミユキ、飛んで行きましょう……ありがとう、ここまででいいわ。帰ったら両親によろしく伝えておいて」
後半はここまで連れて来てくれた牛使いへのものだった。小柄で背中が曲がっている、多分五十代位の男だ。リーゼロッテ様、ミユキ様、お気を付けなさって、とへこりと頭を下げ、後は悠然と自分の牛の方を見ている。
ありがとう、と言いながら、リズに従って外に降りた。
外は不思議なところだった。灰色の岩を積み上げ、それを真っ二つに両断したような地面が広がっている。これまでいたバウスネルン邸より乾燥して冷たい外気といい、異界のような場所だ。
それから後方の牛車の荷台に登り、既に水竜と化したイレーネを見る。
蛇に手と足をくっつけたような東洋式の竜。手足には水ヒレがついており、目もどこか爬虫類のそれ。全体的に線を細くしたのは、飛竜にそうしたものが多いからだ。
頬に触ると冷たい水の感触――これから一番苦労するのは彼女だ。
苦労かけるね、よろしくおねがい、と彼女の耳元で言うと、イレーネは訓練した竜の鳴き真似をした。少し甲高い鳥のような咆哮だが、これが精一杯だ。どう? とでも言うように視線を向けてきたイレーネがおかしく、いい感じよ、と笑ってその背にあぶみを乗せた。
「打ち合わせ通りよろしくね」
みゆきは頷いた。歩達を見つけてもすぐには近寄らない。リズの判断に任せる。チャンスは一度きりじゃないんだから、慌てない。
では行きましょう、とあぶみにまたがい、歩と組んだ大会でも見せた大剣を光らせるリズが言った。飛竜に乗った紺の軍服と大剣と金髪。
戦争。
「はい」
みゆきもイレーネの背に乗る。自分用に調整された鐙は、がっしりと身体を受け止めてくれた。訓練でできた股ズレも、少し痛んだ位。
リズが飛び立った後を追うように、イレーネを飛ばせた。
翼を振りはしているが、実際は精霊型の浮遊による飛行――リズのパートナー、リンドヴルムよりスピードは落ちるが、リズは合わせて飛んでくれている。
月夜の中の飛行――戦地に向かう光景でこれほど美しいものもなかろう、と思いながら、みゆきは震えそうになる手をぎゅっと握りしめた。
飛んでいる内に、序々に戦場は見えてきた。
上空からではろうそくの火程度にしか見えない地上に点在する炎、おそらく竜か龍が吐いたもの、それが微かに戦場を照らしている。
陣形も作っていない無造作な群れ、横に三本で並んだ陣形、その二つが岩山の山肌でぶつかって、一際乱雑な混沌が生まれていた。
牙と爪と巨躯がぶつかり合い、血しぶきが、喚声が、肉塊が上がり、ばたばたと命が倒れていっている。後ろに控えた竜使い達も何人も倒れていっていた。何もしていないように見えても、彼等も戦っている。
――無数の命が消えていっている。ゆらめいては消える炎の切れ端のように。
みゆきは届くはずもない血の匂いを嗅いだ気がした。
それら全てを押しやって目に集中する。それは感傷だ。今の自分にはやることがある。
目を凝らす。一度だけ見たアーサーの漆黒の巨躯。そして竜の群れの中ではねずみのようになる歩。そしてそれらが及ぼす戦場の波及――が、見つからない。
月明かりと点在する炎だけで闇夜を見とおすのは厳しい。
「一度降りましょう! 下で情報収集!」
みゆきが手で答えると、リズはぐっと竜を沈みこませ、下降した。
着いた先は戦場に近いテント群の外れの方だった。竜も多いが、それ以上に機械族が多いこの場所は、主流から外れた部隊の居場所だ。
リズはその中でも飛竜が集まっている方に向かっていった。その中で不自然に空いたスペーズ――引離着陸用の空き地に降りる。地面はならされ、防塵用の石灰が撒かれたそこは、飛行歴ひと月にも満たないみゆきとイレーネでも、楽に着陸できた。
地面に降り立ち大きく息を吐いたところで、リズが寄ってきた。
「疲れはどう?」
「大丈夫、それより二人を探そう」
初めての戦場で、初めての山地飛行で、身体はどこかひきつっている感触がある。イレーネの身体も一回り小さくなっている。そのことに気付いたから、リズは声をかけてくれたのもわかっている。だけど今はいらない。イレーネの頬に触れ、大丈夫だよね、という代わりに撫でると、水竜は満足そうに目を細めた。
リズは何か言いたそうにしていたが、無理はしないでね、そこで待ってて、と近くのテントを指し、どこかへ消えて行った。
リズの指したテントの中に入る。救護室のようでベッドと薬品の詰まった棚があったが、医者――違う、ここでは――衛生兵、はいない。隅には小規模ながらプールがある。イレーネのためだろう、受け入れ態勢は万全だ。みゆきは感謝しながらイレーネに中に入るよう促した。清潔そうなタオルもあったため、自分の肌も拭くべきかな、と思ったが、結局パイプ椅子に腰かけるだけに終わらせた。悠長に自分の身体を拭くことなんてできない。
多分五分位の後、リズが入ってきた。ひどく険しい顔をしていて、嫌な感じがする。
「どうだった?」
「……戦場には出てるけど、場所が違うみたい」
リズはみゆきを見て何か言いたげだったが、口にしたのはそれだけだった。
「それってどこかわかった?」
「今探ってもらってるとこだけど、すぐわかると思う。だけど、覚悟してね。今その場所で戦っているの歩とアーサーだけだから」
みゆきは驚きに思わず身体をびくりと動かしてしまった。
飛行で傷ついた肌や骨に、引き裂くような痛みが走る。
「……機械族の申し出らしい。竜殺しの竜を竜使いと一緒に戦わせることは難しい、と」
「歩達が貴族を襲うって?」
「現実はどうあれ、戦士たちに味方を傷つける因子が近くにいると思わせる要素は省くべき。戦場で味方に殺されるかもと思ってしまったら戦えないから」
みゆきはそんなことはない、と言いたかったが、リズのくやしそうな顔を見てやめた。
今の歩とアーサーをみゆきは知らないからだ。
それでも黙ることはできない。
「それにしたって二人だけで行かせるなんて。相手は竜でしょ? 機械族って強いのに」
「私もそれは知ってる。だけど彼等は、自分達は燃費が悪い、兵站に支障が出る、といって戦闘に参加しない」
「だから二人だけってひどすぎる。そんなのいくら歩とアーサーでも」
「いや、大丈夫」
「えっ?」
どういう意味? と聞き返そうとしたところで、テントの外から、リズさん、と声がかかった。
自分達より少し上の世代の女性の声だ。
「どこにいるかわかったみたい。行きましょう」
そう言うと、有無を言わさずにリズは外に出た。みゆきも後を追いかける。
すぐに騎乗の準備をし始めたリズに向かって問いかける。
「リズ、教えて」
「また飛ぶことになるけど、イレーネには気をつけて。予想より損耗が激しいみたいだし、身体を維持できないときの合図は余裕をもって」
「何で『大丈夫』なの」
手を止めないリズにはっきりと言った。彼女のパートナーにあぶみを付けていく動作は淀みなかったが、彼女の答えはゆっくりと絞り出すような口調だった。
「……『えぐい』機械族の連中がそう言ってた。もし私も彼等と同じ立場だったら、同じように思ったかもしれない」
いくら尋ねてもこれまでリズは歩がどんな状態なのか話してくれなかった。事前情報のない状態で会ってほしいの、嫌な印象を抱いて歩に会うと、歩に伝わっちゃうかもしれないから、と。
みゆきはこれまで、その判断にはリズの個人的な感情も影響しているんじゃないかと疑っていたが、その疑問は間違いだった気がしてきた。
リズが、えぐい、と思ってしまった今の歩とアーサー。
行きましょう、というリズに従い、みゆきはイレーネに指示を出した。無事に飛び上がったが、先程よりも上昇するスピードが遅かったような気がした。
覚悟はしていた。だがいざ彼らを目の前にしたとき、みゆきは身体を背けてしまった。
再度の飛行から十五分ほどで、リズが合図をした。彼らはこの山の先にいる、という意味だ。
星明かりと点在する炎は、ほのかに戦場を照らしていた。目を凝らしてみれば、それが竜なのか木なのかわかる程度の光だ。
だがみゆきは一目でわかった。歩がいる、と。
それはみゆきだから、というわけではない。多分リズも気付いている。
それほどわかりやすく、竜の群れは混乱状態にあった。
みゆきは元旦の神社を思いだした。
蜂の巣穴の中を思わせる、小刻みに震える無数の個体でできた密集状態。
草すらない、岩がごろごろとした灰色の開けた土地に、その巣ができていた。
ごつごつとした表面の肉がひしめきあう中、時折爪や角の鈍い光が伸びる空間。
その中に、みゆきは影を見た。ネズミのような地上を滑る動き。
歩だ。
リズに合図することなく、みゆきはイレーネに高度をさげさせた。
「……ちょっと待って!!」
リズの声も耳には届いただけだった。
墜落一歩手前の角度で、影の後を追う。全身を刺す冷風も地上が迫る恐怖も、どうでもいい。
序々に目指す影が、影でなくなっていく。黒いマントを被っているのが見えた。
アーサーの肌に似た黒――そして同じくアーサーの爪に似た、大剣。いや槍か。
その槍があげる小さな血しぶきも見えるようになってきた。竜の巨体にしては小さなしぶき、しかし斬られた竜は次々に地面に伏していく。
的確に斬っているのだ。
間違いない、歩だ。
歩、歩――
高度が龍達の頭上に迫り、イレイネの動きが下降から滑空に変わる。その分、横方向の速度が増した。見る間に、みゆき達は影に近付いていく。
顔を見よう。みゆきはそう思った。いや、見る。これは歩のはずだ。私の知る水城歩だ。
ならば説得できる。
そう確信して、追い越して、振り返り、見たみゆきは、硬直した。
それだけでなく身体をくっと退かせた。
そこにあった顔はみゆきの知る歩のものではなかった。
これ以上なく切り上がった唇に、長く見開かれた目、釣り上がった眉。
残酷な歓喜に酔いしれる顔がそこにあった。
人の魂を奪う瞬間の悪魔が、こんな顔をするんじゃないか、とみゆきは思った。