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■第16章■ フィリッポの道

■第16章■ フィリッポの道


早朝からパンを焼いていたフィリッポは、焼き上がるのを待って

店に並ぶ常連客にパンを販売し、昼前の十一時過ぎ、

午前中の仕事を終える。そして、数時間の休憩時間を経た後、

明日のパンのために午後四時過ぎ仕込みを始める。

もちろん、その間、店の営業は続くがフィリッポは重要な仕込が

終わる夜の七時までは作業所からは出ることはなかった。

サラリーマンのように朝八時から午後五時までという規則正しい

時間内で仕事を終えないのが悩みであったが、

フィリッポはそれ以上にパリのパンに魅力を感じていたから、

イタリアからこの街に来て六年という時の経過も瞬時に感じていた。

そして、後数年はパリのパン焼きを学びたいと願っていたから、

生活が安定するまで愛している真由へのプロポーズは棚上げにしていた。


心底パンが好きでパン造りに夢を賭けるフィリッポの生きる姿勢に

いつも感激している真由だったけれど、なかでも

いずれ故郷のラクイラに戻り、イタリア一のパン屋に

なるんだと、冗談とも思えない大きな夢を語るときのフィリッポの

横顔が大好きだった。

まるで少年のように興奮し、顔を赤らめながら夢のパン屋を語り、

そのついでにラクイラという町を言葉で散策するフィリッポが

真由は大好きだったから、シテ島のこのカフェテラスで会うときには、

真由はいつだってフィリッポと同じように興奮しながら、

必ずといっていいほど、約束の時間に遅れてくる彼を待っていた。

その日のパンの出来具合で約束の時間に間に合わないことを

真由は知っていたから、遅れてきても笑顔で迎えた…。


そして、パンの出来の良い日は必ず真由に手土産を持って来るのも、

二人の暗黙の内の約束事になっていた。

真由がイザベラの気持ちを伝えようと待っていたその日も、

フィリッポは約束の時間に遅れることなく手土産を手にし、

真由の座るカフェテラスに駆けつけた。

ご機嫌はすこぶる良く、テーブルに座る前に真由の頭を撫でた。

真由も頭を後ろに跳ね返しながらフィリッポンの顔を逆さに

見つめ、お互いの唇をそっと合わせた…。

それは親しい友人として、そして、まるで兄妹のような仲の良さを

周囲にアピールしているかのようであった。


椅子に座って真由に袋に入ったまだ温かなクロワッサンを渡した

フィリッポは、真由の前にあった飲みかけのカフェオレを一口

口すると真由の手を取って言った。

「こんなに手が冷たい。テラスで待たなくてもいいからって、

何度も言ってあるのに。でも、真由は本当に外が好きなんだね」

そう言って優しく笑った。真由はこんな風に自分を包むようにして

笑うフィリッポが大好きだったから、思わず甘えて

「だって中に入ったら河畔を走ってくるフィリッポを見つけられないもの」


取り留めのない話の中で、真由は思っていた。

“ご機嫌で幸せな今がイザベラの気持ちを伝える恰好の時”

そう思っていた。そして、そのときがやってきた。

「そういえば話があるって言っていたよね?飯を食う前に聞こうか?」

真由は頷いた。フィリッポの顔をしっかりと見て頷いた。

でも、そう決心したとき、真由はふと寂しさを覚えていた…。

このカフェテラスでイザベラとフィリッポが一緒に座っている

姿を想像しながら、一抹の寂しさの中にいた…。

でも、真由はこの話はフィリッポにとって素敵な未来を

約束してくれるものであることを疑わなかったから、勇気を持って

一週間前にイザベラが言った言葉をそのまま伝えた…。


でも、思いもかけず話の途中からフィリッポの顔が少しずつ

歪んできた…。真由はその変化を見逃しはしなかったけれど、

最後まで平静さを装って伝えた。

そして、最後に自分の言葉も勇気を出して添えた。

形相が変わってゆくフィリッポが痛々しく怖くもあったけれど、

でも、彼のことを考えて、真由は懸命に伝えた…。


「…イザベラの気持ちは私も驚いたけれど、でも、フィリッポには

お似合いだと思う…。フィリッポの夢を叶えてくれる最高の相手だとも

思うから…。もし、イザベラを少しでも好きなら考えてみて…。

彼女との未来を少しでも想像できるなら、このチャンスを逃さないで…。

フィリッポの今を大切にして…。今があるからイザベラとの明日が

開けると思うから…。そして、これだけは忘れないで。

私はあなたが大好き…。パンの世界に生きるフィリッポがとても好き…」


フィリッポは真由を置いて、真由の手の中にあったクロワッサンもむしりとって、

カフェテラスから走り去った…。声のない悲痛な叫びを残して、

走り去った…。


“真由は僕を愛していないのか?僕を待っていてくれるとばかり思って

いたのに…。僕は真由を愛しているんだ!だからイザベラを愛の対象に

考えることは不可能だし、そんなことは真由が一番良く知っているはずだと

思っていたのに…。今までの僕たちは何だったの?男と女の世界で愛を

育んでいたのではなかったのか?もういい…。もういい…”


真由はその日からフィリッポと会うことはなく三月末、

パリを後にしてラクイラに旅立って行った…。

イザベラからは毎日同じ内容のメールが入っていた…。


「フィリッポは今日も黙々と働いています。以前よりもパン工房に

入っている時間が長くなっているのが気になりますが、でも、

以前と変わらず優しいまなざしで私を見つめてくれます。

私たちの気持ちが寄り添うようになるまでには、もう少しだけ

時間が必要かもしれませんが、その日まで私はフィリッポの傍で

静かに待ちます。真由、ありがとう」


★第17章に続く★

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