1-6 秘密
岩肌から冷たい冷気が流れ込んでいるような気がした。
意味がわからない。
インテリジェンスドラゴン=アーサー?
いや、それはあっている。
だがアーサーはたった一体のみのインテリジェンスドラゴン?
一種類一個体のパートナーなんて聞いたことがない。
ありえない。
「えっと、それって、どういうこと、です?」
「アーサーさんは特別ということです」
口にしてから質問になっていない質問だったことに気付いたが、ヨハン翁が何事もなかったように答えてくれた。
「最近になってわかったことです。とある島に要塞のような人を拒む作りになっている遺跡があります。それはそこの出土品です」
「この推聖書という本のことですか」
ヨハン翁が頷く。
「その遺跡は世間には知られていません。それだけ重要なものが隠されているのです。発見は二十五年前で、聖竜会が直々に調査を進めています。最初に足を踏み入れた考古学者以外で中に入ったことがあるのは、聖竜会の関係者のみです」
「たかが遺跡にそこまで?」
「たかが、ではないのです。そこにはこの世界の秘密のほとんどが詰まっているのです」
この世界の秘密?
そんな大仰な、と言おうとした口が勝手に閉じた。
先程聞いたのはなんだ? 一種一個体のインテリジェンスドラゴン、アーサー。
それが真実ならば、パートナーに例外が存在したことになる。
人間にとってこれ以上ない重大なパートナーの仕組みにだ。
それも昔から伝説なんてややこしいものに暗喩されていた代物。
秘密でなくてなんなのだ。
この世にはまだ知られていない秘密が、あるのだ。
「ヨハン翁」
静かな声が洞窟内で響きわたった。岩肌までもが震えたかのような、よく反響する、聞き慣れた声だ。
「その世界の秘密とやらに、我のことも入っておるのか?」
「少なくとも、その本には」
「推聖書。ずいぶんもってまわった名だが、名前負けしない中身がそこにあると?」
ヨハン翁が頷いたのを見て、歩は自分の目の前にある分厚い古書に目をやる。
触れたらどこか痛んでしまうのではないか、自分の手汗で自が消えてしまうのではないか。
そう思ってしまうほどの古い本。
その中には世界の秘密がある。
ただ書かれている文字は古語で、歩にはまるで読めない。
歩はつばを呑みこんでから、言った。
「その秘密を聞かせてもらっても「聞かせていただけるわけにはいかぬのであろう?」」
「本当に先回る方ですね」
ヨハン翁が困ったように言った。
歩は一瞬、頭の中を流れる血液が止まった気がした。
すっとアンネの手が伸びてきて、推聖書が目の前から消えて行った。
「なぜ」
「我らに話す義務も意味もないからだ。我らがした仕事は無意味ではないが、それなりでしかない。今までのインテリジェンスドラゴンのことを聞かせてもらえたのも過分であろう。
――どちらにしろ、これ以上我らに秘密を語る理由はない。そして秘密は話すことそのものがリスクだ」
「言いにくいことをありがとうございます」
アーサーの言葉は理路整然としていて、歩にはまるで太刀打ちできなかった。
ここまで聞かせておいて、先には行かないのか。
ここで終わりなのか。目と鼻の先――アンネがヨハン翁の前に置いた推聖書が、秘密があるのに。
「インテリジェンスドラゴンについては契約だったと思うが、抜けはないか?」
「ありません、証明はできませんが」
「そんなものはそもそも存在しない。我の存在以外、確かなものはないのだからな」
――いっそのことここで奪うのもありか。
ただの古語なら読める人はいるかもしれない。読めなくても、交渉のカードにはなる。
ただそれはバウスネルン家への、リズへの裏切りになる――
そのとき、バン、と大きな音がした。
音のした方を見ると、リズが机に両手をつく姿勢で立ちあがっているのが見えた。
両手をついた部分がへこんでいる。
今にも暴れ出しそうな泣き顔だった。
「それで私にも黙っていたのはなんで? 父さん達は知っていたんでしょう?」
年違いの双子達を見る。顔が強張って硬直していた。返事するまでもなかった。
「なら母さんも知ってるね。おじい様、なんで私には話さなかったの?」
「あんた、話したでしょ」
アンネがきっぱりと答えた。
リズとアンネの視線があわされる。睨み合う親子の像。
「だから話さなかったの? のけ者? 私」
「少なくとものけ者にされて怒る子どもにはね」
「大人でも怒るでしょう? 自分の胸に聞いたら? 大抵の夫婦喧嘩の理由はそれだったと思うけど」
「家庭と世界を同じように扱うのは子どもの証拠ね」
「やめなさい」
ヨハン翁が、静かに、ただピリピリとしたものを込めて言った。
「場をわきまえぬ親子喧嘩はそれ以前の問題です。二人とも退出を」
「でもっ!」
「リーゼロッテ、退出を」
「でもっ!!!」
「リーゼロッテ!!!」
ヨハン翁の大声に身体が震えた。腹の底から縮こまらせるような、竜の咆哮に負けない一声。
いまさらながら、この老人も竜使いだということを、思い出した。
貴族なのだ、この場にいる人達は全員。だからそういうことなのだ。
リズも怒りを吹き飛ばされたようで、顔から血の気がぬけていた。
それでもそうかからない内に頬は赤みを取り戻していったが、リズ、とヨハン翁が今度は静かにいうと、扉に向かっていった。
扉に手をかけたところで、ちらり、と歩とアーサーの方を向いた。
一瞬だけだったが、その目からはごめんなさいと言葉が溢れていた。
「身内の不始末をお見せしてすみません」
アンネもリズの退路を塞ぐように出ていったところで、ヨハン翁が口を開いた。
「以上で、我々の話は終わりです。この三カ月の報酬としては十分だったと思いますが」
「ありがとうございました」
それしか言えることはなかった。
「そこで一つ、次なる契約の提案があるのですが」
次は、あるのか? そう思っていた矢先に、ヨハン翁が言った。
「契約?」
「はい。ゲルハルト、ゲルベルト、説明を」
年違いの双子の若いほうが立ち上がった。
洒落っ気のない、仕事の顔をしている。
「バウスネルン家として一年間の契約を、水城歩さん、アーサーさんの双方に提示させていただきます。業務はこれまでと同様、訓練生の教練と竜騎士システムに関するアドバイスです。賃金は月辺りにして、以前の三カ月契約の倍を、雇用保険の加入と労働ビザの更新もこちらで手配します」
「そしてもう一つ、契約満了の際には、そのとき知り得ている全ての秘密の開示を保障させていただきます」
続いて年をとった方が言った内容に、歩の喉は、え、と声を出した。
「またその際には新たな一年契約を提示させていただくことになると思います。賃金に関しては成果報酬で上下することになると思いますが、それ以外は全く同じ契約を提示します。もちろん断られても結構です」
なにそれ? これ以上話せないからの、一年後なら話します? 意味がわからない。
「その提示するに至った理由を聞かせてもらってもかまわぬか?」
「リズの報告によれば水城歩さんが教官になってからの訓練生の成長度合いは三十パーセントアップとのこと。身体能力検査にも出ています。アーサーさんの戦術論は竜騎士システムに――」
「本心は別にないのか? たとえば、聖竜会に頼まれたと――」
ぶわり、と背中の表面の肌を熱気が走ったような気がした。
ここでもそうか。あなたたちもそうなのか。
また聖竜会が、身勝手な大人たちの思惑が俺達を縛ろうとしているのか。
――ならば。
「ここからは私から話します」
ヨハン翁が遮るように言った。
「このままでは誤解が生まれかねない。事態は複雑なのです、歩さん、アーサーさん」
ヨハン翁がじっくりとこちらを、歩とアーサーを見てきた。
親が子に何かを言って聞かせるような感じだ。
それも叱りつけるときや諭すときではない、お願いをする、といった感じだ。
話を聞いてみてもいいかと歩は思った。
アーサーと顔を見合わせ、歩が頷くと、アーサーが、ではお願いする、と言う。
ヨハン翁がにっこりと笑った。
「ありがとうございます。まず最初に告白を。
先程提示した契約もですが、これまでの三カ月間の契約も含め、聖竜会、正確には遺跡の発掘調査の責任者である会長から、要請されたものです。
水城歩とアーサーを雇え、と」
遺跡発掘? それも聖竜会のトップから?
「なんでですか?」
「今丁度真実がわかっているところだからです」
間抜けな質問にも、ヨハン翁は和やかに答えてくれた。
「先程お見せした推聖書。これの発見は大きかった。
インテリジェンスドラゴンについてもですが、それ以外の、そもそものこの世界のなりたちについても、書かれているのです。
歩さん、アーサーさん、そもそもパートナーという生き物そのものがおかしいと思ったことはありませんか?」
パートナーそのものがおかしい?
「ものすごくいまさらな質問です。もし私たちが、人とパートナーという二種一個の生物がいない世界の者が、私達を見たらどう思うか、と言い変えてもいいです」
人とパートナー。
歩は自分の中の言葉がしっかり形になるのを待ってから、答えた。
「少なくともありえないです。二種一個と言われましたが、二つの全く異なる生物が目に見えない何かで結ばれているなんて、他の生物にはないですし」
「その通り、素晴らしい」
「幼き頃、みな思った疑問であろう」
ヨハン翁が満足そうに頷いた。教師と生徒みたいだ、と思った。
「その通りです。私達にとってはそれが当然であり、現実です。何故かわからないがそうなっている。それ以上の真実はありません。
ですが、やはりそれはおかしなことなのです。人とパートナーという不可思議な生き物は自然ではない。
そこにはなんらかの因果があると考えるべきです」
「その因果とやらがその推聖書と遺跡にあると?」
アーサーが深く重い口調で尋ねた。
「はい。いわば、人類の根源があるのです」
「そしてそこにはインテリジェンスドラゴンの根源もあると」
二人の話は早すぎる。おいてけぼりを喰らった感覚になり、怒りも同時に後ろの方に行ってしまった気がした。
ただ一つだけわかる。
自分達は今、とんでもないことを聞いているのだということを。
そのとんでもないことに、自分達が関係しているのだということを。
来るところまで来た。そんな気がした。人類の創世の話。秘密の話。根源の話――
「だがそれがどうした」
だがアーサーの怒気が、現実に引きずりもどした。
アーサーを見る。いや、見るまでもなくわかる。
怒っている。それもこれまでになく激しく。
犬であれば、ただの品のない竜であれば、鼻に皺をよせ牙をむき出しにしているほどに。
「何故我らをこの場に押しとどめようとするのか、その説明はまだか」
「何を怒られますか」
「答えがわかりきっているからだ。我らに嗅ぎまわられたくないから、どこかに隔離しておけ、そういうことだろう」
本当に怒っている。小さな竜が発しているのに、洞窟を揺らしているような気さえする威嚇が見える。
そしてその怒気にさらされ、歩もわかったことがある。
今満足しかけた自分は、実は何も説明されていなかったのだ。
ヨハン翁の顔を見る。全く変わらない微笑。
そう、アーサーの怒気に晒されても全く変わらない微笑。鋼鉄の大人の仮面。
「謝ります。これで済めばいいと思って、あなたたちを罠にかけました。見くびりました。申し訳ないです」
技術。おそらく説得の技術だ、自分が先程受けたものは。
しばらくしてアーサーは幾分か怒りのおさまった声で言った。
「もうそれはどうでもよい。真実をくれ。何故我らが隔離されねばならない」
「お話できないから手段を講じた、とアーサーさんならわかってくれていると思いますが」
「もうたくさんだそれは」
静かな声だった。怒りがおさまり、全く別の何かに変化した感情が込められていた。
「我らには言えない何か重大な秘密がある。それはわかる。我らを関わらせてはいけない何かがある。それもわかる。我らが動くべきではない。わかっている。だがいつまでくだらない大人のしがらみに付き合わねばならぬ」
「私に言えることは、私達に任せてくれれば、そう遠くない内に、十年以内には真実をお話できる、ということだけです」
「……実際、あなた方が我らを良くしてくれておるのはわかっている。信用してもいいと思っている。だがそれでもなお、我らを押しとどめなければならない秘密は何なのだ」
「……答えられません」
俺達には何もできない。
歩はそう思った。
そしてもう一つ、うなだれるアーサーを見て思ったことがある。
アーサー抜きの俺単体は今まで何かやったことがあるのだろうか。
どれだけ時がたった頃か。
突然ドアがノックされ、
「推聖書を受け取りに、会長の使者がやってこられました」
と、自分達をここまで案内してくれたメイドさんの声が鳴り響いた。
「お二人とも、いいですね」
聞いてきたのは、ヨハン翁の優しさだった。
ヨハン翁に指示され、リズの父親のゲルハルトが推聖書を両手に持ち、扉の方へ向かった。
そして大きな扉が開き、使者に手渡す。
名残惜しく、なんとなく使者の顔を見る。
そしてひどく驚いた。
「アーサー」
「どういうことだ?」
しばらく硬直していたアーサーも鈍くなっていた。
だが、完全に予想外なのは同じだった。
悪食蜘蛛のとき、乾いた笑いで自分はユダだと言った彼女の顔を思い出す。
綾辻明乃。
なんでお前がここにいる。