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幻影の城  作者: 亜同瞬
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第七話 スパイ養成学校

 昭和十五年 十一月 東京


 松岡京助まつおかきょうすけ(二十二歳)は陸軍中野学校の二期生として入学することが決まった。

 中野学校は東京市中野区 囲町にあり、通称『陸軍中野学校』と呼ばれていたが、実際の学校名は秘匿され、看板には『陸軍通信研究所』と書かれていた。この秘密主義が、中野学校の特殊な性質を象徴していた。


 松岡は十八歳で陸軍に入隊し、基礎訓練を経て陸軍歩兵学校に進学。優秀な成績で修了した後、陸軍士官学校に進み、二年の訓練を経て少尉として任官した。彼の能力と努力が評価され、特別に選抜されて諜報員としての訓練を受けるために中野学校への入学が決まった。

 中野学校は、第二次世界大戦中の日本陸軍によって設立された特殊訓練学校であり、情報戦と工作活動に対応するためのスパイ養成機関であった。

 松岡は期待に胸を膨らませ、中野学校に足を踏み入れた。


 入学初日、新入生五十人は広々とした講堂に集められた。

 前方の壇上には、草野校長が立っていた。

 彼は恰幅の良い体格で、四角い顔に立派な口髭をたくわえ、その威厳ある姿勢がひと際目立っていた。

 草野は新入生たちを見回しながら挨拶を始めた。

「私が校長の草野だ。君たちは、これから諜報員スパイとしての教育と訓練を受けることになる。軍服を捨て、民間人になりきって諜報活動をしてもらう」

 新入生の一人が手を挙げて質問する。

「私たちは軍人ではなくなるのですか?」

 草野はその質問に対して冷静に答えた。

「そうだ。今後、敬礼や軍人的な言葉遣いは禁止する。そして、今日から諸君らには本名を捨て偽名ぎめいを使ってもらう」

 この言葉に、新入生たちは困惑した表情を浮かべた。

「軍人としての誇りとアイデンティティを捨て去ることは、容易な事ではない。だが、それは諜報員としての生き方の始まりでもある。今、世界各国が戦争に突入している。日本も中国と戦争している状態だ。戦争においてスパイが重要な働きをしているのは知っているだろう。諜報員は一個師団、二万人の兵力に値する力をもっているのだ」

 松岡は草野校長の話に耳を傾けながら、身が引き締まる思いだった。


 新入生は校内にある宿舎で共同生活を送ることになった。

 その宿舎は、大部屋に布団がずらりと並べられ、勉強机が一つあるだけの非常に簡素な環境だった。部屋には個人のスペースはほとんどなく、新入生たちは、ここで寝食を共にして学んでいくことになる。

 部屋の片隅で、新入生が軍服をバックにしまいながらぼやいていた。

「せっかく軍服を新調したのに、もう着るなとは……」

 隣で煙草を吸っていた松岡が、その新入生に尋ねた。

「君は偽名を何にしたんだ?」

「河本正雄だ。君は?」

 松岡は煙草を口に咥えながら答えた。

「俺は飛鳥京一郎だ。よろしく」


 陸軍中野学校では、諜報、謀略、宣伝、防諜などに関する特殊教育が行われていた。学科の中でも特に重要とされたのは戦争学で、その中でも兵要地誌が中心的な役割を果たしていた。

 兵要地誌とは、「地理、地形、地誌を調査して作戦に活用する情報収集と分析作業」を指す。当時の世界地図は軍事機密そのものであり、精密な地図を入手するために世界各国で諜報活動が行われていた。

 学生たちは、英国、米国、独国、仏国、伊国、蘇国(ソ連)、中国、蒙古などの国々の兵要地誌を研究することとなった。

 特別講座も設けられており、課目は気象学、交通学、航空学、心理学、統計学など多岐にわたっていた。


 午前中は講義で午後は実務訓練が行われた。暗号、無線通信技術の習得、爆発物取り扱い、拳銃やライフルなどの銃器の取り扱い方、射撃訓練などの他、自動車の操作や修理、戦闘機の操縦も教わる。

 また、武術の訓練も重視されており、剣道や柔術の練習も行われた。

 ユニークなところでは手品の授業もあり、ワインに毒を混入させるための手さばきの技術などを学んだ。

 さらに「忍術」の教育もあって、甲賀流忍者の末裔が講師を務めた。

 忍者の訓練内容も多岐に渡り、隠密行動、変装術、刀剣術、火器や爆弾の使用法、登攀術(高い壁や木に登る技術)、潜水術、情報収集、暗号解読、薬草学、毒薬と解毒、暗殺術などスパイの訓練と重なる部分も多かった。

 飛鳥は特に手裏剣が得意で、講師も驚くほどの腕前だった。


 草野校長は夜になると、生徒たちをダンスホールに連れて行った。それはスパイとしての重要な要素の一つである社交場での振舞いを学ぶための訓練だった。

 草野は生徒たちに言い聞かせた。

「テーブルマナーやダンスなどは外国での諜報活動には必要だ。大人のたしなみってやつだな。ポーカーや競馬などギャンブルも大いにやれ。相手の懐に入るには趣味やギャンブルは良い切っ掛けになる」

 飛鳥と同期の学生たちは、上品なスーツに身を包み、華やかなライトが輝くダンスホールで、必要な社交スキルを磨くことが求められた。

 事前に学校ではダンスの講師に習って男同士でダンスの練習はしているものの、本番となれば緊張するのは致し方ないところだった。

 ホールに入ると、甘美な音楽が流れ、男女が楽しげに踊っている光景が広がっている。飛鳥は緊張していたが、すぐに自分を奮い立たせ、微笑みを浮かべて一人の女性に近づいていった。

「こんばんは、一緒に踊りませんか?」

 その言葉に、女性は快く応じ、二人はダンスフロアに出た。

「あなたのお名前は?」

「飛鳥京一郎といいます」

「お仕事は何を?」

「商社の営業をやっています」

 飛鳥は音楽に合わせて軽やかにステップを踏みながら、女性との会話を続けた。彼女の名前や出身地、最近の出来事など、自然に話を引き出しながら、相手の警戒心を解きほぐしていく。こうして彼は情報収集のスキルを磨いていった。


 夜の宿舎には時折、草野校長が酒を差し入れに現れた。厳しい訓練の合間のこの時間は、学生たちにとって特別なひとときだった。

 草野が学生たちと膝を交えて語らうこの場は、思想や信条の一切のタブーが取り払われた自由な議論の場であった。ここでは、天皇制や共産主義についても遠慮なく話し合うことが許されていた。学生たちはそれぞれの考えを述べ、自由な討論が展開する。それは自分の思考で行動できる独立した人物を育てようという深い意図があった。

 草野は酒を飲みながら新入生たちに語って聞かせた。

「君たちは明石元二郎大佐を知っているか?」

「ロシア革命を支援して帝政ロシアの崩壊に導いた人ですね」と河本が答える。

「そうだ。彼は、反体制勢力に十六億円(今の金額で四百億円)もの資金を注ぎ込んだ。この資金は、武器や資材の購入、秘密組織の運営に使われ、最終的にはロシア革命の成功に大きく貢献した。日本が日露戦争に勝てたのも彼の功績が大きい」

 飛鳥や生徒たちは深く頷いて聞いていた。

「しかし、彼の目的は単に帝政ロシアを倒すことではなかった。ロシアの労働者たちは帝政の圧政に苦しんでいたんだ。その状況を目の当たりにして、ロシアの労働者たちに自由と平等をもたらすために行動を起こしたのだ。明石大佐は、自らの行動が日本の国益に繋がると同時に、ロシアの労働者たちの未来をも変えるものであると信じていた。我々は彼の工作を手本にする必要がある」

 草野は生徒たちを見回し、強い眼差しで言った。

「『謀略は誠なり』この言葉を深く心に刻んでおいてほしい。諜報活動は、時に冷酷で非情なものに見えるかもしれない。しかし、その本質には、人々の未来を守り、平和を築くという崇高な使命があるのだ」

 学生たちは草野の話で諜報員というものの本質について深く考えさせられた。


つづく

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