オサル家政婦紹介所
「アイタッ」
腰の横を強かに蹴飛ばされた「ヌネノC32」は足をひねって横向きに倒れた。蹴飛ばした「アイウB9」は素知らぬ顔で食器を拭いては、別の布巾で丁寧に磨いている。
「何するんですか……」
新人のヌネノC32は古株のアイウB9に逆らえず、文句を言いながらも答えは期待できないので下を向いて半泣きになっている。
ヌネノC32は床に前足を付いて立ち上がった。
台所に主人の横田さんがドタドタと入ってきた。
「何今の音? 執筆に集中できないじゃない、このサルが」
女主人の横田さんは丁寧な言葉に乱暴な言い方が混ざる時と、まるきし乱暴で酷い物言いの時がある。今日はどっちと取れば適当だろう?
「ア、アノ……」
ヌネノC32が言い淀んでいる時に、アイウB9がキュッと床の上で足を回転させて主人の方を向いて、頭を下げた。
「サルが申し訳ありませんでした。ご主人様」
横田さんは顎を上げて、フンっと鼻を鳴らして出ていった。
アイウB9はまた回れ右して仕事に戻った。ヌネノC32は棚への納め方を頭を捻って考えながら食器を片付けていった。
ヌネノC32とアイウB9は確かにサルである。
一億総活躍の時代。時代は豊かになり、教育は行き届き、大抵の人間は高度な技術や知識を身に付け、これでもかと社会で活躍していた。
遺伝子改良技術なんてのもどんどん進み、動物も人の役に立つように改良された。
犬はロボット操作をしながら介護の現場で。
これが人間より親切で気が利いて、年寄りにも身体に障害を持つ人間にも好評だった。
アリを犬くらいの大きさにして、ごみ処理場や原子力発電所の作業員に。
これもアリの仕事がこまめで良かった。
データ入力は主にレッサーパンダがやった。
ほとんどの動物が言葉も喋れるようになった。
指示書を読むために文字も読める。
家事仕事はサルがさせられた。
掃除、洗濯、料理……。料理を美味しく手を込んで作ろうとすればきりがないし、掃除も床のタイルの溝までキレイにしろと言われれば反論の余地もない。洗濯なんて、小さな汚れをいちいち前足でこすって揉んで、隙なくアイロンで完璧にすることもできる。
そんな仕事をサルたちは任された。
サルたちは生まれた時からほとんど家政婦斡旋所にいる。サルに認められた職業は、家政婦と家政婦斡旋所の管理職だけである。斡旋先の家から苦情が多かったり、依頼を断られたりすることの多いサルは容赦なく斡旋所を首になる。
そうなると、犬やアリやレッサーパンダそれぞれがまとまって暮らしている体育館のような施設で家政婦をしたりする。
実は人間の家で家政婦をするより楽なのだが、給料が安い。
サルの給料は大豆である。炒り豆である。一日五十粒が相場で、犬やアリの世話では一日三十粒が相場になる。これに一日ボトル一杯分の野菜ジュースである。同様に、犬やアリの暮らす施設で働く場合、一日ボトル半杯分になる。
斡旋所を首になったサルが他の斡旋所に就職して人の家での仕事を紹介してもらえない場合、人間の職業安定所でそういう仕事を紹介してもらう。
職業安定所のやってきたサルを扱う態度は、文字通り人間扱いしない。
ものすごくぞんざいで、仕事を貰えなかったら、公園で野垂れ死ぬしかない。
仕事をしながら老衰で死ねば、サル山に埋めてもらえるが、野垂れ死には、生ゴミ、粗大ごみ、燃えないゴミのごみの山に放られる。
せめて、山に放ってもらえれば、草木の肥料にくらいなるのに。
食器の片づけを終えたヌネノC32はシーツを取り込みに二つあるリビングのうちの遠くの方に駆け込んだ。今朝のニュースの天気予報ではそろそろ雨が降り出す頃だ。
テレビなんて朝五時の五分間しか見させてもらえない。
掃き出し窓を慌ただしく開けて、庭に飛び出す。
風が出てきた。白いシーツとご主人様のシャツや黒のスカートやパンツ、毎日手洗いで洗わされる上等なコットンのパジャマがあおられて上に持ち上がって揺れている。
かごを引き寄せて、全てくるくると腕で巻いてから中に入れた。
なるべく皺がないように気を付けないと、またアイウB9にいびられる。
視線を感じて後ろを振り返ると、予想通りアイウB9が腕組みをして、冷たい視線で掃き出し窓の出口で自分を見下ろしていた。
アイウB9は、ヌネノC32が取り込んだ洗濯物の方に目を遣ると、踵を返して、尻尾をこれ見よがしに引きずりながら部屋の向こうへ去っていった。
息を吞んでいたヌネノC32は、我に返ってかごを持って部屋の中に入った。
アイロンをかけて、夜の十二時まで忙しく立ち働いた。
夕食の時に、お出しした何かを嚙み砕きながらご主人様が眉をしかめて、口をへの字に曲げたのが気になる。ご主人様の気持なんかどうでもいいけど、自分たちへの評価が怖い。
なんだって目上の人間次第なんだから。
この家に住むサル三匹が古いマットレス一枚に寝るための部屋の途中に、花瓶の置かれた濃い色の木製の台がある。
部屋に休みにいく途中でそこに文庫本が放置してあるのを見つけた。
放置なんだろうか? ご主人様がわざと置いたのだろうか?
ヌネノC32は、手に取って中をめくった。
新しい本だが、翻訳物の古い文学作品だった。
そこに立ったままで三ページ目をめくった。
途端に、横から人の手でそれを取り上げられて、そのままその本で頭を上から叩かれた。
「何考えてんの! いやらしい」
ヌネノC32は目を暗くして、俯いた。
「申し訳ございません……」
一般的に人間以外に読み書き計算以上の教育は、好ましくないとされている。知恵づいてもろくなことはないと言われる。
随分と知恵づいている人間と自分たちの心にどんな差があるのか、誰も教えてはくれない。
唾をのんで鈍い頭痛を抑えながら、ヌネノC32は部屋に入ってアイウB9の隣に寝転がって目を閉じた。
この部屋は狭い――。
翌朝目を覚ますと、昨日ゴミとして捨てた古くなったシーツの切れ端で前足と後ろ足片方ずつが窓の格子に結び付けられていた。
アイウB9ともう一人シスセP54はそれを見てニヤニヤしながら、毛に櫛を入れて、部屋の外に出ていく。
「ほどいて。お願い!」
三十分ほど経ったのだと思う。前足が一本だけだとどうしてもこの、固結びに固結びを重ねたような結び目を解くことが出来なかった。
じたばたしているうちにアイウB9が入ってきて、縛ったシーツを解いた。
「何するんですか!」
アイウB9は冷笑しただけで出ていった。ヌネノC32は慌てて身繕いをして部屋を出た。
台所の入り口にご主人様がご立腹もあからさまに仁王立ちしていた。
「寝坊できる身分だと思っているの⁉」
ヌネノC32はあたふたと平身低頭で言い訳しようとした。
「これには訳がありまして……。嫌がらせを……、アイウB9が……」
主人は怒鳴りつけて言った。
「いらない! あんたはもう要らない! 取り替えてもらう」
「ア……」
「帰りなさい! ろくでもない仲間がいる場所に!」
ヌネノC32は、肩のところで腕をつかまれ、そのまま玄関へ引きずられていき、外に放り出された。
「ア……」
ヌネノC32は、玄関前の階段の下で、コンクリートに前足を付いて音を立てて閉められていくドアを見上げるしかなかった。
真夏の盛りだから、足の裏が熱い。立ち上がって目に涙が滲むと、涙の温度も生温かくて、自分でも嫌な感じ。走る元気はないが、後ろ足の火傷に気を付けながら、いつものように裸足で歩いて自分の斡旋所に向かった。
自動運転の車の後部座席に笑い転げる人間の家族が乗っている。大きな公園の入り口に来た。遠くで噴水が虹を作って、噴水の中心の水が出ない場所で、自分らを囲う水の膜に気分を盛り上げられながら子供たちがぐるぐる回って走って遊んでいる。
ロボットが店員の仕事をするコンビニとファミレスを尻目に斡旋所の自動ドアをくぐった。受付に座るサルがこっちを睨んだ。
「仕事はどうした?」
「首になりました」
受付のオスが電話を取った。社長室にかけているのだろう。
大抵のサルは必死にうまくやろうとするから、首になることなんて滅多にない。これは十分、社長案件だ。
どうでもいいとも、イライラするとも、どっちともつく表情で醜く口を曲げて裏口の横の階段から下りてきた社長がヌネノC32の前に来て、豆をぶちまけた。
「職安に行ってこい。ここは雇用契約解除だ。――喉乾いた。お茶を飲む」
社長が階段の方に向き直って歩いていくと、一緒に下りてきた背の高い秘書のサルが付き従っていった。
――秘書なんて、たいして仕事もしてないくせに。
ヌネノC32は床に膝を付いて豆を拾い集めた。退職金みたいなものか。
十粒しかなかった。これじゃあ、半日も持たない。
目を上げると、受付のオスザルがこっちを見下ろして嘲笑していた。
ヌネノC32は、
「何か袋を貰えますか? 小さいのでいいので」
と頼んだ。オスザルは自分の豆が一粒だけ残っているビニール袋から、その残り一粒を取り出して食べて、空になったそれを渡した。
「ありがとうございます」
ヌネノC32は、それに十粒しかない豆を入れて、大事に抱えながら自動ドアから外に出た。
とりあえずさっきの公園に戻って噴水で水を飲んだ。水飲み場は、子供がいつまでも遊んでいて近づけなかった。
街中で人目に付く仕事はロボットばかりがやっている。動物は裏方ばかりだ。
つまり、街を歩く動物は失業者ということだ。そして、他に見かけない。
自分だけが取り立ててグズなのだ。
レストランの給仕を自分がやったら、毛が料理に入っていそうで汚いだろうか? 家の中ではやってるのに。
豆を二粒だけ食べた。それから職安に向かった。
つま先立ちで総合案内所の人に話し出そうとすると、口を開いた途端に、奥の壁際のパーテーションの中で待てと指で示された。
言われた通りに、その中の固いベンチに座って待っていると、職員の少し小太りの男性が入ってきた。
男性は向かいに腰掛けると、こっちに尋ねてきた。
「どういうご用件で?」
斡旋所を首になったので、どこか働ける場所を紹介してほしいと頼んだ。
「他の斡旋所は?」
「大抵コザルからいるサルしか雇わないので……。厳しいと思います」
「ちょっと待ってて」
職員は立ち上がって、パーテーションの外に出ていった。そして三分も経たずに戻ってきた。
「悪いけど、どこもない。帰って」
どこに? という声をヌネノC32は、飲み込んだ。ヌネノC32の丸く開いた口の奥は暗くて深かった。
正午を少し過ぎた時間になった。外は暑い。頭も痛い。お腹も空いた。
泣くに泣けずに、ヌネノC32は、また公園の噴水で水を飲んだ。胸元で豆の入った袋をしっかり守りながら。
ヌネノC32は、元いた斡旋所に向かって走った。自動ドアを開けて、受付に何も言わずに横の階段を駆け上がって社長室に乗り込んだ。
「社長様!」
ヌネノC32は、社長の為の広い机の前に土下座をして額を床に擦り付けた。
「お願いします。私には他に行くところはございません。今後不始末のないように精進いたしますし、どんな辛い仕事でも回してくれて結構です。どうかここにおいて下さい」
下を向いているので社長がどんな顔をしているのかは分からなかった。
「分かった。とりあえず今日は休め。大部屋に案内させるから布団敷いて寝てなさい」
「おっ、お布団を敷いて宜しいでしょうか? 寝ていてもいいでしょうか?」
「壁際に布団があるからどうぞ敷いてもいい。ほらカキクA1。案内してやれ」
ヌネノC32は、立ち上がったがめまいを起こしてフラフラしていた。仕方ないので、カキクA1はヌネノC32の腕を引いて部屋まで連れていった。
ヌネノC32は布団を敷いて、倒れるようにして眠った。
甘美さとおぞましさの混ざりあった感覚でヌネノC32は目を覚ました。背後から自分の内部に汚らわしい棒が突っ込まれているのに気が付いて、壁に前足を付いて壁伝いに逃げようとしたが、腰を抱え込まれて、そのままお尻を上げられた。
「ああ、慣れてないのか」
後ろのオスがそう言って、自分の腰をヌネノC32の尻に打ち付ける。
「生殖担当になったんだろ。とりあえず今は役目を果たせよ」
ヌネノC32は頬が熱くなってきた。股の間が痛くて、むずがゆさが段々屈辱的な快楽に変換していく。
オスの顔を振り返ると、部屋は暗くて顔はよく見えなかった。
いつの間にか日は落ちて、窓は外の建物から漏れる明かりと星の光だけで採光を取っていた。
半端な原始の闇の中で、他のサルたちが喘ぎ声を漏らすのがよく聞くとそこらじゅうから聞こえる。
「あんた、私の名前知ってるの⁉」
思わず叫んだ言葉に、オスは「ハッ」と可笑しそうに笑った。
「知るわけないだろ。……名前は?」
オスの腰の打ち付けは止まらない。
「『ヌネノC32』よ」
「俺は『ワヲンP3』だ」
ワヲンP3が名乗った途端に、彼はヌネノC32の中に果てた。ヌネノC32もオルガズムに達して、また気絶した。
誰かに前右足を引っ張られて無理矢理起こされた。汗と油が中に詰まったような嫌な疲労が抜けないままの上半身を起こした目の前に、社長がいた。足を取っているままなのは社長だった。
社長の顔は、頬の皮膚が後ろの方に引っ張られて、分厚い唇がいつも横に広がって大抵はピエロのように笑った表情に見える。目は全く特徴がない。感情を映さない。それがかえって不気味だった。
「立って」
社長に促されて、ヌネノC32はまた頭痛を抱えながら立ち上がった。
「こっちにおいで」
手を引かれて大部屋の外に出た。右手にすぐ突き当りの部屋がある。そこに入った。
電気を付けると、そこは掃除用具や重ねられた裁縫セット等々が詰め込まれた物置だった。社長は扉に付いている鍵を縦にして閉めた。
「奥に行って壁の方を向いて膝をつけ……。そうそう。いい子だ」
社長はヌネノC32の胸の横の毛を感触を楽しむかのように微妙なタッチで撫でた。それから、ヌネノC32に両手を差し出させて、手錠を掛けた。
「どんな気分だ? ん?」
ヌネノC32はこれから起こることを想像して、唇はわななき、涙ぐんだ。
「可愛いなあ。さあ、前足を窓の下の壁に付けて、お尻を突き出して」
ヌネノC32は頭がおかしくなってきて、唾が出て涎を垂らした。涙が出てきて気が違いそうなヌネノC32の後ろで、社長様だけが着ている洋服のズボンが床に落ちる音が聞こえた。
カチャンといったので振り向くと、様々な鍵の束がズボンに引っ掛けられたまま一緒に床に落とされていた。
「ハハハ。アウアウ」
社長は悲しみに溺れるヌネノC32を背後から思い切り犯して、激痛と屈辱と快楽にも溺れさせた。
「ハハハ。アウアウ」
果てたヌネノC32は、気絶こそしなかったが、床に横ざまに倒れた。
社長がぺろっとうまそうに舌を出した。
「悪くないぞ。お前。また今度もな、可愛がってやる」
手錠の鍵を外した。
「ハハハ。アウアウ」
物置の鍵を開けて社長は出ていった。電気は消された。
大部屋に戻らなくてはいけないだろう。豆とジュースも多分そこにある。そういうのはコザルの役目だ。トイレに行く時に狭い台所を通りかかった。人間がお風呂に入る時に使うような椅子の上に立って、コザルたちが懸命に高級レストランのような料理を膳の上に拵えている。
百合根饅頭と白身の昆布締め……。
食べたことがない。「つまみ食い」の欲求は我慢してきた。チクリ大会みたいな世界だから。
――食べて罰されりゃ良かった。
トイレでは、コザルがブラシでこすった後に、自分の前足で便器を磨いていた。
コザルはこの施設の家事を交代で担当して、点数を付けられながら、技術を仕込まれていく。たまに大人のサルの仕事に付いていく。手が空いているときは、食器磨きや雑巾縫い。家電のメンテナンス。休む暇なんてない。
今何時なのか分からない。とにかく部屋に戻った。
部屋ではほとんどみんな並んで寝ていて、昨日ヌネノC32が寝ていた場所に一匹のオスが胡坐をかいていた。
「何してんだ。お前。いや、ヌネノC32だったな。やらなくちゃ、調べられた時にばれるんだよ。オスの方が射精チェックされるんだ」
「どうやって?」
「玉を少し押したら分かるらしい。痛い目に合いかねないことはしたくない。ほら、うつ伏せになって、尻を上げろよ」
ヌネノC32は諦めたように溜息をついて従った。
もういっそのこと快楽に自分を馴染ませて慣れていった。
一週間に一回。懐妊したかどうかを確認する検査があった。狭い畳の間に一人ずつ順番に入って、ぺたんこの赤じみた敷布団の上に仰向けに寝転がらされ、股を大きく開かせられる。
後ろ足元に古い漆塗りの木の盆があって、その上に洗いもせずに繰り返し使う、先の方がすぼんだスティックが三本ある。ちょうど体温計みたいな形と大きさの物。
それを検査官のオスのサルが無感動に生殖担当のメスの股の間にちょっと入れて、それで懐妊が判明するらしい。
一ヶ月もすると、生殖担当と社長の性処理の玩具も日常として承知するようになった。
言われるままに、物置の床に手錠をされた前足を付いて、頭を下げて、お尻を上に突き出す。
「ああっ。ああ……」
喘ぎ声が自然に出るようになった。社長の行為はワヲンP3より激しくて痛くて、身体の中身を蹂躙される。
ぽろぽろぽろぽろぽろと泣くが、社長の興奮を加速するだけにしかならない。
「お前、なかなか妊娠しないな」
一ヶ月やそこらでそんなに簡単に妊娠するものでもないはずだと思う。
「お前、なかなか妊娠しないのに、その割にはよくよくスケベだな」
社長は腰を振り続け、自分が果ててもヌネノC32の身体を気の済むまで凌辱し続けた。
ワヲンP3がある日、喘ぎ声のさざ波のような海の中で、ヌネノC32の耳に囁いた。
「俺、船操縦できるんだ。っていうか、ここ港近いだろ。そこにある中型船のエンジンの鍵を仕事で入った時にパクってきたんだ」
ヌネノC32との連結部を引き抜いたワヲンP3の方を、ヌネノC32は冷えた目で見遣った。
「いつの話よ」
「一ヶ月半くらい前。大体、鍵が無くなったことを俺のせいにされてここに来る羽目になったんだ」
「鍵返せば良かったじゃない。実際あんたのせいなんだから。あんたのせいじゃない」
「返したって、結果は同じだろう。返してやらない方がいい」
ワヲンP3は黙って、ヌネノC32の横の布団の中に足を入れた。
「食べ物さえ手に入れば、港に逃げてそのまま海に逃げてやるのに。魚は最近海には少ないらしいし。釣り方よく知らないし」
「ふうん」
「社長の部屋にドアの横に冷蔵庫と金庫あるの知ってるか?」
「ちょっとだけ見たことあるけど」
「あれ、鍵ついてるだろ? 冷蔵庫の方も。鍵さえあればあんな部屋無人の時間はいくらでもあるのに。あれ、豆でも菓子でもゼリーでも何でも詰め込まれてるらしいぜ」
「船のエンジンの鍵なんか持って帰れたの?」
「ここと港の間の無縁仏の人間の墓の下に隠したよ」
「へー。生殖しか能が無いのに」
「だから操縦できるって」
検査室の横の部屋から、キーキー鳴くメスザルの叫び声が聞こえた。文字通りの産みの苦しみだ。陣痛に喘ぐメスザルはこれが一回目の出産なのだろうか? 何度出産したらお役御免になるのだろうか?
「キギャー。キキイー」
獣特有の太さのある金切り声。本当に辛そうだ。なんで命令されてこんなことをしなくてはいけない。
なんで「サル(じん)生」は命令された形であるんだ?
ワヲンP3との性行為の後、さっきまで少し眠っていた。いつもの物置に来る。背後で「おぎゃあ」という誕生を知らせる泣き声が聞こえる。
すぐ隣の少しだけ開いた部屋の扉の奥で、一匹のコザルが正座をして泣きながら編み物をしていた。
物置の中でほんの一、二分待つと、社長が入ってきた。ヌネノC32は社長をまるでいやらしい媚びた笑顔で、本当に浮き立つような態度で迎え入れて、社長が入ってきた扉を閉めて、その扉に前足を付いて、額を扉に押し付けて、腰を直角に屈めて尻を突き出した。
社長は「おっ」とでも言うような嬉しそうな、少し頬を上気させた表情をした後、パンパンとヌネノC32の差し出されたお尻を叩いた。
「ファッ。フアッ」
笑いながら、ヌネノC32を犯し始めた。
社長はヌネノC32の尻をパンパンと叩きながら犯し続ける。ヌネノC32はいつも以上に快楽に溺れているような激しい喘ぎ声を高らかに出す。
ドスンと外から内側に開かれた扉に強か額を打ち付けられて、ヌネノC32はその傍に転がった。ワヲンP3がのしのし入ってきて、社長が呆気に取られた瞬間に、破いて束ねたシーツで一気に縛り上げた。猿ぐつわも噛ませた。ヌネノC32は立ち上がって、社長の尻ポケットから手錠を取り出して、それを使って社長の片方の前足の手首を重いスチールラックのパイプに繋いだ。
ヌネノC32は社長の両腿のズボンを確認した。
「これよ」
鍵の束がベルトの通し穴に短いチェーンで繋がれていた。ヌネノC32の顔を見て頷いたワヲンP3は、すぐさまそれを外してタオルに包んで脇に抱えた。
二人は社長を残して部屋を出た。
社長が社長室にいない時、大体秘書は受付の辺りにいて、社長の戻りを待っている。
ワヲンP3はトイレに逸れて、ヌネノC32は受付まで走った。受付のサルが眉を上げた。
「すいません。コザルが吐いてしまって、嘔吐物を片付けたいので、大きめのビニール袋を三枚か四枚ほど頂けませんか?」
受付のサルは黙って下を向いて、足元、カウンターの下のデスクから小さいビニール袋を十枚ほど投げてよこした。
「ありがとうございます」
ヌネノC32は頭を下げてワヲンP3が待つトイレの前に戻った。
二人は足音を立てないように受付の背後に向かい、社長室への階段を、獣らしい俊敏さで上った。
冷蔵庫と金庫に対して、束の中の鍵を試して回った。開いた両方の箱から盗めるだけの食料を盗んで袋に入れて抱えて、階段下の横の裏口から出た。
裏口の前には、約二十匹のコザルたちが待っていた。
「行きましょう」
すがるような丸い黒目のコザルたちは、律儀に頷いた。
コザルにも荷物を持ってもらって、港まで全員速足で歩いた。
ほんの十分ほどのすぐそこだ。
途中の石台の上に乗った楕円形の墓の根元をワヲンP3が掘ると、船のエンジンの鍵が出てきた。
「よく考えたら、真昼間に船を乗っ取れるの?」
ワヲンP3が答えた。
「乗っ取るんじゃない。誰も使っていない放置してある船を適当に言い訳して使うだけさ。鍵持ってるんだから、船の所有者にさえ会わなければ上手くいくし、怪しまれない」
「だって、サルなのに」
「サルだからなんでもするだろうって思うんだよ。ひと様は」
ワヲンP3は港が近づくとタオルでほっかむりをして顔を隠した。背中も丸めた。
「泥棒」だからだ。
コンクリートで固めた乗り場があるだけの小さい港だった。手前に中型トラック三台分くらいの駐車場があった。
ヌネノC32はワヲンP3にそっと手を引いていかれるまま、中型船に乗り込んで、コザルが行儀よく後に従ってきたのを確認して、船のエンジンを掛けた。エンジンはかかった。
ワヲンP3はほっかむりを解いて、操縦桿を握った。
船は発進した。
よく考えると、杜撰な計画だった。こんなに人数がいて食料が足りるか分からない。でも、船には飲み水のタンクも、インターネットに繋がるタブレット端末も、発電機も、肉や缶詰もそのままあった。
魚の釣り方の本もあった。船員の暇つぶしの文庫の推理小説もあった。なんであるのか知らないが、「中学館子供用歴史シリーズ」のハードカバーの本が揃っていた。
矢又俊子は、老ザルとなった鵺野沙衣理の診察をしていた。麻でできた上下の服のお腹をめくって聴診器を当てる。
「私たちのゴッドマザー。鵺野さん。おばあちゃん。正直、後は食べたい物食べて、好きなことしてよ。もう長くないわ」
「好きなことしかしてないわよ。もう現実に」
ここは、船で近づいても小さい島だろうと察することができるような、狭い無人島である。教育の行き届いたサルと遺伝子改良をしていない野生の動物が至極平和に暮らしている。
他の野生の動物たちが幸せなのかどうか、鵺野がよく気にすることだった。
電気が行き届き、テレビを見て、コテージのような家で皆暮らしている。
教師をするサルもいれば、矢又のような医師になるサルもいる。発電機を改良して管理するエンジニアもいれば、ファッションデザイナーもいる。ゴッドマザーと共にコザルを率いて島に来た和田明はファッションモデルとして河の上にかけた橋のランウェイを歩いた。
その日、味付けして干した豚肉を齧りながら河に足を浸して、涼んで過ごした。
向こう岸の二階建て校舎の運動場で、オスのコザルたちが野球をプレイしている。校舎の壁に向かって真っ直ぐにボールを飛ばしてしまった後、メスのコザルたちのグループに場所を譲った。一匹のオスコザルと上に挙げた手をパチンと合わせてバトンタッチしたメスのコザルは、バットを取って構えた。たくましそうに身体を揺らして位置を調整している。
河向うからの風と、冷たい水の流れが気持ち良かった。
その次の日、鵺野は早朝にタラバガニを持って訪ねてきた和田によって、ベッドの上で虫の息なのを発見され、すぐに担架で診療所に運び込まれた。
危篤状態の知らせを受けて、かつてのコザルたちとその子供が診療所に詰めかけて、鵺野を見守った。
鵺野は一瞬だけ目をうっすらと開けた。何かを映したかのような緑色に目を光らせて、思い馳せるような底なしの深さに満ちた。
その緑色の目に、矢又たちは驚きもしなかった。
ただありのまま、全ての存在を「神の似姿」と考えていいのだと感じるがままだった。
――変わっていくのだろう。これからも。いつまでも人間に馬鹿にされ続けるとも限らないのだ。
それだけがふと頭に浮かぶと、鵺野は目を閉じて、安らかに老衰した。