第五話 奉天
奉天(現在の瀋陽)は中国東北部に位置する都市で、その名は「天の命に奉じる」を意味し、満洲族出身の清朝の建国者ヌルハチによって名付けられた清朝初期の首都である。昭和六年(一九三一年)九月に柳条湖付近で鉄道爆破事件(柳条湖事件)が発生し、これを口実に関東軍は満洲全域への軍事行動を開始し、最終的に満洲を占領した。これを『満洲事変』という。
美鈴は奉天のヤマトホテルに設置されている公衆電話で関東軍情報部へ連絡を入れていた。その隣で、飛鳥はポケットから煙草の箱を取り出し中を覗き込んだ。
「空か……」とつぶやき、箱を握りつぶした。
美鈴が連絡を終えて受話器を置いた。
「情報部が車を手配してくれるそうよ」
「そうか……煙草を買いたいんだが」
「近くに商店街があるから買いに行きましょう」
二人は奉天ヤマトホテルを出て、奉天大広場へと向かった。
奉天大広場は真ん中に円形状の公園があり、それを取り囲むように六つの大きな道路が交差する環状交差点になっている。幹線道路である浪速通りは、百貨店や郵便局などが軒を連ねる繁華街で、日常生活用品から高級品まで様々な商品が取り扱われている。多くの人々が行き交い、街は活気に満ちていた。
飛鳥は浪速通りの向こうに見えるレンガ造りの立派な建物に目を奪われた。
「あれは奉天駅よ。東京駅にそっくりでしょ」と美鈴が説明した。
奉天駅は一八九九年に建設され、その後の改築でネオ・バロック様式を取り入れた。赤レンガの外壁、左右対称のデザイン、そして特徴的なドーム型の屋根が、この建物の象徴となっていた。これらの要素は東京駅と同様の建築特徴が反映されており、その壮麗な姿が街の中心にそびえ立っていた。
「そうか、どうりで懐かしい感じがしたんだ……」と飛鳥はしみじみとつぶやいた。
「日本が恋しくなりましたか?」
美鈴はくすりと笑った。
繁華街に向かって歩いていると、飛鳥は虚ろな目をした人々が道端に座り込んでいる人を何人も見かけた。彼らは疲れ果てた様子で、まるで魂が抜けたかのように見えた。
「あの人たちは何なんだ?」
「阿片中毒者よ」と美鈴は眉をひそめて答えた。
「阿片か……」
阿片とはケシの実から抽出される薬物で、古くから医療用や嗜好品として使われてきたが、その依存性により中毒者を大量に生み出していた。
「阿片は違法ではないのか?」
「満州では合法よ。国内では大量に出回っていて、誰でも気軽に阿片を吸うことができるわ。でも、依存性が高いから、中毒者も多いの」
「阿片が合法であるがゆえに、こんな惨状が広がっているのか……」
「阿片は一度手を出すと、その快楽に取り憑かれてしまうの。中毒者は次第に生活のすべてを阿片に捧げるようになり、最終的には自分を見失ってしまうのよ」
道端に座り込んでいる中毒者たちの姿は、奉天の街に暗い影を落していた。
商店街で煙草を売る店を見つけた飛鳥は煙草を購入して、一本取り出し火をつけた。
「これで、少し落ち着いた」と煙をゆっくりと吐き出した。
「まだ時間があるから、カフェで時間を潰しましょうか」
美鈴が飛鳥の腕を引いて、商店街の一角にあるカフェに向かおうとした。
「あそこは何だ?」
飛鳥がふと目線を向けると、虚ろな目をした男がふらふらと、ある建物の中に入っていくのが見えた。
「あれは阿片窟よ。行かない方がいいわ」と美鈴は警告した。
阿片窟とは、阿片を吸引するために設けられた施設のことである。
飛鳥は好奇心が抑えきれないようだった。
「ちょっと覗いてくる、君はここで待っててくれ」
美鈴が止めるのも聞かず、飛鳥は阿片窟へ吸い込まれるように入っていった。
建物の中は暗く、狭い通路の向こうに長い髭を蓄えた老人が長いキセルで煙をふかしながら座っていた。
飛鳥はカーテンの向こうへ入ろうとすると、老人が飛鳥の腕を掴む。
「勝手に入っては困るよ」
飛鳥はポケットからお札を取り出し、老人の手に握らせる。
「好きにしな」と老人は腕を離す。
飛鳥が薄暗い部屋の中に入ると、白い煙があちこちで立ち上っていた。
部屋の中には座布団や布団が敷かれていて、人々がその上で虚ろな目をして横たわっている。長い金属の阿片パイプを使って先端のボウルに阿片を置きランプの炎に近づけると、阿片がじわじわと熱せられ、香ばしい煙が立ち上る。
喫煙者はゆっくりと深く吸い込み、しばし目を閉じてその効能を味わい、煙が肺に染み渡って瞬く間に身体中に広がる恍惚感に包まれる。この動作を何度も繰り返していく。身体は肋骨が浮き出るほど痩せこけ、顔も褐色で頬がこけているが、どこか幸福感に満たされた表情をしている。飛鳥は阿片を吸う人々を眺めながら満州の暗い闇の部分を見たような気がした。
――飛鳥の背中に銃が突きつけられる。
「探しましたよ、飛鳥さん」
ネヴィル商会の三浦だった。
「しつこいんだな」
「こんなところで道草とはね。一服していきますか?」
「いや、やめとく」
三浦が不敵に笑い
「あなたの正体がわかりましたよ」
「何のことだ」
「あなたはただの探偵じゃないってことです」
「……」
飛鳥は沈黙する。
「元諜報員ですよね?」
三浦は飛鳥の耳元で囁くように言う。
「そうでなきゃ特務機関が探偵に重要な軍事機密を渡すわけがない。我々は木村さんを追跡していたんです。その線上にあなたが浮かび上がってきた」
「やはり……貴様らが木村を殺したのか」
「私じゃありませんよ。我が社が雇ったエージェントが止むを得ず殺してしまったんです」
飛鳥は怒りで全身が震えていた。
「責任は取ってもらうぜ!」
飛鳥は右肘で三浦の胸元を突いた。
「ぐはっ!」
三浦が前屈みになったところを、飛鳥は振り返って左手で拳銃を掴む。
拳銃を取られまいと三浦が必死で抵抗する。
拳銃から銃弾が床に向かって撃たれ、銃声が部屋に響き渡る。
阿片中毒者達は我関せずで、ひたすら阿片を吸っていた。
飛鳥は拳銃を持った三浦の腕を捻る。
「うわっ!」
痛さのあまり拳銃を落す。
飛鳥は三浦の腹部に鋭い膝蹴りを入れる。
たまらず地面に倒れ、痛みに悶える三浦。
飛鳥は拳銃を拾って三浦の眉間に銃口を突きつける。
「許してくれ……命だけは助けてくれ」
三浦は命乞いをする。
怒りを露わにした目つきで三浦を睨んでいる飛鳥。
「あの世で木村に謝ってこい」
三浦の顔が恐怖に震えている。
「助けてくれー!」
三浦の頭部を拳銃のグリップ底で殴って気絶させる。
飛鳥は大きく深呼吸をして心を落ち着け、拳銃を捨てて部屋を出ていった。
阿片窟から飛鳥が出てくると美鈴が歩み寄る。
「吸ってきたの?」
「いや……」と飛鳥は首をふった。
「阿片は人間をダメにする危険なモノよ。近寄らない方がいいわ」
通りの向こうから帽子を目深に被った背の高い男が近づいてくる。
「ネヴィル商会のボディガードだ」
「え?」
「走るぞ!」
飛鳥は美鈴の手を引っ張って走り出す。
ボディガードも走って追いかけてくる。
「追ってくるわ」
「撒くぞ!」
二人は人が行きかう賑やかな商店街の中を走って突っ切っていく。
飛鳥と美鈴は人混みに紛れ込みながら撒こうとするが、ボディガードは巧みに避けながら二人との距離を詰めてくる。
「こっちだ!」
飛鳥は美鈴の手を強く握り、狭く曲がりくねった路地裏へと入り込んだ。
路地裏は暗く、古い建物がひしめき合っていて、椅子やテーブル、ゴミ箱、酒のケースなどが道をふさいでいた。飛鳥と美鈴は障害物を避けながら必死に走った。
ボディガードが走りながら銃を撃つ。
「きゃっ!」と銃弾に驚き美鈴が叫ぶ。
飛鳥は美鈴を先に行かせ、庇うように走る。
ようやく路地裏を抜けて大通りに出た。
美鈴は激しい息遣いで苦しそうだった。
飛鳥はそれを見てタクシーを探す。
そこへ黒い車が走りこんできて二人の近くに止まる。
「早く乗って!」
飛鳥と美鈴は車の後部ドアを開けて乗り込むと、車はタイヤから白煙を出しながら急発進する。追いかけてきたボディガードは走り去る車を見て、悔しそうに地面を蹴っている。
「ありがとう、助かったよ」と飛鳥は運転手に感謝する。
「どういたしまして」
運転席には流暢な日本語で返事をする青い目のロシア人の男がいた。
彼の名はセルゲイ・ボリソヴィチ・イワノフ。二十四歳。身長百七十八センチメートルの長身ながら年齢の割に若々しい顔立ちをしている。
「私はイワノフと申します。関東軍情報部で働いてます。よろしくお願いします」
意表を突かれた飛鳥は気を取り直す。
「俺は、飛鳥京一郎だ」
飛鳥は車のシートに身を沈める。
「情報部は国際色豊かだな……」
イワノフは笑顔で後ろを振り返る。
「それでは新京の関東軍司令部へ向かいますね」
車を運転しながらイワノフは飛鳥に話しかける。
「飛鳥さんは探偵をやってるんですか?」
「ああ、そうだよ」
イワノフは興奮したような表情をしている。
「私、ミステリーが大好きで、シャーロックホームズの本をよく読んでたんですよ」
「悪いが、俺は殺人事件の推理なんかできないぜ。あれはあくまで小説の世界だ」
「えー、そうですか。私を相棒にして欲しかったのに」
「残念だな、ワトソンくん」
美鈴がクスクス笑う。
「イワノフは日本語が上手だな。どこで覚えたんだい?」
「子供のころ日本人の友達がいました。その子から日本の漫画や小説を借りて読ませてもらったんです」
「なるほどね、漫画で日本語を学んだわけだ」
「はい!」
飛鳥はイワノフの子供のような無邪気さに思わず顔が綻んだ。
「満州には、けっこうロシア人がいるんだね」
「はい、十九世紀末にロシア帝国がシベリア鉄道を延長して満州に進出したところから始まります。この鉄道建設に伴い、多くのロシア人技術者や労働者が移住してきたんですよ」
「日露戦争でロシアは日本に負けたけど満州にそのまま留まったわけだ」
「それだけではないんです。一九一七年のロシア革命の影響で多くの白系ロシア人(反革命派)が満州に避難してきました。ハルピンには二十万人のロシア人がいるんです」
「そうなのか……」
「関東軍には白系ロシア人の部隊があるんですよ。『浅野支隊』と呼ばれて三千五百人のロシア人兵士が所属しているんです」
「ロシア人だけで部隊作って大丈夫なのか?」
「安心してください、みんな共産主義に反抗して満州に来てますから」
イワノフは飛鳥の方を振り向く。
「私もソ連は大嫌いです!関東軍情報部に入ったのもソ連から満州を守るためでもあります」
美鈴が手を叩いて喜ぶ。
「イワノフは偉いわね」
誇らしげにイワノフは車を運転していた。
つづく