■第17章■ 視線の中で
■第17章■ 視線の中で
フィリッポとの喧嘩別れは真由の心を荒んだものにしていたが、
しかし、フィリッポの故郷のラクイラにやってきてからの真由は、
素直に彼の幸せを祈る毎日があった。
それはアンナとの毎日の生活から人に気遣う優しさを少しだけ
学び取っていたこととパリで別れてから、既に一ヶ月以上の
時間の流れがあったことも、真由の気持ちを
落ち着けてくれたのかもしれなかった。
ラクイラに来て一週間が経過した四月初め、真由はいつものように
アンナが用意してくれる朝食のために階下のバールに降りて行った。
ラクイラに来て最初の朝食をバールでご馳走になって以来、
お互いの了解の元でホテル代金を朝食込みに変更したからである。
どの道、アンナも早朝からカフェやコルネットを他のホテル客や
常連客のために用意するのだから、真由の一人分くらいはと
思って申し出を快く引き受けたが、引き受けた理由は
それだけではなかった。
最初から真由に因縁のような親しみを感じていたアンナだったから、
自分のホテルに逗留するこの一ヶ月間の真由を見守りたかった
からであり、毎朝顔を見て真由の心身の健康状態を知って
おきたかったこともあった。アンナは真由に対する気持ちが、
自分の妹に対する思いに似ていることに気づいていたから、
自分の納得できる手段を選んでいたのかもしれなかった。
そして、ルチアーノとの交流も気になって仕方のないアンナだったから。
ラクイラの一週間目の今朝の真由は、朝食をとりながら、
この町の買い物にも慣れたことをアンナに報告した。
「昨日は細い石畳の階段を上り下りしながら、町角にある小さな祠を
巡り歩いていたら、いつのまにか大聖堂近くまで歩いてしまったの。
ここまで無事戻れるかどうか少しだけ心配だった…。
でもね、アンナ、地図もなしに自由に町の中を一時間近くも歩いたのよ。
この町の人間になれたような気がしてとってもうれしかった…。
町の人たちと時間を共有している実感があったの。
だから異邦人のような気がしなくなって…。幸せだった…。
それに加えて品物がいっぱい並んだメルカートも見つけたし、
収穫いっぱいの散策だった」
すっかり町の雰囲気に慣れ親しんでいる真由を見たアンナは、
思い切ってルチアーノとのその後を聞きたいと思った。
友人が風邪を引いたからといって、あの雪の日の
ランチの約束を果たさず、消えてしまったから…。
だからカフェを飲み終えるまで待ったアンナは、
それこそ友人の庭で獲れた小さなりんごを真由に渡しながら口を開いた。
「真由はルチアーノが今どこにいるのか知っている?
もう一週間かな行方不明なの。といってもいつもあることだ
から心配はしていないけれど。それに大人だしね…。でも、一週間は
ちょっと長すぎるから気になって」
真由は目を丸くしてアンナを見つめていた。驚いているようだった。
アンナはそんな真由に問いかけた。
「真由は彼の居場所を知っているのね?」
真由はりんごを手したまま立ち上がり、踊るように軽快なステップで
ドアの前まで行った。そして、アンナを振り返って言った。
「もう少ししたらきっとここに来るわ。カフェを飲みに。だって
彼は昨夜は二階の自分の部屋で過ごしていたのよ。その前の日も
夕刻には帰っていたのに、アンナは気が付かなかったのね。
彼は行方不明でも失踪者でもないわ。毎日は無理みたいだけれど、
教会のラファエロの作品をいつも一緒に見に行く約束をしているから、
私の前から黙って消えるわけがないもの」
そう言いながら真由は最初に出会ったあの日と同じように空に手を
かざしながら踊っていた。ただ、あの日と異なるのは、手にりんごを
持っていることと明るい顔色にうれしそうな笑みを浮かべていることだった。
そして、真由はルチアーノがパリで美術の講師をしていることを
知ったことや自分と同じラファエロの信奉者であったこと。
そして、画家の研究者であったことで、
真由がパリの大学で受けた美術の授業に使われた美術書の
ラファエロに関してのコラムを彼が書いていたことなど、
この二日間の夜にお互いのことを話し合ったと楽しそうにアンナに話した。
アンナは真由のその幸せそうな表情を見て、
心配の種がますます大きくなってゆくのを感じていた。
うれしいときに踊る真由のその愛らしい動きが哀れにも見えて、
思わず外に吹く風の音の中に目を逸らしていた…。
風の音はアンナの気持ち乗せたままルチアーノの部屋の
窓辺に身を隠すようにして消えて行った…。
ルチアーノに見つからないように…。
真由の幸せな視線に追いつけないように、消えて行った…。
★第18章に続く★