■第9章■ あなたとの約束
■第9章■ あなたとの約束
真由の前には静かなラクイラの朝が広がっていた。
バールから流れ出るカフェの香ばしい香りの中で、
山間の朝は伸びやかな顔をして真由に微笑んでいたる…。
真由は幸せなときにする首をかしげる癖が自然に出ていたことに
気がつかず、バールの入り口近くで首をかしげながら手を空に遊ばせていた。
朝日に手をかざす真由の仕草はわざとらしくもなく、
極自然に真由の身体から出てきた動作だったから、
バールの中にいたルチアーノもアンナも、入り口でまるで
踊るような仕草を続ける真由を楽しみながら見つめていた。
そして、真由は小雪が舞いだした空の彼方に
ルチアーノの視線の中で踊っている自分を垣間見ていた…。
小雪はいつしかあの真綿雪に変わろうとしていた…。
セーター一枚の真由は寒さで身体中が凍り付く寸前であったが、
でも、バールの中には入らなかった。まだもう少し
ルチアーノとアンナの優しいまなざしに甘えていたかったし、
なぜ自分が恥ずかしげもなく踊り出したのか、
丁度判りかけていたから…。
だから、少しだけ恥ずかしかったけれどすぐには止めなかった…。
今感じていることをそのままこの町に滞在する間、
持続するためにも踊り続けることが必要だったから…。
雪の中で舞う真由は思い出していた。
“人前で突然踊り出したらいけない。周囲の人は真由が狂ったか、
元より精神がおかしい人だと勘違いするし、
一緒にいる僕だってちょっと恥ずかしいから…”
パリでフィリッポにそう言われたことを思い出していた。
その後、人前で今日のように踊ることを禁じていたことも
思い出しながら、バールの前にいた。
そして、その言葉を払い除けて、昨日、知合ったばかりの
ルチアーノとアンナの前だったけれど、
踊っていることに後悔も何らの抵抗もなかった…。
踊る姿が白い雪に反射し幻のように揺れているのを見た真由は、
美しいと思い、自分の意思に素直に準じていることがうれしくもあった。
だから、真由は恥ずかしかったけれど、踊るのを止めなかった…。
そして、真由は彼らが自分の世界に足を踏み入れていると感じていた。
それはアンナの言葉が真由の手に絡みついたことで知った。
「真由、カフェを飲まない?冷めちゃったけれど、美味しいのよ
私の淹れたカフェは。あなたが最高の味って自慢する
“ルディの淹れたカフェ”に匹敵するくらい美味しいから。
さあ、味わって。きっとお代わりがほしくなるわ」
そう言ったとき、真由はアンナは自分の世界を知る
信頼できる友人だって思った。なぜならば、
まだ話していないルディのカフェを知っていたから…。
自分の愛するトスカーナの友人の一人である、
素敵なおじいちゃんのルディのカフェの味を知っていたから…。
だから、アンナは既に自分の世界に入り自分の愛する人や好きなもの、
忘れ難い友人などを知り尽くしてしまっていると思えた。
同時に苦しみや悩みも知っているはずであると…。
アンナに隠し事のなくなった真由は、そこで初めてアンナとは
深い絆で結ばれたと安堵した…。
ラクイラ訪問の初めての大きな収穫だったから、
真由は思わず傍らで今も自分を見つめているルチアーノに
アンナに気づかれないようにそっと目で伝えた。
“ルチアーノ、今日これからあなたの勧めるサン・シルヴェストロ教会に
行くつもりです。昨日、あなたが言ってくださったラファエロの作品に
会いに…。でも、本当はあなたに言われなくてもこの町を訪れた目的の
ひとつは教会の礼拝堂に架かっている彼の作品を見ることだったのです。
でも、あなたに勧められてうれしかった…。青い目の奥に哀愁を湛えた
あなたのその目で見た作品だから…。そして、私と同じラファエロに興味を
持っていることが判ったから…。あなたは何をなさっているのですか?
パリで教鞭をとっているとおっしゃったけれど、何を誰に教えて
いらしゃるのですか?それと…。あなたのイタリアの故郷、
北イタリアのヴェレッツォ・ロメッリーナってどんなところなのですか?
とっても気になって…。なぜなのか判りませんが…。それともうひとつ。
パリではどこにお住まいになっていらっしゃるのですか?
…質問が私的過ぎますね。ごめんなさい…。でも、とても気になって
仕方がなかったから…”
肩をすぼめてバールの中に入った真由をルチアーノは優しく迎えた。
カウンターの中にいるアンナから手渡されたタオルを持って…。
真由の肩と髪についた真綿雪を落としながら、ルチアーノは真由に
合図を送った。さっきの真由の言葉の返事だった。
“一時間後、サン・シルヴェストロ教会の前で会おう”
アンナの言うとおり、アンナの淹れたカフェの味は逸品だと思いながら、
真由とルチアーノは約束の一時間後の世界に生きていた…。
夢のバールで二人だけの始めての共有する時間に思いを馳せながら…。
★第10章に続く★