第八話 ゲリラ
昭和二十年 八月六日
飛鳥と美鈴が新京ヤマトホテルの玄関に姿を現した。
黒い車がホテルの前に止まると、運転席からイワノフが挨拶した。
「おはようございます、飛鳥さん」
「おはよう。今日はよろしく頼むよ」
飛鳥は車に乗る前に、美鈴に向き直り、お礼の言葉を述べた。
「美鈴、色々とお世話になったね。ありがとう」
「こちらこそ、短い間でしたけど楽しかったわ。道中お気をつけて」
美鈴は微笑みながら丁寧にお辞儀をした。
イワノフが車から出て後部ドアを開けると、飛鳥は後部座席に乗り込んだ。
慎重にドアを閉め、運転席に戻ったイワノフは車をゆっくり発進させる。
走り去る車を美鈴は手を振って見送った。
中央通りに出ると、行政機関や商業施設が立ち並び、車のほかにも馬車や人力車が行き交っていた。
イワノフは運転しながら飛鳥に話しかけた。
「飛鳥さんが探偵ではなくスパイだと聞いて驚きました」
イワノフは興奮した様子だった。
「そうか……」
飛鳥は苦笑しながら応えた。
「私もスパイに憧れます。今はまだ情報部の下っ端ですけど」
「イワノフは白系ロシア人だろ。満州にはどれくらいいるんだ?」
白系ロシア人とは、一九一七年のロシア革命により共産党の支配を逃れるために国外へ亡命した人々のことを指す。
「ハルピンには十万人います」
「そんなにいるのか」
「はい、私もハルピンの大学に通って日本語を勉強しました」
「頼もしいな」
「はい、私にスパイのことを色々教えてください」
飛鳥は少し考えてから尋ねた。
「君は原子爆弾のことは知ってるか?」
「はい、アメリカで開発している新型爆弾のことですね」
「アメリカの原爆開発は世界中から有能な物理学者を家族ごと集めて一つの街を作っているそうだ。莫大な費用がかかっていることは想像に難くない」
「アメリカは世界のウランを独り占めしているらしいですね」
飛鳥はため息をついた。
「満州で原爆が作れるのか?その莫大な研究費用はどこから捻出するんだろう」
疑問を口にする飛鳥に対し、イワノフは思いついたように後ろを振り返った。
「飛鳥さん、面白いものを見せてあげますよ。ちょっと寄り道していいですか?」
イワノフの提案に戸惑いつつ、飛鳥は答えた。
「ああ、いいよ」
「ありがとうございます!」
イワノフはハンドルをきって吉林方面へ車を進めた。
車が丘を越えると、一面に広がる緑色の畑が目に飛び込んできた。
飛鳥は車窓の外を眺め、その光景に見入った。
「これは……ケシか?」
飛鳥が尋ねると、イワノフが運転しながら答えた。
「そうです。春になると紫色の花が一面に咲いて、とても綺麗な眺めなんですよ」
ケシの実は一メートルくらいの茎の上に丸い形の果実をつけており、ケシ坊主と呼ばれていた。成熟する前の表皮に浅い切り込みを入れると、白い乳液がにじみ出てきて、これをかき採って集め、乾燥させると黒い粘土状の半固形の生阿片になる。畑では農民たちがケシの実に切り込みを入れる作業をしていた。
「ここで作られた阿片は天津に集められます。天津阿片市場から上がってくる莫大な利益を関東軍が握っているのです」
「阿片の利益が関東軍の資金になっていたのか……」
「そうです。関東軍は阿片の利益を使って、様々な謀略や極秘の研究開発を進めています。原爆開発の資金もそこから出しているんです」
飛鳥はケシ畑を眺めながら、関東軍が阿片によって満州国を支えている事実に危惧を覚えた。
突然、トラックが道を塞ぎ、飛鳥たちの車は急停車を余儀なくされた。
自動小銃を持った中国人たちがトラックの荷台から降りてきて、飛鳥たちの車を取り囲んだ。
イワノフの表情に緊張が走る。
「抗日ゲリラか?」
飛鳥は周囲を観察し、冷静に答えた。
「国民党軍の兵士だな。M1カービン(米国の銃)を使ってる」
中国人ゲリラが中国語でまくし立て、飛鳥とイワノフに車から出るよう命じた。
二人は抵抗する余地もなく、トラックの荷台に押し込まれた。
「すみません、ゲリラに捕まってしまいました」
イワノフは狼狽した。
「こいつら、何が目的なんだ?」
飛鳥は怪訝な表情でゲリラたちを観察していた。
トラックが走り出し、荒野へと向かって走り始めた。
辺境にある荒野に中国国民党軍のゲリラのアジトがあった。
飛鳥とイワノフは薄暗い一室に閉じ込められ、猿ぐつわをされて後ろ手に縛られていた。
しばらくすると、ドアが開き、自動小銃を持った二人のゲリラ兵が入ってくる。
その後ろから、背の高いサングラスをかけた男がアロハシャツを着て部屋に入ってきた。男は飛鳥の目の前に立ち、低い声で話しかけた。
「私はOSS(戦略情報局)のマーカス・ダンカンだ」
OSSとはアメリカの諜報機関であり、現在のCIA(中央情報局)の前身にあたる組織である。アジアでは中国国民党軍や中国共産党軍と連携し、日本軍に対する情報収集やゲリラ活動を支援していた。
「ミスター飛鳥、君が日本陸軍のスパイだということはわかっている」
マーカスはサングラスを外し胸ポケットに入れる。
「ここの連中は乱暴で困るな」と言いながら飛鳥の猿ぐつわを外した。
ゲリラ兵が椅子を用意して飛鳥に座らせる。
マーカスも飛鳥と対面で椅子に座る。
「スパイ同士、紳士的に話し合おうじゃないか」
彼は右手を差し出した。
「マイクロフィルムを渡してもらおう」
「何の事だか、わからないな」
マーカスは表情を変え、飛鳥の頬にビンタを喰らわせる。
「原爆の設計図が入ってるマイクロフィルムを持っているはずだ」
飛鳥は顔をマーカスに向け睨みつける。
「アメリカはもう原爆開発に成功してるんだろ。今さら何で原爆の設計図を欲しがる?」
マーカスはニヤリと笑う。
「原爆は世界を変えるほどの強力な兵器だ。そんな危険なものを日本には持って欲しくないからな」
「ふん、そんなに日本を恐れてるのか?」
「お前たちは何をしでかすかわからんからな。特に『特攻』は理解に苦しむ。命をかけて体当たりするなどクレイジーだ!」
左側に立っているゲリラ兵が拳銃を飛鳥に向けた。
マーカスは微笑みを浮かべる。
「殺してから探してもいいんだぞ」
その瞬間、飛鳥は後ろ手の縄抜けを完了し、咄嗟に左側に立っているゲリラ兵の拳銃を持っている右手首を掴んで捻るとゲリラ兵は悲鳴をあげる。
飛鳥は拳銃を奪って、右側に立っている自動小銃を持ったゲリラ兵の額を撃ち抜いた。次にゲリラ兵の右手首をさらに捻って怯んだところを心臓に向けて発砲する。
ゲリラ兵は絶命して地面に倒れた。
すかさず飛鳥はマーカスに銃口を向ける。
あまりの素早い身のこなしにマーカスは呆気に取られた様子で両手を上げる。
「待ってくれ!命だけは助けてくれ」
飛鳥はポケットから小型のナイフを取り出してイワノフに投げて渡す。
「自分で縄を解くんだ」
イワノフはナイフを拾って腕の縄を切る。
飛鳥は鋭い目つきでマーカスを見る。
「あんたの命は助けてやる。ここから安全に出れるように人質になってもらおう」
部屋の入口に他のゲリラ兵たちが集まってきて自動小銃で飛鳥たちを狙う。
飛鳥はマーカスを立たせて後ろに隠れ、こめかみに拳銃を当てて盾にする。
イワノフも自動小銃を拾って構える。
「う、撃つな!」とマーカスが叫ぶ。
彼の額に大粒の汗が溢れている。
飛鳥はマーカスを人質にしてイワノフとともにアジトを出る。
外には飛鳥が乗ってきた黒い車が置いてあった。
ゲリラ兵たちは自動小銃を構えて狙っているが、マーカスを人質に取られて手を出すことができない。
イワノフは車に乗り込み、エンジンをかける。
飛鳥はマーカスを盾にして後部座席にゆっくり一緒に乗りこんだ。
「はやく車を出せ!」と飛鳥が叫ぶ。
イワノフがアクセルを踏んで車は急発進する。
走り去る車を悔しそうに見送るゲリラ兵達。
荒野を走る車の中で、マーカスは不敵に笑っていた。
「何が可笑しい?」と飛鳥が問いただす。
「君はまるで忍者のようだな」
「縄抜けは得意なんでね」
「日本のスパイは大したものだ。しかし、日本はまもなく戦争に負ける」
「まだわからんぞ。こちらにも切り札があるからな」
「予言しておこう。まもなく日本に原子爆弾が落とされる」
「もう実戦投入されるのか?」
マーカスは冷ややかに笑った。
「我々が先に原子爆弾を完成させた。もう勝負はついたも同然だ」
飛鳥は愕然としつつも、冷静さを保とうと努めた。
「車を止めろ」と飛鳥がイワノフに命令する。
イワノフは車を止めた。
「降りろ。ここから歩いて帰れ」
「オーケイ!」
マーカスは車から降りる。
「この戦争も、もうすぐ終わる。無駄な抵抗だ」
「やるだけやるさ。お互い生きてれば、また会おう」
飛鳥の乗った車は走り去っていった。
つづく