■第12章■ 幸せ色に
■第12章■ 幸せ色に
ようやくラファエロの作品と対面できた真由は、
「マリアのエリザベツ訪問」を前にしながら思った。
“マリアの懐妊だけではなく、エリザベツも後に聖ヨハネになる
子供を身篭っている…。二人の神々しい歓びを表したこの作品は、
従姉妹同士の温かな交流と家族としての優しい愛情を描いた作品
としてラファエロの代表作の一つに数えられているのに、
私は作品の片隅にある作者の寂寥とした思いが見えるの…。
もしかしてそれはローマのトラステベレのマドンナへの
愛惜がこの作品の片隅に表現されてしまったのかもしれない…”
真由は礼拝堂の中でラファエロへの思いを感じたことで、
少しだけ辛い思いをしたまま、後ろで見守るようにして
自分を待っているルチアーノを振り返った。
そして、振り返りながら、ラファエロの作品に別れを告げた。
“マリア様のように一人の人を愛し、愛する人の子供を身篭った
その大きな幸せを共に感じたい…。だから、また明日…”
こうしてラクイラの真由の思い出の一ページが開かれた。
真由はこの日からラファエロのマドンナへの思いを絡ませた
自分の気持ちを大切にし、生涯、忘れることのない
想い出の日々をこの町で過ごすことになった…。
教会にいる間に雪が激しく降ったことで、
例えスニーカーでも積雪で足元が危ないことを知った二人は、
教会を出た後、どちらともなくマリアの待つバールに
吸い込まれるようにして戻って行った。
今朝の二人の様子からお互いに惹かれ合っていることを承知して
いたのであろうか、手を取り合って入っていったにも関わらず、
マリアは雪を肩にして寄り添って入ってきた二人に驚く様子はなかった。
店内に見知らぬ客がいたことで、昨日のように自信無げに
後ずさりを始めた真由に、マリアは静かに笑った。
そして、奥のカウンターに座るように目で促した。
「すごい雪だったわね。音を立てて降る雪って私は初めて。よっぽど
雨脚ではなく雪脚が大きかったのね。でも、真由の好きな真綿雪だった…。
今までこの地に降ったことのない真綿雪だった…。不思議よね…」
そう言ったアンナは自慢のカフェを真由とルチアーノに振舞った。
身体が温まった真由は、部屋に戻ることを二人に告げた。
そして、今朝の散歩で歩いた坂道の途中で見かけた
小さなメルカート(市場)が雪が降り続く今でも開いているか
否かをアンナに尋ねた。アンナは首をかしげながら前にいた
客の顔を見つめると、さっきまでアンナと親しげに話していた
初老の男性がアンナに代わって真由に答えた。
「東側のあの階段の途中のメルカートだろう?多分、十一時まで
開いているよ思う。この町の冬はいつだってこの通り、突然雪が
舞うからね。その度に店を閉めていたら生活費を稼ぐ者としても
台所の賄を任せられている買い物客にとっても大変なことになる。
だから、日曜日と祝日以外、よほどのことがない限り開いている。
ただ、その格好での外出は駄目だ。この町の石畳の階段は急だから、
一旦踏み外したらどこまでも転げ落ちて行くから気をつけたほうが
いい。滑らない靴を穿いて出かけるんだよ。いいね」
アンナにルディと呼ばれていたその客は、真由に笑顔を向けたまま、
じゃ、と言ってバールを出て行った。
ルディにお礼のお辞儀をして見送った真由は、
ルチアーノとアンナにうれしそうにして言った。
「お二人に昨日のランチと今朝の朝食をご馳走になったお返しを
したいと思っているの。メニューはこれからメルカートに行って
材料を見定めてから決めますが、一応、お寿司を作ろうかなって
思っています。食材がどこまで揃うか判りませんが…。
お二人ともお寿司はお嫌いですか?」
二人は目を見合わせながら手を叩いて喜んでくれたが、
「真由、この雪の中の買い物は危険すぎる。明日にしよう。
予報によれば夕刻には雪がやむらしいから。今日はランチも
ディナーも私が作る。材料はたっぷりあるの。だから…」
そこまで甘えていいものか真由は戸惑っていた。
親しくなった相手ではあるが、アンナはホテルの経営者であり、
このバールの主人でもある、商売道具のひとつであろう食事を
ただで食べさせてもらうわけにはゆかない…。
戸惑いの中でそう結論付けた真由は、頷いたルチアーノにも
言っておこうと思い、襟を正した。
「ありがとう。ご好意はとってもうれしい…。でも、それでは
私が辛すぎます…。そこまでお世話になるわけにゆきません。
ですからひとつ提案があります。聞いてくださいますか?」
アンナもルチアーノもどうぞと真由の話を急かせた。
「私はこの先、一ヶ月間このホテルにお世話になる予定です。
その間、朝と夜の食事付きというのはどうでしょうか?
一日二度の食事付きというのは…。そうしていただけると私は
大変うれしく…。というより好都合なのですが…」
アンナは一瞬考える風に顔に手を当て真由を見つめた。
しかし、ルチアーノはさっきと同じように手を叩いてアンナに言った。
「アンナ、いいじゃないか。とっても素敵なアイディアだと思う。
だってアンナは一人ぽっちだろう?いつも食事も一人で済ませて
いたんだろう?だから僕を良く誘った。一人じゃ味気なかったと思う。
こんな若い真由が一緒だったら楽しいと思うよ。僕もその案に参加
させてもらいたいくらいだ」
結局、ルチアーノの助言でアンナは真由の提案を呑んだ。
ルチアーノはそれを機に部屋に戻ろうとすると
「この提案は今日から始めるから、賛成したルチアーノも
ディナーに付き合って。その代わり、ランチはまたあなたの
部屋で。どうかな?どうせ雪の降る日はあなたは一日中部屋に
篭っているでしょう?これからお互い様でやってゆこうね。
真由のおかげでなんだかとても楽しくなってしまったわ。
ルチアーノも真由もありがとう。とてっもうれしい…」
アンナは寂しかったのだと真由は思った…。ルチアーノは
それを知っていたから、自分の提案を手を叩いて喜んでくれた…。
彼の優しさと人に対する誠実な気持ちに真由は胸を熱くしながら、
バールを出てゆくルチアーノを見送った。
そして、ランチを再び彼の部屋でとる楽しみを思いながら、
アンナが少し話をしたいから、というアンナの誘いで真由は
再びバールのカウンターに座った。
ルチアーノの残した言葉の余韻の中で、真由は今始まったばかりの
ラクイラでの生活がバラ色に輝き始めようとしていることを知った…。
そして、幸せ色に染まった彼との世界が前の前に広がる様を、
降りしきる真綿雪を通して見つめていた…。
★第13章に続く★