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■第1章■ 歌声の中で

■第1章■ 歌声の中で


まだ風が冷たい二年前の三月の下旬、当時パリの大学で

ヨーロッパ美術史を専攻する二十四歳の学生であった三枝真由は、

パリから午前最後のエアでローマに入った

真由にとってローマは初めてではなく、大学の休日を利用して

フランスはじめヨーロッパ各地の美術館や宗教美術の

宝庫である教会などを訪れたりしていたが、なかでもルネッサンスの

発祥の国であるイタリアを訪れることが多く、長い休暇には

アルバイトで貯めたお金を使い切るようにして、

友人たちと何度も美術の宝庫であるイタリアを訪れていた。

その大半がこのローマはじめミラノなど最初に入った都会で数日を過ごし、

その後、周辺の小さな村や町に足を延ばすという段取りであった。


二年前のこの日も同じく、真由はローマの小さな定宿で二日間を

過ごした後、イタリア内陸地の山間に位置する歴史ある小さな町、

ラクイラを訪れるという予定を組んでいた。

ただ、いつもと異なるのは友人という同行者はなく、

一人でパリを出たことと、もうひとつ異なったのは、

ラクイラという町を選んだ理由であった。

いつもは気の置けない友人たちと観光はもちろん、

その町や村に残る歴史的遺物、歴史ある美術品の鑑賞、そして、

その地が誇る名物料理を味わうという大義名分を掲げて旅先を

選んでいたが、二年前のラクイラ訪問は真由自身を模索する旅という

自らが称した重い目的をもった旅であった…。


パリを発ち、二時間ほどのフライトでローマに入った真由は、

二泊の予約を入れておいたテルミニ駅に近いローマの定宿に着いたのが、

夕刻近い午後四時を回っていた。一年に二、三度しか宿泊しない

ホテルであったが、フロントに立つクリスチャンやカルロは

真由をしっかりと覚えてくれていて、いつも懐かしそうな顔をして

迎えてくれた。その日もチェックインしながら真由は

“これだからローマはいい…。好きなんだ…”

そう思いながら、入り口近くに立つ背の高い青年を何気なく

見つめていた…。決して気になるほど目立つ人ではなかったけれど、

“誰かに似ているのかな?どこかで会ったのかもしれない…”

真由はいつしかそう自問自答していた。


手続きを終え、部屋の前まで案内したカルロは言った。

「二泊ですね。バス付きの部屋を用意しましたから。

老婆心ながらさっき真由さんはドア近くにいた男性を気にしていましたが、

あの彼には近づかないほうがいいですよ。彼には

鬼のような怖いパトロンが付いていますからね」

冗談とも本気ともつかない物言いで言った後、すぐにこう言った。

「真由さんは今の僕の話を信じましたね。あの男性のことを。

実は三ヶ月前にいらっしゃったときにも、僕は同じことを言って

あなたを驚かしたことを覚えていませんか?あなたは素直な人だから

人の言ったことを丸呑み。疑いもせずに簡単に信じてしまう。

でも、滞在中、僕のようないい加減な男の言葉を信じては

いけませんよ。知らない人から声を掛けられたら、

まずは疑うこと。このイタリアではこれは鉄則ですからね」

カルロはそう言って真由に部屋の鍵を渡した。


四階の部屋に通された真由は、戸口に立っていた青年のことは

すっかり忘れ、荷物を紐解いてまずはバスタブに浸かった。

そして、バスに浸かりながらこれから訪れる町に思いを馳せた。


初めて訪れるその街は、アペニン山脈の最高峰群の中の一つ、

グラン・サッソ山の山懐に広がり、

国内でも珍しい標高七百二十㍍余の高地にあった。

それだけに風光明媚は言うまでもなく、豊かな自然に恵まれた

爽やかな雰囲気を漂わせていると学生仲間から聞いてもいたし、

ガイドブックにも自然に囲まれた贅沢な町、などと称されていた。

また、雄大な山塊を自慢とするグラン・サッソ国立公園の入り口に

なっていることで、夏場には涼しい高原の避暑地として人気が高かく、

それだけではなく、幹線道路が断たれる雪の季節を除けば、

通年、著名人たちが競って訪れる魅力的でカルチャー色

豊かな町としても知られているともあった。

真由は友人たちの話だけではなく、ガイドブックからの受け入れだけではなく、

この街を自分なりに消化しようと旅立つ一週間前からラクイラを調べ始めていた。

真由がここまで深い思い入れをする街も今までにはなく、

調べながら自分でも可笑しかった。しかし、今、まとめたその資料を

ノートパソコンに収め、ベッドに横たわりながら読み返していた。


「著名人が競ってこの町を愛するようになったのは、古代から中世に栄えた

城壁の町としてだけはなく、今なお民族色豊かな町の人々の生活にあった。

中世には九十九の城と九十九の地区、九十九の教会、九十九の広場を建造し、

九十九をイメージした徹底的な町造りが行われ、いまなおその面影を色濃く残す。

他の類を見ないその特徴的な町造りは、訪れた者たちの心の奥底に強い印象を残し、

多くの人々を魅了して止まなかった。また、駅近くに現存する九十九の噴水は、

中世の当時の町の人々のこだわりを今に伝えているとして、

多数のメディアにも紹介され続けていた。それは国内外に報道されることもあった

から、近年はことの他訪問者が多くなったとメディアは告げていた」


資料を一区切り読み終わったのを機に、真由はパソコンを閉じた。

パリからの今日一日を振り返りながら、イタリアでの明日からの

スケジュールを頭の中で反芻した。とはいっても明日、ラクイラに

行くということだけで、その先の予定は未定に等しかったから、

明日は何を着て行こうかなどつまらないことに拘りながら、

いつしか眠りの世界に入っていった。心地良さの中で、

パリの喧騒とは異なり窓の隙間から入り込んだ、

明るい若者たちの歌声を子守唄にしながら、真由の目は閉じられ、

静かな闇の中に入ろうとしている…。

しかし、入りながらロビーで見かけた憂いに満ちたまなざしで

自分を振り返っていた青年の声がなぜか真由の世界にあった…。

何かを歌っているようにも聞こえたけれど、その歌が何であるのか

確かめる前に真由は眠りの世界に埋もれていった…。

いつものように、真由の静かで優しいローマの最初の夜だった。


★第2章に続く★

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