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夜、古い劇場に、一人の少年が忍び込みました。
そこはもう、何年も使われていません。舞台を照らすライトは壊れてちっとも点かず、緞帳はずたずたに破れ、天井には大きな穴が開いて、そこから雨風が吹き込むという始末です。けれど少年は、しょっちゅうこの劇場へとやってくるのでした。
建物の扉は閉ざされていますが、彼は秘密の出入り口をちゃんと心得ていました。舞台のちょうどすぐ外に、偽物のマンホールがあります。蓋を開けると劇場の中へと通じる秘密の道が現れるのです。(役者たちが舞台から姿を消す演出のために作られた通路でした)
少年はいつものように、ランタンを持ってマンホールの中に入り、意外に広い通路を歩きました。足音だけが大きく響きます。その音を怖いと思っていた頃もありましたが、今ではちっとも気になりません。
彼は劇場の中で食べるため、パンとチーズのかたまりを持ってきていました。ここでなら、口やかましい家族に邪魔されることもなく夕食をとることができるのです。
ところが、広いホールに向かった少年は、自分がたてたのではない音を聞きました。
ひそひそ、ざわざわとささやき声が確かに聞こえます。誰かが、ホールにいるようです。下手側の舞台袖まで来た少年は、はっと足を止めました。空耳ではありません。真っ暗なホールで誰かがしゃべっています。
少年はとっさにランタンを消しました。そこにいるのが警官や泥棒だったなら、自分の居場所を知られたくないと思ったのです。闇に目が慣れると、袖に積み上げられた椅子やら照明器具やらに身を隠しながら、ゆっくりと舞台へと近づきました。
舞台も客席も見えるところまで来て、少年は眉をひそめました。確かに、何人ものしゃべり声が聞こえたはずなのに、席には人影が見えません。すうっと寒気が彼の肌をなでていきました。しんと静まり返ったホールは見事に空っぽで、真新しい棺桶のようでした。
にわかに、舞台の真ん中で、かすかな衣ずれの音がしました。
客席に気をとられていた少年は、ゆっくりと顔を動かし、恐る恐る舞台に目をやりました。その途端、彼の心臓は早鐘を打ち始めます。いるのです。真っ暗なホールにもう一人。かわいそうに少年はすっかり怖くなってしまい、必死に自分を抱きしめ、歯を食いしばりました。
月の光が、天井の穴からさしこみました。照らし出された舞台上の人物は、年老いた男でした。真っ白い服は、男のまっすぐに伸びた背筋や体にぴったりと合っています。首の後ろで一つに束ねた髪の毛は、金と茶が混じった色合いでした。固く引き結ばれた口と厳しい光を宿す瞳を、少年は袖から食い入るように見つめましたが、男がこちらを向くことはありませんでした。
そして男は、一ふりの剣を携えていました。細く長い刃が、銀色の月光を受けてきらきらと輝きました。
男が口を開き、息を吸いました。
「私の話を、聞いておくれ」
低い、静かな声でした。けれどもその言葉は、ホールいっぱいに響き渡ります。
男の語りかけに応じて、客席の方から拍手が鳴り始めました。けれども相変わらず、客席を見ても一人の姿も見えないのです。
拍手が止むと、男は再び口を開きました。
「私が生まれたのは、四方を険しい山で囲まれた小さな谷間だ。そこには、ほしいと望むものは何でもあった。腹を満たす食物も、のどをうるおす清らかな水も、身にまとう衣服も。赤ん坊のころは、大人たちがいつも可愛がってくれた。大きくなると、同じ年頃の子どもたちと共に、山を駆けずり回って遊んだ。退屈したことなど生まれてこの方、一度もない」
ここで男は、ちらりと笑みを浮かべました。
「もちろん、遊んで暮らしていただけではないぞ。町から戻ってきた大人に学問を教わり、母からは山の中で生きていく技を学んだ。そして兄姉たちからは、音楽を」
少年は、固唾をのんで男の話を聴いています。
「谷に住む子どもたちは、皆楽器を演奏できた。毎日集まって夜眠る時間まで楽器を演奏し、時には自分で新しい楽器や歌を作るのだ。あの頃は、音楽よりも素晴らしいものはこの世にないと信じていた。__だが、もっと楽しいものに私は出会ってしまった」
ため息まじりの声が途切れると、客席はひそひそと何事かをささやきかわします。
「それは、形あるものを作ることだ。父が教えてくれた。まだ何でもない、やわらかな鉄のかたまりから、思うがままの形を取り出すこと__そして自分が作り出したもので、誰かを喜ばすこと__私はあっという間に夢中になった。太鼓のスティックを置いて、代わりにふいごを持った。谷に一軒だけ作られた作業小屋で、昼夜皆のために鉄の道具を作り続けた……」
少年は、語り続ける男の節くれだった手に、火傷の痕があることに気がつきました。
「ある時、私は自分のためだけに、この世で最も素晴らしいものを作ろうと思い立った」
それが、これだ。そう言って男は、銀色の剣をかざしてみせました。
「どうだ、美しいだろう。太陽と月と星のしずくをまぜた、魔法の火で鍛えたのだ。完成するまで毎晩、物語を語って聴かせた。谷の友達が、剣のために演奏してくれた。山の獣たちもこっそりと見に来ていたようだ」
男が剣を振り下ろすと、ホールのほこりっぽい空気までもが切り裂かれ、散り散りに消えていくようでした。少年は剣の切っ先がなめらかな線を描くのを、息をすることさえ忘れて見守ります。
「私はこの剣一つを持って、谷を出た。__そこからの日々は、楽しいものだった」
男は誇らしげに、語りました。その剣一つで、戦をいくつも収めたこと。世界中どこへ行っても喜ばれ、友達がたくさんできたこと。剣のおかげで、恐ろしいことなど何一つなかったこと……。
「私はアミール(指揮官)にも、ウンガン(魔術師)にも、マイスター(師匠)にもなった。さて、次はいよいよツァーリ(君主)だ!」
剣をまっすぐ上に向け、高らかに男は叫びました。……そして、おもむろに剣を下ろし、うなだれました。
「だが、私はもう疲れてしまった」
静かな声でした。
「あまりにも、栄光の日々が長過ぎた。私にはもう、剣と共に世界を渡って行く気力も、体の自由もない。故郷へ帰ろうかと思った。だが、愛しいこの剣が切り拓いてくれた日々よりも子どもだった頃を懐かしむのは、あまりにもひどい裏切りではなかろうかと思い、……そしてここにたどり着いた」
男は、月光に照らされた舞台に、剣をそっと置きました。そしてまっすぐに前を向き、堂々と言いました。
「私の旅はこれで終わりだ! 音楽にも満たないこの独白を、聴いてくれてありがとう。私の後を生きる者に祝福あれ!」
舞台が真っ暗になりました。
ちょうど雲が月を隠したのでしょう。暗闇につぶされた目を、少年は一生懸命こすりました。
次に目を開けた時、舞台上にはもう誰もいませんでした。割れんばかりの拍手がホール全体を包みます。
拍手が終わるのを待って、少年は舞台に飛び出しました。
そこにはやはり先ほどの男はおらず、ただ一ふりの美しい剣が置いてあるばかりでした。
少年は剣をそっと持ち上げます。ずしりと重く、けれど持てないほどではありません。
彼は剣を幕の切れ端でくるみ、胸に抱いて劇場を飛び出しました。




