1-7 まだまだ秘密
ひさびさです、次はできてるので一週間以内に
『これが終わったら推聖書取りに行ってきてくれる?』
唐突に上司にそう言われ、明乃は、はあ、と気の抜けた返事をした。
なんでこのタイミングでそれを言うのか、馬鹿ですかあなたは、という言葉を呑みこんで。
『そういう話する場面ですか?』
『この位余裕でしょー』
『……みんなは余裕?』
『『『あるわけないでしょ!!――っ』』』
仲間の合唱が、轟音でかき消された。
耳につんざく、石が壊れる音。
石の拳で石壁が粉砕された、暴力と崩壊の戦慄き。
硬質な赤いライトと石でできた巨人、その視線が自分と向けられた。
めり込んだ拳が引きぬかれ、穴からばらばらと塵がこぼれ落ちていく。
人の頭程の岩がぼこりと落ち、地面で砕ける。
――この‘遺跡’の創造主はホラー好きだったに違いない。
百年単位で積もった埃と石壁でできた古代遺跡。
周りの壁と同じ素材で動くオーパーツ。
ホテルのロビーほどの空間で天井に頭を擦りつける巨躯。
そして咆哮。
コォォォォォォォォォォ!!!!!
『コトヨミ、守って』
巨体が自分に向かって撥ねるのを見て、明乃はパートナーの名を呼んだ。
地面を這う多頭の蛇が、音もなく明乃と巨体の間に入ったと思ったら、すぐにとぐろを巻いた。即席のバネだ。
ドゥンと尻下がりの音を立てて、バネは衝撃を吸収しきった。
だがそこに横からの二撃目がふりかかり、バネは真横にかっ飛んで行った。
――こうなることはわかっていた。だがこれが自分達のできる精一杯の最善。
パートナーの名を呼ぶ反射を呑みこみ、明乃がバックステップを踏むと、巨拳が目の前を通過した。
顔に浮かんだ汗が拳の作った暴風に吸い込まれていく感覚。
血の気も一緒に吸い込まれて行ってそうだ。
だが感慨に浸る暇はない。
巻きあげられた埃が軌跡を作る。
明乃のステップで足元に、ゴーレムの剛腕で人の頭の高さに、白煙が弧を描いては散っていく。
――砂漠の竜巻のようなものじゃないか。遠くからは美しい、命がけの舞。いつかは呆気なく終わりを迎える有限の嵐。
突然背中に冷たい感触がして身体が止まった。壁だった。
その壁は自分ともう一人以外のその他で二つに分断させた、遺跡のギミック。
あ、と思ったときには、眼前に巨拳が迫っていた。
背中に石壁、眼前には石拳。振り上げられる、石の剛腕。
全てがゆっくりと思考に納まっていった。結論が出たのは、石拳が下降を始めたときだった。
――無理。
拳に影が飛ぶ。コトヨミだった。首を伸ばして腕にまとわりついた、だがゴーレムの動作はほとんど変化せず、逆に雑草のようにもろともに引っこ抜かれる始末。拳にパートナーの重量が追加されただけ――
その瞬間に、一撃が明乃に、頬に、すぐ横の壁に、突き刺さった。背中越しに振動が流れ、頬が焼けるように痛んだ。そしてそれ以上は何もなく、砂煙が全身を包んでいった。
『明乃ちゃん、諦め良すぎ』
砂煙越しに、凛と立つ上司の姿が見えた。肩には猫。それが彼女のパートナーだ。
明乃は安堵を押し殺し、口を開いた。
『遅くないですか』
『そっちは早すぎない? 死ぬ気になるの』
私はこんなもんですよ、と言いながら明乃はゆっくりと息をつく。
蛇の温度探知能力を利用しての偵察が本来の役目。戦闘はやっぱり駄目だ。
序々に晴れ行く砂煙の中から、上司の歪む口元が見えた。
『ないなりに覇気と根気を出しなさい。あ、これ、上司命令ね』
『パワハラです』
『私の家探しだして雇ってくださいと言ってきた意地はどこに行ったの?』
『贖罪です』
戦闘音が聞こえてきた。もう一つの部屋ではまだ続いている。
『似たようなもんでしょ』
『どうでもいいです、それよりあっち側はいいんですか?』
『勿論準備中……で、完了。そっちも、行くよ、いい?』
お願いします、と必死な返答がされると、上司がすっと右腕を上げ、それからミル行くよ、と言いながらぐっと空を拳で握りこんだ。
一瞬の空白の後、ガタガタと騒音が聞こえてきた。
『あらためて考えると、それ卑怯ですよね』
『便利って言いなさい。上司命令ね』
――本物の腕のように、触覚もある念力なんて、卑怯で十分だ。
上司はその後、点呼、負傷の確認、舞台を分断する石壁の破壊の指示、と流れるように上司としての仕事をやっていった。
指示をこなしつつも、そのてきぱきとした姿を見ると、唐突にトンビが鷹を生むなんて言葉は嘘だと思った。鷹を産んだトンビが、ただのトンビなわけはないのだ。
――竜使いを生んだ猫使い、水城歩を生んだ水城類。
『でねー明乃ちゃん、掘り終わったら推聖書の回収おねがいね?』
類は壁に手を当てて探査しながら、明乃に言った。
『はい――でも、そういう関係ない指示は戦闘中には辞めてくださいね』
『忘れそうだったからねー、最近物忘れ激しくって』
こういう、とぼけたところさえなければ、素直に尊敬できるのに。
『受け渡し場所はどこですか?』
『バウスネルンの御屋敷。お土産よろしくねー』
わかりまし、と返しそうになって、途中で口が止まった。
――そこに息子達がいることを、あなたは知っているでしょう
『……顔を合わせる可能性があると思うのですが』
『嫌? っとここだね』
類の顔を見たが、明乃に覗えるものは何もなかった。
『そんなに会うのが嫌なら避ければいいじゃない。諜報やってたあなたなら簡単でしょ……行くよーそっち離れてー』
退避しました、という返答が返ってくると、すぐに壁からぼこ、と音が聞こえてきた。その音はすぐに連鎖していき、壁の表面に一気にひびが入ったと思った次の瞬間には、あっけなく壁が崩壊した。
壁の先から光が差し込んできて、類の顔が照らし出された。
類の顔は全く普段通りだった。
『この仕事をやり遂げる。それがあなたの贖罪でしょ? 私のところに来たのは、それが理由と言ったじゃない。そして遺跡発掘に関する実権を持つ私が、推聖書の移送任務に最も適しているのはあなたと判断し、指示を出した。あなたはどうすべき?』
明乃はすぐには答えられず、もう遠く昔に感じるようになった問答を反芻しだした。
――なぜあなたの子どもを殺そうとした私を信頼できるのか。
――人を見る目はあるつもりよ。
――大事なものを守ることができる人は特有の目をしているものよ。
『命令を拒絶します』
それでも明乃は反抗した。
『その判断は間違っています。もしも彼等に出会った場合、おそらく私は平常ではいられません。任務に支障を来たす可能性があります』
それこそ、推聖書を彼等に渡してしまう最悪のケースもある。
『どうすれば、任務を完遂できると思う?』
こちらを振り向いて、類が言ってきた。
明乃は少し考えた後、口を開いた。
『私がここに至った経緯を話す権利をください』
『思い切ったわね』
私がここに来るまでの話には、いくつか一線を越える話もある。
だがそれがおそらく、最も彼等に対して誠実で、彼らが望むであろう、私が差し出せるものだ。
何事か起こっていることを同僚達が序々に気付き始め、それが全員に行き渡ったころ、類は言った。
『個人名、遺跡内で見聞きした情報、その他、遺跡発掘に支障を来す可能性のあるもの全て、あと、私に関する情報、それら全ては禁止。それが条件よ』
――信頼を感じる。だからこそ、明乃は申し訳なく思った。
『了解です。任務、承りました』
明乃はそう答えながらも、その中の一つは破ってしまおうと覚悟を決めた。
「なぜお前がいる」
アーサーの声を聞いて、綾辻明乃の顔がこちらを向いた。
振りかえった彼女の顔から、驚愕がこぼれ落ちた。
歩はふと彼女にあったことが遠い昔のように感じた。
「お知り合いですか?」
「我らを殺そうとしたものだ」
え、と今度はバウスネルン父兄が声をあげる中、歩はじっと綾辻明乃を観察していた。
歩の知る綾辻明乃はふんわかとした女教師だったが、今は違った。厳しい表情と格好がよく似合っている。女教師は演技で、こちらが本職だったのだろう。
疲れているのか、肌が少し黄色がかって見えるが、それでも生気が覗える。
彼女と目があった。その瞳にゆらぎを見た気がしたが、それはすぐになくなった。
彼女は、入ってもよろしいでしょうか、とヨハン翁に許可をとり返答を得ると、カツカツと音を立てて中に入ってきて、頭を下げた。
「その節は申し訳ありませんでした」
「――お久しぶりです」
歩はそうとしか言えなかった。
何様のつもりだ、今更なんだ、そうした感情は浮かんでこない。
ただ驚いている。混乱している。
「質問に答えろ、綾辻明乃。なぜお前がここにいる?」
アーサーの鋭い声音に、彼女は頭を上げて目を見て答えた。
「私が今遺跡で働いているからです」
遺跡。
そうだ、今目の前の人間は聖竜会会長の使者で、推聖書という遺物の回収にやってきた人間だ。
だが何故それが彼女なんだ?
「会長とやらもずいぶんと老いているのではないか? 歩、喜べ。我らが潜りこむ隙がありそうだ」
「残念ですが、私がここにいるのは諜報部員だからです」
「そういえばお前はスパイだったな。その節はずいぶんお世話になった」
アーサーのいつになく皮肉めいた口調も、明乃は黙って聞き続けた。
それが彼女の受ける罰だとでも言う風に。
――なんだかむかついてきた。
「遺跡についての情報開示を求める」
「申し訳ありませんができません」
明乃はきっぱりと答えた。アーサーも返答に特段怒りを持った様子はなく、一応言ってみただけ、という感じのようだ。
言っただけ、八つ当たりにすぎないのだ。
「ですが、私が遺跡に至った経緯は話せます」
しかし明乃は続けてそう言った。
アーサーと目配せし、頷き合う。
くだらない謝罪よりも、情報が欲しい。どんなものでも、遺跡に関することなら十分だ。
暗幕に包まれた檻の中にいるのだから、光ならばゴキブリの羽の反射でもかまわない。
「できるかぎり話せ。もし足りないと思ったら、お前を殺す。バウスネルンが止めても知らん。今なら竜相手じゃなくても化身できそうだ」
彼女はうなずくと、背筋を伸ばしたまま語りだした。
「遺跡を知ったきっかけは、悪食蜘蛛の件から、インテリジェンスドラゴン、つまりあなた達について調べはじめたことです。あなた達の情報は聖竜会にもほとんどない状況だったので、奇策に出ることにしたんです。諜報部員時代から、会長の周りだけは情報の巡りが異様に悪いことが気になっていたので、そこに当たってみました」
「その会長とやら、何故そこまで特別なのであろうな」
「わかりません。ただ年長の竜使いからは絶大な支持を受けています」
――昔に何かあったのやもしれん。
アーサーが誰に言うわけでもなく呟いた。
「調べていくと、隠匿されているチームの存在に気付きました。会長直属の独立部隊、面白いことに、そのメンバーの内、竜使いは半数ほどで、他は諜報向けのパートナー使いで構成されていました。取りまとめ役も竜使いではありませんでした。竜使いの総本山の頂点にいる存在の直属なのに――それが今私の所属する遺跡部隊です」
「どうやってそこに所属することになった」
「その取りまとめ役のもとに直接行き、お願いしました」
思わず彼女の顔を見なおす。平然としていた。
――彼女も悪食蜘蛛の一件をそれなりには受け止めているのかもしれない。
「思い切った判断だな」
「公算がありましたから。その部隊には諜報役が必要で、彼女を探り当てたことそのものが力の証明になる。部隊からはしばしば離脱者が出ていることもわかっていましたし、優秀な人手は難があっても雇いたいのではないかと。正直、賭けでしたが、今ここにいるので構わないでしょう」
そうして私は遺跡に至りました、と明乃は締めた。
わかったことを反芻してみる。
遺跡部隊は竜使いとその他の混合、会長直属、諜報部員が必要な仕事がある。
――終わってみれば、残ったのは本当にわずかなものだけだった。
ないよりはまし。マシだ。一文無しと飴玉を買える程度の差か。
では仕事に戻ります、と言う明乃に、歩は何も言わなかった。
なんて言えばいいかわからなかったのもある。だけどそれ以上に、何かを言おうという気持ちがなかった。
多分、飴玉の切れ端をもらった乞食の気持ちってこんな感じなんだろうと思った。
アーサーも同じ気持ちなのか、皮肉も何も言わなかった。
来た時のようにカツカツと音を立て、明乃は出て行く。
その途中、カツンといきなり音が止まった。
彼女は振り向いた。何を言うのか。
「一つだけ、追加でお教えします。会長直属のメンバーのリーダーは水城類、あなた達の母親です」
がばりと頭を振り、明乃の目を見た。
真剣だった。嘘ではないのか。でも意味がわからない。
あの母親が、なぜ。
「私からはこれ以上言いません。直接話してみてください」
それだけ言い、明乃は扉に向かった。止めようと思った。だが口は動かない。喉は生唾を呑みこんだだけで終わる。自分の中の驚愕が何もさせてはくれない。
ちらりとアーサーを覗ったが、口を半開きにした間抜けな横顔を見ただけだった。
扉の締まる音がしてもなお、動けなかった。
お疲れでしょうし、今日は部屋にお戻りください、とヨハン翁に言われるまで、歩とアーサーはその場で固まっていた。
部屋に戻ってからしばらくして、歩はアーサーに話しかけた。
「どういうことだろ」
「どうも何もない――我らが馬鹿だったって話であろう」
馬鹿だった。
馬鹿。
そうか。
「母さんかー考えてもなかったな」
「わかるわけもなかろう」
ベッドに転がり、天井を見あげる。何もない。
なんで言ってくれなかったのか、とは当然思う。
機密だろうとなんだろうと、当事者が息子であり、それで苦しんでいるのなら、話すのが筋だと歩は思う。怒っていい。
だけど、今はどうでもよかった。
本当、馬鹿みたいだ。自分達はなんて小さい存在だったんだ。
井の中の蛙どころか、洗面器に浮かんだアヒルのおもちゃだ。
「洗面器の玩具」
「奇遇。同じこと思ったわ」
なんで黙ってたんだ。
俺達が悩んでたこと知ってるだろう。アーサーは本当きつかったんだぞ。竜殺しの衝動抑えるのも、同族殺しの自分への忌避感も、どうしようもなかったんだぞ。本気で悩んでたんだぞ。
しかし怒る気にはなれなかった。
疲れた。
それだけだった。
「酒飲んでみたい。アーサーくれよ」
「やめておけ。間違いなくまずい」
「そうかーまずいかー」
そんな間抜けな声しか出てこない。アーサーの声にも張りがない。
歩はベッドに倒れ込んだ。眠気はない、だけど何もしたくない。
生ぬるい沈黙が部屋に充満していた。
どれくらいたった頃だろうか。
夢うつつだった歩には、本当にそれは唐突だった。
いきなり轟音がして、建物が大きく揺れたのだ。
「……アーサー?」
「無事だ。が、わからん」
ベッドから起きあがり、廊下に出た。壁にかけられた絵が落ちていたが、それ以外は何も変化はない。騒ぎもない。
なんだこれ、と思ったとき、また轟音と震動が襲ってきた。
さっきより、弱い――いや、遠いのか。
「歩、戻れ」
アーサーの緊迫した声が聞こえてきた。何か問題が起こったときの声音。
急いで戻ると、驚いた。窓際に人影があったのだ。ばっとアーサーに近寄った。
――暗くてよく見えない。ただ男、軍服のようなものを着ている
「要件を聞こうか」
「真実を知りたくないか。こちらには貴方達が知りたいが持っていない情報があり、それを伝える準備がある」
簡潔だった。簡潔すぎて、初めは理解できなかった。
だが情報を咀嚼していく内に、それがどうしようもなく胡散くさくて魅力的な答えなことに気付いた。
真実――何より欲しい、甘過ぎるほどに甘い果実。
「お前達は誰だ」
「ここでは答えられない。知りたければ来い」
「行けるわけなかろう。馬鹿かお前は」
アーサーが頼りに感じる。
「それは困る。実力行使も辞さない」
「やれるか? 竜使いの家だぞここは」
「自分には遂行能力がある。もう一度言う。来い」
「拒否する」
人影に動きはない。だが歩は腰を落とした。槍はベッドの向かって反対側、アーサーには飛んでもらって徒手か――
「最終通告。来い」
「壊れたラジオに付き合う趣味はない。さっさと持ち主のところ帰れ」
影が足に力を入れたのがわかった。来るか――
槍の方へ一歩踏み出そうとしたところで、
「代われ。お前じゃ話がこんがらがるだけだと言ったろうに」
別の男が乱入してきた。だが歩はその声に聞き覚えがあった。
えっと、確か――え?
「今度はお前か。よくよく今日は馴染みに会う」
「そう言うな。私もこんな再会は遠慮願いたかった」
男でくだけた口調、でも一人称は私。
「頼む、何も言わずついてきてくれ。悪いようにはしないのは、無くしてしまったキヨモリの翼に誓おう」
歩はアーサーの方に顔を向けた。
見合って、うなずきあった。