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■第3章■ 真綿雪色

■第3章■ 真綿雪色


質も仕立ても良いグレーのテーラードカラーの

スーツを着こなした真由は、パリからの旅の疲れも

見せずにホテルのフロント前に立っていた。

東洋人のその日の予約は一人であったことで、目の前にいる

客人はすぐさま予約している三枝真由だと判ったアンナは、

チェックインの用意をし、真由のパスポートを預かった。

真由は決して美人ではなかったけれど、清楚な雰囲気の中、

心の奥底から出てくるような控えめな輝きがあった。

その輝きはパリでは常に人目を引いていたが、イタリアに来ても

それは同じで、今も同性のアンナの目を釘付けにするほど、

奥深いものがあった…。


アンナはチェックインの手続きを進めながら、時折、

真由を見つめ、心の中でつぶやいていた。

“なんという清らかな着こなし…。そして、静かさを湛えた憂いの

顔立ちなんでしょう…”

真由は真由でアンナを見て同じようなことを感じていた。

“優雅な声と優しい目…。素敵だわ。こんな人が

お姉さんだったら、どんなにかうれしいのに…”

二人の第一印象はお互いの無言の賛辞から始まった。


そして、真由はフロントの片隅に置かれている小さな

フクロウの置物に目を奪われ始めた。

真っ白な真綿のようなレース糸で編んだ可憐なその置物は、

真由の幸せの象徴とも言えるパヴィアのあの真綿雪と同じ色で

あったから…。ラファエロの作品が青い光に染まったあのパヴィアの

ティチーノ川に重ねて見る真由の人恋しい色が、このレースの

白に重なった時、なぜか真由は奇跡の訪れを予感した。


“少しだけアイボリーが混じっている真綿雪の色…。

パヴィアで見たあの雪のずっと先に降る真綿雪の色のように

とても綺麗で…。そして、とても懐かしい…。

もしかしてこの町で私の奇跡が起こるかもしれない…。

きっと、今までの私でない私が見つけられるかもしれない…。

ファンタスティックなラファエロのあの作品の中の女性のような

そんな私になれないことは知っているけれど、でも、

純粋に人を愛する瞳を持てれば、それだけでうれしい…”


チェックインの手続きを終えたアンナは真由に部屋の鍵を

渡しながら笑顔を作って自己紹介をした。

「いらっしゃいませ。我がホテルにようこそ。私はこのホテルの

オーナーのアンナです。初めまして。あなたは三枝真由さんですね。

ドアの向こうに立つあなたを見て、すぐ真由さんだって判りました。

なぜって?もちろん、今日の予約の日本人はあなたお一人ですから。

でも、不思議なことにお顔を拝見する前、私はドアの外に

立っているあなたの影を見た途端、真由さんだって

判ってしまったのです。実に不思議でした。でも、あなたを間近に見て

すぐなぜだったのか解りました。きっとあなたが放つその素敵な輝きが

私に何かを感じさせたのでしょう。こんな経験はそうそう

ありません。きっとお互いに良いことがありそうな、そんな予感が

します。予感だけではなく、きっと起きるでしょう」


アンナはここまで終始笑顔を絶やさず言った。

話術を心得ているのだろう、社交辞令を交えながら、

これから一ヶ月間の長い滞在を予約している

客の緊張をほぐそうとしていた。

しかし、アンナはいつもと異なり、単なる社交辞令だけで

真由に話しかけていたのではなく、無意識の内に要所要所に

今の自分の思いを入れ込んでいた…。

初めてのことであったから、アンナは自分でも驚きながら、

これからの一ヶ月間に期待している自分を真由の背中に垣間見ていた。

真由とて初対面の気まずさはなく、気に入るところを見つけた

相手であったから、これから始まるラクイラでの生活を

幸せな気持ちで迎えようとしていた。


アンナはフロントからロビーに出て真由にソファに座るように勧めた。

そして、奥から今淹れたばかりだからと言って二つのカフェを

運んできた。自分用のものだろう、受け皿のないカップに

ナプキンを添えてソファに座る真由の膝に置いた。そのとき、

アンナの手に結婚指輪の跡が残っていることに真由は気がついた。

真新しい指輪の跡のような気がし、思わず目を逸らすと、

アンナも真由の視線に気がつき、少しだけ笑って左手を隠した。

そして、何気なさを装って口を開いた。


「今日はローマからでしたね。でも、その前はパリからでしょう?

予約はパリからでしたものね。きっとお疲れでしょう。

今夜はゆっくりお休みくださいね。それと

真由さんは今日から一ヶ月間の予約が入っていますが、

それでよろしいのですね?

予約の変更は極力早い目に知らせて頂ければうれしく思います。

なにせ八室という小さなホテルですし、常連さんが空き待ちの場合も

ありますので。朝食はこの奥にありますカフェで。

夕食は付きませんが、お部屋の片隅にキッチンがありますから、

簡単な料理はそこで作ることができます。一ヶ月間は長逗留です。

町の市場で材料を仕入れて時には手作りの味を楽しんではいかがですか?

…少しお喋りが過ぎましたね。お部屋に案内いたしましょうね」


爽やかでにこやかな声の世界に真由を招き入れていたアンナは、

話術の世界から真由を解放し、フロントから出て客人のスーツケースを

手にした。そして、フロントの後方にある階段を先に上がった。

細く曲がりくねった階段であったが、毎日の掃除を怠らないのであろう、

黒光りする手摺には清潔感が漂っていた。

真由は数段上がった階段の途中で、自分の行く手にオリーブオイルの

芳醇な香りが漂っているのに気が付いた。

そして、その香りに誘われるように空腹を覚えた真由は、

無意識に腕時計を見ていた。

時計の針は後二分ほどで正午を指そうとしている。


腹時計の正確さと自分の空腹に合わせるように階段の上から

漂ってくる香りに苦笑しながらも、真由は家庭的な温かい空間に

包まれた今を楽しんでいた…。

階段の途中には静かで心地よい午後の光が差し込んでいたし、

それは哀しげにも見えるあまりにも優しい光だったから…。

光の中に足を止めた真由は、ラクイラという町に一目惚れを

したように胸のときめきを覚えていた…。うれしかった…。

そして、うれしさのあまり、こぼれるような笑顔になった真由は、

パリにいるフィリッポに感謝しながら、

彼の故郷の心地良さに包まれて、再び階段を上った。


★第4章に続く★

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