第三話 大連
八月五日午前二時に、飛鳥を乗せた輸送機は大連の空港へと到着した。
着陸した輸送機のエンジン音が止まり、滑走路に静寂が戻る。
まだ辺りは暗く、人気もないため静かだった。
空には薄暗い雲がかかり、月明かりがぼんやりと滑走路を照らしていた。
飛鳥が機内から出てきてタラップを降りると、小ぶりな帽子を斜めに被り、灰色のジャケットにタイトスカート姿の美しい女性が笑みを浮かべながら、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「はじめまして、李美鈴と申します。関東軍情報部から案内役としてまいりました。よろしくお願いいたします」
彼女は二三歳で、身長は百六十センチメートル。艶やかな黒髪に澄んだ瞳は知性を感じさせる。透き通るような白い肌が美しさを際立たせ、そのたたずまいには気品があり、凜とした美しさがあった。
「飛鳥京一郎です」
飛鳥は、強面の男が迎えに来るのかと思っていたので、戸惑いを隠せなかった。
「長旅でお疲れでしょうから、ホテルをご用意しております」
「ありがとう」
「さあ、こちらへ」
美鈴は笑顔でエンジンをかけたまま待機している黒い車へ誘導する。
飛鳥と美鈴は車の後部座席車に乗り込んだ。
「ホテルまでお願いします」
車は発進してホテルへ向かって走っていった。
大連は遼東半島の南端にある港湾都市で十九世紀末に帝政ロシアの租借地となり、ロシアの影響下で急速に発展した。一九〇五年の日露戦争後、日本の租借地になり、日本の統治下で、街はさらに発展し、インフラが整備され、多くの日本人が移住してきた。満州国が建国されると、実質的には日本の管轄下に置かれていた。
飛鳥は移り変わる車窓の外をじっと眺めていた。大連の街並みは洋館が立ち並び、エチゾチックな雰囲気が漂っていて、ロシアが支配していたころの西欧の雰囲気が残っていた。戦争の影響をほとんど受けておらず、整然とした美しい街並みが広がっていた。立派な洋館や道の両側に立ち並ぶアカシアの木を見ながら、彼の脳裏には、横浜で見た荒廃した風景が蘇り、日本とは対照的に、この街はまるで別世界のようだった。
「ここは日本より近代化が進んでるんですね」
「満州国は建国してまだ十三年ですから、日本と比べたら歴史は浅いんです。建物もロシアや日本の文化が合わさって和洋折衷の様式が特徴的なんですよ」
「なるほど」
美鈴が飛鳥の方を向いて顔を寄せてくる。
「飛鳥さんにお願いがあります」
「何ですか?」
「私の夫になってくれますか?」
美鈴は飛鳥の顔をじっと見つめている。
「えっ、いきなり何ですか……」
飛鳥は驚き、戸惑いの表情を浮かべる。
美鈴がクスッと笑う。
「一般市民に紛れるための偽装です。本物の夫婦ではありません」
「ああ……なるほど」
「これからは美鈴と呼んでくださいね」
「はい……」
飛鳥は照れくさそうにうなずいた。
「フフフ」
美鈴は、その様子を見て笑っていた。
車は大連の中心部に位置する大広場をゆっくりと通り抜け、やがて壮麗な建物が見えてきた。車はその建物の前で止まり、飛鳥は目の前にそびえ立つ豪華なホテルを見上げた。
「ここに泊まるんですか?」
「はい、大連一の高級ホテル、ヤマトホテルです」と美鈴が誇らしげに答えた。
大連ヤマトホテルは、南満洲鉄道が経営する高級で格式の高いホテルである。ルネッサンス様式の煉瓦造りの四階建ての建物は、その優雅なデザインで訪れる人々を魅了していた。
飛鳥と美鈴が車から降りると、ドアマンが丁寧に挨拶をし、彼らを迎え入れた。エントランスへと足を踏み入れると、高い天井と豪華なシャンデリアが目に飛び込んできた。大理石の床には美しい模様が描かれ、壁には豪華な装飾が施されていた。
「このホテルは、歴史と格式を兼ね備えた場所で、多くの重要人物が宿泊してるんですよ」
「ここに泊まれるとは光栄だね」
フロントカウンターでチェックインを済ませ、二人はエレベーターに乗りこんだ。
「午前九時に新京行きの列車に乗りますから、八時にはここを出発します」
飛鳥は腕時計を見る。
「午前三時か、五時間は寝れるかな……」
エレベーターが開き三階で降りる。
「京一郎さんは三〇二号室になります」
美鈴は部屋の鍵を飛鳥に渡す。
「それではお休みなさい」
「ああ、お休み」
美鈴は隣の部屋へ入っていく。
「そうか、部屋は別々なのか……」
飛鳥は肩をすくめて鍵を開けて部屋に入った。
ホテルの部屋で飛鳥はアルミ缶から十六ミリのマイクロフィルムを取り出し、ランプの光にあてて見てみた。
「んー、何かの設計図のようだが……」
兵器の設計図のようだったが詳しくはわからなかった。
「こいつが戦争をひっくり返すようなものなのか……」
煙草に火をつけて煙を燻らす。
「やっかいな事に巻き込まれちまったな」
ベッドに横になり、ため息をついた。