■第4章■ 約束
■第4章■ 約束
トスカーナの丘の上に建つホテル「ラ・ヴェリタ」の客となった真由は、
パリやローマでは味わえない極上のオリーブオイルの香ばしい香り
に惑わされながら、案内するアンナと共に二階まで階段を上った。
三階建てであったがエレベーターがなかったから、アンナにリュックを
持ってもらい、真由はキャリーバッグを手にしていた。
少々重かったが、何とか階段を上りきろうとしたそのとき、
香りに魅せられたからであろう、不用意にも真由のお腹は
我慢の限界に達し、とうとう空腹を知らせる音を発してしまった。
先に階段から廊下に出ていたアンナに聞こえなかっただろうかと、
真由は盗み見したが、後姿では表情はうかがえなかった。
聞こえていたときのことを考えると真由はひたすら恥ずかしかったが、
今更どうしようもなく、気を取り直して廊下で自分を待つ
アンナの傍らに急いだ。アンナは気づかない振りをして
いるのだろうか、自分に近づいた真由に何気なく言った。
「この先、二つ目の部屋が真由さんのお部屋よ」
そう言って真由のリュックを変わりに背負ったアンナは、
数十歩歩いた後、目の前の部屋の鍵を開けた。
爽やかなベージュ色のドアが印象的なその部屋は、
南側に面した思いもかけず広い部屋だったから、
真由はうれしそうにアンナの顔を見つめると、
笑顔で頷いたアンナが先に部屋に入った。
そして、ドアの前から広がるリビングのカーテンを開けると、
カーテンで仕切られている可愛いキッチンが見えた。
キッチンにはケトルと鍋、フライパン、小さなトースターなどが
揃えられ、脇には冷蔵庫と電子レンジも備えられているのが見えた。
アンナは自慢そうにキッチンを見せた後、その西側の部屋に案内した。
そこはこじんまりとしたベッドルームだった。
可愛い花柄のベッドカバーが愛らしかったから、
真由はアンナの顔に笑顔を送った。
真由の喜ぶ顔がうれしいのだろうか、アンナは今度は笑顔で頷いた。
そして、ベッドルームの東側のバスとトイレ、洗面所が一緒に設備
されたバスルームに案内し、再びドアの前に二人は戻った。
アンナは合鍵を含めた二つの鍵を真由に渡しながら言った。
「ここが今日から一ヶ月間、真由さんのお部屋になります。
後でゆっくりご覧になって不満などあったら遠慮なく言って下さいね。
こちらで対処できることはすぐにしますからね。例えばお湯が出ないとか、
毛布をもっとほしいとか…。何でもよ。お客様のご要望には
極力応えるつもりでいますから。ところで、真由さん、
お腹が空いているでしょう?もし、よろしければお向かいの
お客様と一緒にランチを食べませんか?もちろん、
私もご一緒しますから。そうしましょう!」
真由はアンナの昼食の誘いの言葉で、不用意にも
さっきのお腹が鳴った音を聞かれていたことを知った。
だから、突然の誘いへの戸惑いと
空腹を悟られた恥ずかしさがごちゃ混ぜになり、
アンナの言葉にどう対処していいのか、判らなかった…。
しかし、困惑の中で真由はアンナという人の人柄が
この一言で理解できたような気がし、うれしかった。
一ヶ月間、生活をするこのホテルのオーナーが美しいだけではなく、
温かで親切、そして、もしかして少しばかりお節介な性格の持ち主で
あることが判ったから真由はうれしかったし、これもまた友人の
フィリッポの言った通り、気さくな感じで落ち着けるホテルで
あることが判り、旅先の宿で安堵する自分がいた…。
「ありがとうございます。私にはアンナさんの話がしっかりと
見えていませんが、もしかしてお向かいのお客様の作った
ランチを、私が突然、お部屋にご馳走になりに行くという
ことをお誘いして頂いているのでしょうか?
でも、見ず知らずの私にその方は納得してご馳走して
下さるのでしょうか?例え、もしそうだとしても、
突然ランチに加わる私の分まで料理を用意できるものなのですか?
これは量的な問題ですが、でも、一番大事なことと思えますが…。
でも、もし、それもなるものとするとお向かいの方はどんな
お人なのでしょう…。何が何だか訳が判らなくなりました。
…そうですよね、考えられないことです。ですから、
もしかして、私が想像していることは、アンナさんのお話とは
まるっきり見当違いのことなのですね。恥ずかしい…」
気がつくと、真由の困惑した言葉の中にいたアンナは、
既に部屋を出て真向かいの香りが流れ出ている部屋の
濃い緑色のドアをノックもせずに開けていた。
それを見た真由は慌てて言葉だけを部屋に残し、
アンナの後を追った。お向かいの部屋のドアは、
真由が自分の部屋を飛び出した途端、全開した。
すると、ドアの先にある大きな窓から高原の爽やかな陽光が
真由の顔をめがけて差し込んできた。
それはまるで狙い定めていたスポットライトのように、
黄色に染まった陽光が真由の顔を真正面から照らしたから、
眩しく思わず悲鳴を上げ、手を顔に掲げて光を遮った真由であったが、
でも、すぐに陽光の歓待に胸のときめきを覚えた…。
だから、真由は眩しさを我慢して陽光の中に身を任せた…。
待っていた瞬間だったような気がして、幸せだった…。
そして、トスカーナの丘の上の陽光は温かく優しかった…。
パリからずっと憧れていた光の乱舞だったから…。
真由は目の前に立っている男性の姿も、真由に呼びかけている
アンナの姿も目に入らず、しばらくフィリッポの故郷である
ラクイラの光の中に佇んでいた…。
甘酸っぱい思いに未練を残している自分を真由は知っていたから…。
今日を限りに新しい明日への歓びを見つけようと決していた
真由だったから…。思い切りフィリッポの世界に浸り、
思い切り彼の温かな思いの中で遊んで、そして、パリの
自分と別れようと思っていた…。
だから、思いもかけないフィリッポの故郷の光にパリからの自分を
投影し、振り返らないで静かに佇んでいた…。
そして、真由は光の中で自分にこう約束をしていた。
“明日、パリのフィリッポに感謝の気持ちを綴った手紙を
書こう…。彼とはいつまでも友達でいてほしいから…”
★第5章に続く★