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■第2章■ 歓びに触れて

■第2章■ 歓びに触れて


イタリアに来て二日目の朝、真由はラクイラに向かうため、

ローマのホテルを出た。温暖化と叫ばれているにもかかわらず、

四月上旬のローマはまだ肌寒く、パリと変わらない気温の中にあった。

まだ春の遠いパリからの真由は、冬のコートを着用していたが、

早朝ということもあって、寒風が入り込む胸元を押さえながら

テルミニ駅の地下鉄乗り場に急いだ。

急ぐ理由は、一時間に一本出ているラクイラ行きのバスに

乗るために、最短距離の地下鉄を利用してティブリティーナ駅に

ゆく必要があったから。そして、ティブリティーナ駅とラクイラを

連絡する八時台のバスを利用するには、七時前には地下鉄に

乗り込んでいなければ間に合わなかったから、

真由は急いで地下鉄乗り場に向かって歩いた。


今回は少しだけ長い滞在期間を予定していたから、

キャリーバッグ以外に、背中に背負ったリュックが一つ

余分の真由は、重いのを無理して急ぎ足で歩いたために、

地下鉄のホームに出たときには、隣に立っていた中年の女性の

笑いを誘うほど呼吸を乱していた。

しかし、その呼吸を整える間もなく列車がホームに滑り込んで

きたために、笑い誘った女性の手を借りて、肩で息をする真由は、

辛うじて、そして、何とか車中に入った。

彼女の手助けがなかったら、多分、一列車遅らせることになった

だろうと思いながら、次の駅で降りた女性に頭を下げた。

こうして真由は、時を無駄にせずに初日の移動の出足は

順調に滑り出したと思いきや、事はそう簡単には進まなかった。


ラクイラ行きのバスは、毎時刻五分ごろと聞いていたことで、

テルミニ駅からティブリティーナ駅までの所要時間を逆算して、

ホテルを出た真由であったが、ティブリティーナ駅に着いたのが、

なんと八時十五分過ぎであった。荷物が重かった分、想定外に

余分な時間を取られたのだろうか、結局、予定していた

八時台のバスの利用はできずに、一時間遅れの九時五分発の

ラクイラ行きのバスに乗る羽目になった。

当初はローマから列車でテルニまで出て、そこから

アンコーナ行きに乗り換えて目的地に入ろうと計画していたが、

昨夜、なぜか急に友人のフィリッポの言葉を思い出し、

遠回りするアンコーナな経由を止めて、バスの利用を決めたのであったが、

僅かな遅延で八時台のバスを逃したことで、バスを選んだことに対して、

少しの後悔をしながらもてあます時間の中で、彼の言葉を思い返していた。


「ローマからラクイラまで列車を利用する旅行者が多いけれど、

イタリア人は所要時間の短さと料金の安さ、そして、便の良さを誇る

バスを利用するんだ。料金もかなり差があるし、所要時間も列車は乗換えが

上手くいって三時間くらい。上手くゆかなければ四時間から六時間もかかる

ときもある。しかし、バスは車の渋滞に巻き込まれてもせいぜい二時間半。

通常は一時間四十分だし、なによりも一時間に一本という便の多さがいい」

フィリッポはそう言ったけれど、「真由もそうしたらどうだい?」とは

言わなかったし、いつも相手の意思を重んじるフィリッポらしい

言い方であったが、真由には“その方がいい。時間と経費の節約になるからね”

そう付け足したように聞こえていたから…。

だから、昨夜、ベッドの中で思い出したその瞬間、

バスの利用を躊躇なく選んだつもりだった。


窓口でラクイラまでの片道の切符と隣接してある売店で、

コルネット(菓子パン)と缶コーヒーを買った真由は、

バスターミナルにある広い待合室に入った。

一時間ほどの待ち時間をどう潰そうかと思いながら、

熱い缶コーヒーを口にした真由は、あまりの熱さに思わず

口から飲み込む前のコーヒーを噴き出した。

少量であったことと周囲には人がいなかったから、

迷惑を掛けずに済んだが、ハンカチを出して口を拭きながら、

再びフィリッポのことを思い出していた。


「…真由は俺を必要としていないのかもな。解ってはいたけれど、

でも、こんなにいい男なのに。真由には見る目がないんじゃないの?」

数日前、冗談を交えてそう言って自分の前から姿を消したフィリッポは、

真由の大学の同級生であり、親友であり…。そして、恋人候補の

一人でもあったけれど、真由はまだ彼を受け入れる気持ちには

なれないまま、今があった。でも、彼のぬくもりは知っていたし、

彼と過ごす時間にはいつも温かな故郷の香りがあるから…。

だから真由は寂しいときには常にフィリッポと過ごした時間を

振り返っていたし、彼の残した言葉に思い切り甘えもしていた…。

もちろん、彼はそんな真由を知りはしない。


車の渋滞に巻き込まれたが、九時のバスを利用した真由は、

フィリッポの言う通り、約二時間後にラクイラの駅前に着いた。

初めて訪れる町や村の第一歩は、常に未だ見ぬ世界に期待感と少しの怖さを

感じる真由であったが、この町には特別な思い入れがあったから、

目の前に建つ小さな駅舎や遠くにそびえ立つ城塞を目の辺りにしてすぐ、

胸に熱いものが込み上げてきた…。

それは町がラクイラがパリでちゃんとした話し合いをもたずに

喧嘩別れをしたフィリッポ・ドニーニの故郷であったから…。


地図を片手に駅前から東に向かって歩き出した真由は、

フィリッポがパリでお茶を飲みながら自分の故郷の道案内を

してくれたのを思い出し、彼の言葉を反芻しながら真由は歩いた。

そして、最初の目印である九十九の噴水を右手に見た後、

やはりフィリッポの言葉どおり北方向に進むと

町の目抜き通りのひとつであるフォンテセッコ通りに出た。

真通りを抜けながら、観光案内所でもらった地図を見ずに、

フィリッポのナビだけで歩いている自分に気がついた真由は、

通りの北端に建つサン・シルヴェストロ教会が前に入ると、

苦笑しながら地図をバッグに収め、ネットで予約した

フィリッポお勧めのホテルを探した。

ホテルは教会の西隣に建っているはずであった。


周辺を見回すまでもなく、真由はシンプルなファサードを持つ

サン・シルヴェストロ教会を横にして建つ客室が八室という

プチホテルのラ・ヴェリタ(真実)“La Verita”をすぐに見つけた。

ホテルの入り口に立った真由は、ネットで見た外観よりも清楚で趣きある

佇まいだったから、これからの一ヶ月間をこんな素敵なホテルで

過ごすのかと思った途端、うれしく胸の高まりを覚えていた。

うれしかったし、これからの日々が楽しく過ごせそうな予感すらあったから、

感情の高まりを押さえられず、そのままホテルのドアを開けた。

多分、顔全体が喜びに満ち溢れていたのだろう、五㍍ほど前のフロントに

立っている女性の注視を受けた真由は、恥ずかしさで思わず下を向いてしまった。

女性は電話の受話器を耳にしていたが、あどけない歓びに包まれた真由に驚きながら、

その楽しい笑みのお裾分けをもらって自分もうれしくなったと言いながら、

下を向く真由に優しい笑みを送ってどうぞ、と目で手招いた。


女性の周囲には静かな空間が広がっている…。真由の居場所を空けて

くれたかのように、ごく当たり前の顔をして空間が広がっていた…。

フィリッポと一緒にいるときのようにここには既に

自分の居場所があったから、真由はこのときほどフィリッポを

懐かしく思ったことはなかった…。そして、

まだ何も始まっていない自分探しのラクイラ訪問の旅は、

真由の目から鱗のようなうれしい衝撃で幕を閉じていた…。

だから真由は思った。素直に思っていた。


“この町から帰ったらフィリッポにすぐ会おう。会ってフィリッポに

ちゃんと別れを告げよう…。この歓びも伝えたい。そして、

もし許されるなら彼と再びこの町を訪れたい。

二人の新しい門出のために…”


★第3章に続く★

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