■第6章■ パリの人
■第6章■ パリの人
リビングに置かれた小さなテーブルを囲んで三人が座った。
男性は座るついでにジャケットのポケットから紙に包まれた丸い数個の
チョコレートを出して、真由とアンナに勧めた。
「さっき買い物に行ったとき、角のおばあちゃんからもらった。
彼女はいつも目の前を通る人に誰でも構わず差し出している。
一度、僕が断ると怒ったな。毒は入っていないから安心しなってね」
そう言って自分も椅子に座った。そして、自己紹介をすると思いきや
キッチンから持ってきたオリーブオイルの入ったグリーン色の瓶を
片手にして、真由の目を見て口を開いた。
「君、真由さんだっけ、真由さんはイタリア料理が好きですか?
好きなんですね。じゃ、オリーブオイルを飲むことは出来ますか?
というより飲んだことがありますか?と聞いた方がいいかな。
ある?本当ですか?そりゃいい。実は僕はイタリア料理はもちろんだが、
オリーブオイルの大ファンでね。なかでもこの町の郊外に住む友人が
作るこのオイルが素晴らしい。僕がこの町に足を運ぶのは、彼の作る
オリーブオイルを食べるためと言っても過言ではない。
いつか僕はそのために住み着くかもしれないね。
もちろん、好みの違いもあるから、彼の作品は万人に絶賛されるとは
思ってはいませんが、僕はラクイラのこのオイルが
イタリア一番の味と思っている。
この香ばしい香りと酷のある味。飲むと口の中に芳醇な味と香りが
広がってね、それはもう美味そのもの。もちろん、パンに付けて
食べるのも逸品の味だし、今だってそうでしょう?
このオイルで料理をしていたから、香りに釣られて二人がこうして
僕を訪ねてきた。そう、今日のランチは手打ちのフィットチーネ。
たっぷりのオイルを使って料理したから、みんなで食べようと言いたい
ところだけれど、今は僕の一人分しかないから…」
と言いつつ、男性は立ち上がり、キッチンの棚から二枚の皿を出した。
そして、僕の分と言った既に盛り付けてあったフィットチーネの入った皿
とフォークを手際よくテーブルに並べた。
その間、アンナは慣れた風でキッチンの上部の物入れからコップを出し、
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してテーブルに用意していた。
男性は言った。
「僕のランチだったけれど、このフィットチーネを三等分しよう。
今自慢したオリーブオイルを味わってほしいし、本当に美味しいと
いうことを証明したいから、さあ、早く食べよう。冷めたら味は半減だからね」
そう言って、アンナにも真由にも有無を言わさず自分から食べ始めた。
真由は相手の言葉に心を奪われたかのように呆然としていた。
なぜならオリーブオイルを食べると表現した人は彼が初めてたっだし、
オイルを食べると言うそのこと自体、不思議な表現だったから…。
そして、自分と違ってこの町に執心する理由が“友人の作る
オリーブオイル”であること。このオイルのためにいつの日か
この町に住み着くかもしれない…。
そう言った彼の言葉に真由は惑わされ、いつしか魅了されていた…。
アンナは真由の歓びににも似た顔を見て、フォークを取った。
真由もフォークを取り、フィットチーネを口にした。
三等分されたお互いのフィットチーネは、お互いの無言の世界で、
ものの数分もしない内に、各々の皿は殻になった。
ナフキンで口元を拭いたアンナが最初に感想を言った。
「さすがルチアーノのフィットチーネだわ。オリーブオイルの味も
素晴らしいけれど、パスタの出来具合も最高よ!粉に対しての卵の
割合といいオイルの混ぜ具合といい、コシのある茹で具合といい、
すべて満点。けちをつけるところがない。お代わりを欲しいから、
だから、お願い、早く自己紹介を済ませてキッチンに立って下さらない?
二皿目のフィットチーネを作るために」
真由の言葉を待つルチアーノは青い目を窓辺に向けていた。
そして、真由が感想を言おうとすると、青い目は動き、
視線の先がベッドの上に架けてあるあの絵画に向けられた。
そして、絵画から視線を離さないまま言った。
「…真由さん、もし、絵画に興味があるなら、明日でも
明後日でもいいホテルの隣に建つサン・シルヴェストロ教会に
足を運んでみてください。堂内には
この絵と同じ作品があります。オリジナルではありませんが」
ルチアーノはそう言った後、視線を真由に向けて言葉を繋いだ。
「僕はルチアーノ・モーロ。ラクイラに来る度にここを
我が家が代わりに使わせてもらっている宿泊客の古株です。
イタリア人ですが、パリに住んでいる方が多いかもしれない。
もちろん、イタリアにも僕の家はありますが。
北イタリアのヴェレッツォ・ロメッリーナという小さな村だけどね。
職業はどう説明したらいいのかな。つまり、イタリアにいるときは休暇だから、
無職と言っておこう。パリにいる間は、大学で教鞭をとっている。
あなたは日本人ですね。日本から来たのですか?それと
ここにはどれくらいの滞在予定なのかな。これからの数ヶ月間は、
ラクイラの一番美しい季節だ。大いに楽しめると思いますよ」
出逢った最初の暗いイメージとは異なるルチアーノの軽快な声に、
真由は胸を躍らせた。パリに住んでいると聞いたときからの
胸の高まりだったけれど、今は青い目の奥には哀しみではなく、
真由と共有できる優しい時間の流れがあったから…。
真由はルチアーノの目を見つめてそっと自分に言った。
“ありがとう、ルチアーノさん。私もパリの住人なのです。
こんな小さな町で昨夜出てきたパリの住人に出会うなんて、
うれしくて…。だってパリは私の昨日までがあるから…。
昨日までの私を置いてきた街なんですもの…”
★第7章に続く★