■第11章■ 手の中で
■第11章■ 手の中で
サン・シルヴェストロ教会のファサードの前で長い抱擁をして
いた二人は、思いついたように顔を見合わせ、教会の中に入った。
ルチアーノは寒さで震える真由を強く抱きしめながら
「僕は君のことを昨夜から思い続けていたから、外で会ったとき、
ただこの胸に抱きしめることしか頭になかった。
真由、寒かっただろう?ごめん…。
君の凍えるような冷たい身体に接しても、
僕はすぐには教会の中に入ることに考えつかなった…。
でも、ここに入って気が付いた…。
温かなこの空気で真由を早く包んであげれば良かったのにって…。
いつだって先を急ぎすぎる僕だから…」
ルチアーノの言う通り教会の中は、雪の降る外よりもはるかに
温かい空気が漂っていたから、ルチアーノは後悔していた…。
でも、真由はうれしそうにして凍えていた手を自分から
ルチアーノの大きな手の中に包み込んだ。
そして、青い目を仰ぎ見るようにして言った。
「寒くなんかありません。例え寒くてもあなたと二人だけになれた
この日に、私の大好きな真綿雪が降ったということだけで
うれしくて仕方ないのです。気になさらないで下さい。
その上、これからラファエロの作品を見るのですから…」
そう言った真由は、真綿雪に包まれたラクイラの町が
さぞかし神々しく美しく光輝いているのだろうと
想像しながら、町中に戻りたくなる気持ちを抑えた。
そして、改めて堂内を見回した。
ファサードのバラ窓から朝の光が差し込んでいる堂内は、
雪の反射で荘厳な白い光に包まれていた…。
光に当たっている真由の周辺も荘厳な雰囲気に包まれていた。
真由は神聖な気持ちで前を向いた。
そして、パリから抱いてきた夢の作品があるはずだから、
そう言い聞かせ期待に胸を膨らませながら、
ゆっくりとルチアーノの手を離し、傍らを離れた。
真由の思いを知っていたのか、大きな手は真由を引き止めることなく、
自然の流れのように真由から離れていった…。
そして、ルチアーノは言った。
「真由、彼の作品は左側の側廊の奥にあるジュリオ・チェザーレ・
ベデスキーニのフレスコ画が飾られたフランチェスコ礼拝堂にある。
千五百十九年にラファエロがこの礼拝堂のために描いた
「マリアのエリザベツの訪問」がある…。ただ、オリジナルではないことが
残念だが、しかし、例えレプリカであろうが彼の作品に違いはない」
そう言った後、思い返したのか真由の手を再び取って引きとめた。
「その絵にはなぜか真由が似合う…。なぜなら君と昨日、初めて会った
その瞬間、この作品が思い出されていたからだ…。君と一緒にいた時間、
ずっとこの絵が僕の脳裏から消えることがなかったから…。
なぜそうだったのか、その根拠は昨日言ったように君が
“ラファエロのマドンナ”に似ている、としか言えないが、
しかし、ここにある作品には似ているマドンナは描かれていない…。
だから、なぜこの作品が真由に似合うのか…。僕にも解らないが、
でも、そう思った…。ラファエロの気持ちから汲み取ったのかもしれない…。
真由がラファエロのマドンナに似ているって…」
真由はルチアーノの言葉を出口付近に置いたまま、先を急いでいた。
フランチェスコ礼拝堂のラファエロの作品を見たかったから…。
パリで別れたフィリッポの故郷のためにラファエロが手掛けた作品を
一秒でも早く見たくなったから…。
今言ったルチアーノの“なぜだか解らない”と言った言葉が胸に
刺さるようにして真由の気持ちを捉えたから…。
そして、フィリッポの言葉を思い返しながら真由は歩いた。
「ラファエロ信奉者の真由にとって、彼の作品は誰よりも素晴らしいと
思っているんだろう?でも、どこがいいのかな?そこまで惚れるって
すごいことだと思うから、いつも不思議で仕方なかった。
教えてくれる?というより教えてほしい。彼の作品のどこがいいのか、
何が魅力なのか。一度真由の目線でラファエロの作品を見て見たいから」
フィリッポに即答ができなかった。答える言葉を探せなかったから。
真由にとっては芸術は言葉で賞賛できるものではなかったから…。
言葉ではなく心に感じることだったから。人に話せないことを
作者は絵筆を握ってキャンバスに伝えたいことを描くから…。
画家の持つ世界を絵筆に託して描き続けたラファエロだったから…。
フランチェスコ礼拝堂を目の前にして立った真由は、
パリからの宿題だったフィリッポへの答えをそう口にした…。
そして、フィリッポの答えに付け加えた。
「あなたの故郷のこの教会の中に立って、初めてラファエロを愛する
理由をあなたに言えた…。パリでは答えが見つからなかったから。
そして、この答えを見つけたかったから、ラクイラに来たかったの。
そして、見つかった…。今ルチアーノがその答えを言ってくれたの…。
あなたの素敵な故郷のラファエロに会えば、きっと答えが見つかると
信じていた私だったから…。見つかってうれしい…。良かった…」
真由はたった今、
“…ラファエロの気持ちから汲み取ったのかもしれない…。
真由がラファエロのマドンナに似ているって…”
そう言ったルチアーノの言葉が自分の求めていた答えであったことに
気が付いたから、フィリッポから出されていた宿題をようやく
終えることができていた…。
気持ちの整理がついた真由は、ゆっくりと礼拝堂の祭壇をあがった。
妊婦姿のマリアの優しい絵図が真由の目の中にあった…。
従姉妹のエリザベツに一刻でも早く聖なる懐胎のお告げを受けた
ことを知らせたかったマリアの姿は、誰が見ても歓びに満ち、
幸せすぎるほど大きな歓喜に包まれていた…。
感激をお裾分けしてもらって感涙に咽ぶ真由をそっと
後ろから抱きしめていたルチアーノの青い目も、
いつしか作品と共に真由の目の中にあった…。
★第12章に続く★