■第15章■ イザベラの伝言
■第15章■ イザベラの伝言
ルチアーノのランチに招かれていた二人は、バールを閉めて
お互いの部屋に一旦、戻ることにした。
真由は部屋の窓を開けて雪の積もった町並みを眺めながら、アンナが別れ際に
自前の白ワインを持って行くと言っていたことを思い出した。
自分には手持ちのワインもデザートになるようなスイーツもない…。
だからといって手ぶらで行くにも気が引ける…。そんなことを
考えながら窓の下を何気なく眺めていた真由だったが、
何もないから何も持たずに行こうと決めたそのとき、初めて
アンナの気遣いに気が付いた。
アンナは階段を上がる真由の背中に向かって、
「以前、ルチアーノからもらったボルドー産の白ワインを持ってゆくの。
もらったものを返すだけなのよ」
と付け加えた。それはルチアーノへの気遣いと思っていたが、
そうではなく真由に対しての気遣いであることに気が付いた。
手土産にしたワインは彼からもらったもの。それを三人で分かち合う。
ただそれだけだから、何も気にすることはないのよ。
そう付け加えたかったであろうアンナの気持ちが計り知れた。
他人を思いやるアンナの優しい心遣いに頭が下がった…。
だから、逆に真由の感謝の気持ちを精一杯表したくなり、
固くなっていたが、フランスのワインに似合うパリから持参した
お気に入りのフランスパンを持って行こうと決めた。
しかもこのパンは単なるフランスパンではなかったから。
パリのカルチェラタンで八十年の歴史を誇る老舗パン屋のものだったし、
そこで修行するフィリッポの自信作だったから…。
だからアンナにもルチアーノにも自慢したくなって、真由は決めた。
その勢いで真由はフィリッポにメールを送ろうと思った。
パリを離れて二日目であったけれど…。
パリで喧嘩別れのような別れ方をしてきたフィリッポとは、
お互いにまだ時間が必要だと考えていたけれど、
でも、彼の焼いた香ばしいパンを口にしたら、
きっと涙がこぼれて仕方ないと判っていたから…。
パソコンを開き、昨日、までの諍いを今日、
終わりにしなければいけないと自分に言い聞かせた。
“お嬢さん、外は凍るほどの寒さです。今出てはいけません。
身体も心も凍り付いてしまいますから…。先を急ぐとろくなことが
起こりませんしね。哀しみや後悔を作るのはすべて先を急ぐことが
原因なのです。それに私と違ってあなたには明日という日がずっと
先まであるんですよ。今を逃しても明日があります。ですから、
明日のために今を大切に生きなければいけない…。先を急いでは
いけません”
さっきのジーナと自らを呼んでいた老女の言葉を胸にして、
真由は決して先を急ぐのではなく、今の自分の思いを大切に
したいから…。今の気持ちを素直にフィリッポに伝えたいから…。
真由はキーボードを叩き始めた。
「お元気ですか?今私はあなたの大好きなラクイラにいます。
あなたの故郷に…。でも、今朝からの大雪でまだ町の散策には
出かけていません。古代から中世に栄えた城壁の町も九十九の城も
九十九の地区、九十九の教会、九十九の広場も…。
まだ何も見ていません…。でも、見ていなくてもあなたのガイドの言葉が
幾重にも思い出され、私の目にはこの町の景観のすべてが目に浮かぶのです。
まるで見てきたように鮮明に浮かぶのです。不思議です…。そして、
あなたの故郷は本当に素敵です…。真っ白に覆われた幻想的な
町並みを見つめながら、私は訪れて良かったとしみじみ思っています。
だから、私は今日から新しい自分をここで育ててゆきたいと
思ったのです。といってもパリでの私も私です…。フィリッポと遊び学んだ
パリも今の私です。でも、今日からの私はこの町にいます。
今日から明日に賭ける私はここにいたいのです…。
そして、とても楽しいパリをありがとう…。今私は幸せです。
ありがとう、フィリッポ。あなたの故郷から」
真由はパリでフィリッポの女性友達であるイザベラの告白を思い出しながら、
メールを書き終わり送信ボタンをクリックした。
パリでの出来事が皮肉にもフィリッポの故郷で終結をみたことが
少しだけ気になったが、でも、真由は今日からの自分に期待して
フィリッポへの別れとなったイザベラの言葉を思い浮かべた。
“真由、あなたはフィリッポとは友人以上のお付き合いを
しているの?もしかして恋人同士?彼は真由を好きだって言って
いるけれど、あなたは彼ほどの気持ちではないように見えるの。
どうしてこんなことを聞くのか気になると思うから、先にその理由を言うわね。
お察しの通り私は彼が大好きなの。愛していると思う…。
家族も彼をとても素晴らしい人だって…。
パン職人としても一人の若い男性としても。だから、家族は私との
結婚を望んでいる…。今時家のためになんて、
馬鹿げたことと思わないで。彼のためにも
この結婚は決してマイナスにはならないと思うから…。
だから私は真由に勇気を出して彼への気持ちを聞いたのよ”
真由の驚きは大きかった。フィリッポを異性として意識したことは
あまりなかったけれど、でも、親友以上の感情はお互いに持って
いたから…。増してや自分の大学の同級生であるイザベラが…。
真由は今まで仲間として行動を共にしていた友人のイザベラが
フィリッポを愛している、その事実を知ったことの方が、
ショックが大きかった…。
それと自分の夢を叶えようとパン職人として修行を積んでいた
パリの老舗であり名門ショップの跡継ぎに望まれたフィリッポを
知ったときには、今度は歓びも含めた大きな驚きに包まれた…。
イザベラの言う通り、フィリッポにとって決して悪い話ではなく、
老舗の跡継ぎという天から降ってきたような大きなプレゼントを
手にすることができる…。
もし、フィリッポがイザベラに対して悪い印象を持っていなければの
話であったが…。
真由は一週間ほど思案した後、フィリッポにイザベラからの
ラブコールを伝えた…。
シテ島のセーヌ河畔にあるいつもの待ち合わせのカフェテラスで。
フィリッポの誕生日を明日に控えていた三月半ばのことだった…。
★第16章に続く★