■第26章■ 二人だけの思い
■第26章■ 二人だけの思い
話し終えた真由は、気がつくとクリスの胸の中で泣いていた。
しかし、それは哀しみの世界から解放されたくて胸に顔を
埋めているのではなく、クリスと共有する甘く切ない
思いの中にいる自分であることを知りつつ、
真由は一時クリスの優しさの中に逃げ込んでいた…。
いけないと思いながらも、二人はその場から逃げることができずに、
困惑したまま時間の流れに身を任そうとしていた…。
しかし、その間もなくドアをノックする音で、二人は現実に戻った…。
真由はクリスの顔を見上げた。彼は少しバツが悪そうにしながら言った。
「多分、ルイジだと思う。食事に行こうと誘いに来たと思うよ。
真由はゆっくり降りてくればいい。僕が先に出るからね」
そう言い置いてクリスは部屋の外に出た。瞬間だけであっても
真由と甘い時間を共有した恥ずかしさから逃れるようにして、
クリスは部屋を出て行った。
部屋をノックしたのは、ホテルの従業員であり、クリスの予測どおり、
その従業員は七時に食事に出かけようというルイジの誘い
を携えて来たことを、階下に降りたとき真由は知った。
真由と合流した三人はホテルから歩いて五分ほどの雰囲気にあふれた
小さなトラットリアに入った。店内は清潔感にあふれ、高級感も漂う
素敵なインテリアに包まれていた。真由はクリスの話から想像した
レストランとは異なったことで、思わず身を構えると
「真由、ここは私の息子の店だ。そんな固くならないでいいから。
奥の私専用のテーブルに座ろう。そこで好きなものを注文してください。
今夜は十日間も宿泊してくれる真由の歓迎会だから、主役は君だ。
クリスと私はそのお相伴に預かるだけだからね。遠慮は無用だよ」
その晩、真由はルイジの招待でトラットリア自慢の魚介類のパスタはじめ、
スズキのグリル、手長海老のフリッターなどローマ自慢の料理に
舌鼓を打った。思いもかけない招待に歓びを隠せない真由だったから、
ルイジにはもちろん、ルイジを紹介してくれたクリスにも心より感謝した。
「ルイジさん、そして、クリスにも心からお礼を…。ありがとう。
ローマに戻ってきて本当に良かったと思っています…。
…迷惑をかけついでにひとつお願いをしてもいいですか?」
真由はさっきから考えていたことを二人に相談をしようと決心した。
それはフィリッポが今どこにいるのか、見当がついたから…。
そして、どの道、近い将来、パリを離れるつもりがあったから。
「十日後にはパリに戻りますが、その後、一ヵ月後にはパリを
引き払ってイタリアに居を構えようと計画しています。
そして、ローマで仕事をしたいと思っているのですが、
ローマに滞在する間に、私の勤め口を模索しておこうと思います。
さっき思いついたことなので、自分でも急で何をどう考え、どう整理
していいのか判らないですが…。折角のローマ滞在なので無駄にしたくなくて…。
それとクリスはもちろん、親切なルイジさんともお知り合いになれました。
そのチャンスを逃したくないと思いましたので、図々しくお願いして
しまいました…。ローマには他に頼れる人もいませんし、
信用できる方も他には…。もし、ご協力頂ければうれしいのですが…」
ワインで顔を赤らめたルイジは、真由の顔を見つめた。
そして、クリスと真由のワイングラスにワインを継ぎ足してから
口を開いた。
「まず、ルイジさんは止めよう。ルイジでいい。もう親しい友人だろう?
それとそう簡単に人を信用しちゃいけないね。私とはまだ数時間しか
話をしていないし、共に時間を共有しちゃいない。そうだろう?
とは言っても長い付き合いのクリスの紹介だからってこともあって
私を信用してくれたとは思うがね。さて、苦言はこのくらいにして、
仕事を探すにしても真由には何が出来るかを聞いておかないと、
探せない。叶わないほど大きな希望でもいい。自分の夢でもいいから、
自分の生きる道にしたいと思うことを遠慮なく言いなさい。
これとこれなんて決められた世界を言われて探すよりも、
幅があって探し易いからね。ただ、今夜はもう頭は休んでいるから、
明日にでもまたクリスと落ち合って話し合おう」
ルイジはそう言って先に店を出て行った。
真由とクリスもルイジの後を追うようにして店を出たが、
トラステベレの春の夜があまりにも幻想的な風の中にあったから、
真由はテベレ川の河畔の散策をクリスにねだった。
風の中で物思いにふけっていたクリスは、真由のリクエストに頷いた。
そして、真由の手をしっかりと握り締めて歩き出した。
クリスも真由も今夜だけでいい、二人だけの思いの中に
生きたいと願っていたから…。
だから、二人は肩を寄せ合って河畔を歩き始めた。
二人に間には何も始まらないことを知っていたけれど…。
寂しい束の間の恋であっても、今を大切にしたかったから…。
さっきの甘い世界を少しだけ引きずって、ラファエロのマドンナが住んだ
トラステベレの町を歩き出した…。
★第27章に続く★