第一話 横浜
昭和という時代を舞台にした探偵ものを書きたいと思っていました。
未知の危険な冒険に身を投じる探偵が活躍する冒険探偵小説というジャンルを作っていきたいと思います。
昭和二十年(一九四五年)八月四日
夜の山下埠頭は人気もなく暗く静まり返っていた。遠くには停泊する船のシルエットが、ぼんやりとした月明かりに浮かび上がり、その幻想的な風景が静寂を一層際立たせている。
その静寂を破るように、足音が響き渡った。
黒い背広に中折れ帽をかぶった男が拳銃を片手に抱えて周囲を見回していた。 足音が遠ざかると、物陰に隠れていた一人の男が、お腹を手で押さえ、よろめきながら立ち上がった。白いシャツの腹部は血で赤く染まり、地面に血が滴り落ちていた。顔は蒼白で、痛みに歪んでいるが、その目には強い意志が漲っていた。
――撃った相手は何者かわかっている。
彼が持っている物を奴等は欲しがっているのだ。
ポケットの中に入っている物を握りしめ、奪われる前に早くこれを、ある人物に渡さなければならないと心に誓う。
目の前が霞み、まっすぐ歩けない中、彼は痛みに耐えながら、自分を奮い立たせ歩き続けた。道の先にある小さな明かりを頼りに、彼は点々と血の跡を残しながら暗闇の中を進んで行く。古い石造りのビルの前にたどり着いた彼は、息を切らしながら立ち止まり、その全ての力を振り絞って一歩を踏み出した。
伊勢佐木町にある薄暗いバーの片隅で、ウィスキーのグラスを片手にビリヤードに興じている男がいる。
男の名は飛鳥京一郎。
年齢は二十八歳。探偵を生業としている。身長は百七十センチメートルで体型は中肉中背。ポマードのきいた長髪に鼻筋の通った整った顔に鋭い目つきをしている。
飛鳥は最初のブレイクショットを放ち、見事に球を散らして一番ボールを鮮やかにポケットに沈めた。バーの常連たちは、そのショットにざわめき、飛鳥のテクニックに見入っていた。飛鳥は冷静に次々とショットを決めていく。
その動きには無駄がなく、機械のように正確だった。
観客の視線は飛鳥に釘付けになり、一挙手一投足を見逃すまいと見守っていた。
ここまでブレイクからノーミスで八番ボールを決めている。
飛鳥は煙草をふかしながら、キューの先をチョークで丁寧に塗り、ゆったりと台の周りを歩いた。
「あんた、今日は調子がいいな」
対戦相手の無精ひげの男がからかいながら、煙草の煙を吐きつつ笑った。彼の声には皮肉が混じり、飛鳥を挑発しているようだった。
飛鳥はその言葉に反応して一瞬立ち止まり、無精髭の男を一瞥した。
再び前屈みに台を覗き込み、手球と九番ボールの位置を冷静に確認した。
バーの中は緊張感に包まれ、全員が彼の動きに息を呑んで見守っていた。
飛鳥の集中力は鋭く研ぎ澄まされていた。
彼はキューを握りしめ、慎重に九番ボールに狙いを定めた。
静寂の中で、一呼吸を置いてからゆっくりとキューで手球を突いた。
手球が滑らかに転がり、衝突音とともに九番ボールに当たった。
九番ボールは右隅のポケットに吸い込まれるように沈んでいった。
その瞬間、バーの中は歓声と拍手に包まれた。
無精髭の男は唖然とし、やがて苦笑いを浮かべた。
「調子はまあまあかな」と飛鳥は控えめに微笑みながら左手を差し出した。
無精髭の男はポケットから皺くちゃのお札を取り出し、飛鳥に渡して立ち去っていった。バーの常連たちは、飛鳥の卓越したショットに感嘆し、彼の肩を力強く叩いて健闘を称えた。
飛鳥はカウンターへ行き、空のグラスを置く。
「マスター、おかわり」
口ひげをたくわえたバーのマスターがウィスキーをグラスに注ぎ込む。
「京ちゃん、今日は稼いだんじゃないか」
「酒代で消えちまうよ」
飛鳥はカウンターに戻ってウィスキーを呷る。
「今のご時世、探偵業は儲からないか」
「ああ、開店休業状態だね」
「東京も空襲で焼野原になって、横浜も空襲でやられちまった。辛うじてこのビルは焼けずにすんだけど、沖縄もアメリカに占領されちまったし、これから日本はどうなるのかねー」
「……さあ、わからないな」
飛鳥はダーツボードから矢を引き抜く。
「このまま日本が負けたらアメリカの奴隷になるか、一億玉砕か――」
マスターはグラスを磨きながらぼやく。
「どっちも嫌だね」
飛鳥がダーツの矢をボードに投げると、ど真ん中に矢が突き刺さる。
「今日はツケにしておいてくれ」
そう言うと飛鳥は背広を着てソフト帽を被りバーを出ていく。
ビルの外に出ると、日も暮れて暗くなっており、目の前には一面の焼野原が広がっていた。その光景は見るも無惨で、かつての伊勢佐木町の繁栄を感じさせる痕跡は全く残っていなかった。
五月二十九日、横浜は米軍による激しい空襲に見舞われた。米軍の爆撃機が無差別爆撃で投下した無数の焼夷弾は、街を焼き尽くし、大規模な火災を引き起こした。横浜市の中心街は瞬く間に地獄絵図と化し、約一万人の命が奪われた。
飛鳥は焼け跡を見つめながらポケットから煙草を取り出し、火をつけた。
深く一息吸い込んでから、ゆっくりと煙を吐き出した。
「もう負けだろ……」
飛鳥は自嘲気味につぶやいた。
その声は、静かな夜に虚しく響いた。
伊勢佐木通りから吉田橋を渡り、しばらく歩くと南京町(現在の中華街)が視界に広がってきた。この地域も空襲によって多くの建物が破壊されたが、焼け跡の廃材を組み合わせたバラック小屋や屋台が立ち並び、異様な活気を見せていた。戦禍の混乱の中で、ここだけは生きるエネルギーが溢れ出しているかのようだった。
人々が行き交う中、飛鳥は人ごみをかき分けて歩いていた。そのとき、ある屋台から彼を呼ぶ声が聞こえる。
「先生!晩飯食べてくか!」
中華料理の屋台を営む周の声だった。
彼の作る炒飯は絶品で、飛鳥はその味が気に入って、いつしか常連となっていた。
飛鳥は笑顔を浮かべながらボロボロの木の椅子に腰を下ろす。
「ちょうど、腹が減ってたところだ。炒飯をくれ」
「あいよ!」
周は元気よく応え、素早く調理を始めた。
油が熱せられ、大鍋をダイナミックに振ると具材とご飯が激しく混ざり合っていく。その音と香りが飛鳥の食欲を一層掻き立てた。
周の見事な手際で、あっという間に炒飯が出来あがった。
「はい、出来たよ!」
周が笑顔で差し出した炒飯は、湯気を立てて香ばしい香りを放っていた。
飛鳥は炒飯を受け取り、一口頬張った。
熱々の炒飯が口の中に広がり、心地よい満足感が全身に広がる。
「やっぱり、美味いな」
飛鳥は貪るように炒飯を頬張った。
明日どうなるとも知れない世の中だからこそ腹だけは満たしておきたい。そう思いながら炒飯を味わっていた。
焼け焦げた街の中で、ここだけは心温まる場所だった。
食事を終えた飛鳥は、夜の南京町の雑踏を抜け、山下公園の方向へ向かった。
空襲で焼け残った古い石造りのビルに飛鳥の探偵事務所がある。
彼はビルの階段を上りながら、薄暗い照明の下で異変に気付いた。
階段に点々と血の跡が上へ続いていたのだ。
「何だ?」
二階へ上ると事務所前の廊下に男が倒れていた。
男の身体からは血が溢れて床に広がっている。
急いで男の元に駆け寄った。
「おい、大丈夫か?」
覗き込むと知っている顔だった。
「木村?」
抱き起こすと男のシャツの腹部は血で真っ赤に染まっていた。
「飛鳥……」
青い顔した木村が目を開け、飛鳥を見る。
「誰にやられたんだ?」
木村はポケットから十センチメートル程の丸いアルミ缶を取り出して飛鳥に手渡した。
「これを満州の関東軍司令部まで持って行ってくれ……」
木村は激痛に顔をしかめ苦しむ。
「しっかりしろ、すぐに助けを呼ぶからな」
木村は飛鳥を見つめ涙を流す。
「……すまない……」
飛鳥の手を握りしめて木村は息絶えた。
「……誰が、おまえをこんな目に――」
悲しみと怒りの感情がない交ぜになり、飛鳥の身体は震えていた。
――階下に人の気配がした。
「追手か?」
事務所のドアを開け、木村の身体を引きずって中に引き入れた。
階段を登る足音が響き渡り、その音がゆっくり近づいてくる。
黒服の男が、右手に拳銃を構え、注意深く事務所のドアの窓から中を覗き込んだ。
薄暗い部屋の中央には、木村の死体が見える。
男は慎重に事務所のドアを開け、警戒しながら部屋に足を踏み入れた。
拳銃を構えたまま、男が部屋を見回すと、机の上にアルミ缶が置かれているのが目に入り、手を伸ばした。
その瞬間、机が勢いよく動き、男の腹部に強烈な衝撃が走った。
「ぐはっ!」
男はうめき声を上げ、痛みで一瞬動きが止まった。
机の向こう側から手が素早く伸びて、アルミ缶を奪取する。
男は体勢を立て直し、反射的に数発の銃弾を放った。
銃声が部屋に響き渡り、窓ガラスが砕け散る。
机から手が出て男に向けて素早く何かを投げつける。
「うっ!」
男の右手首にダーツの矢が刺さり、その痛みで拳銃を落とす。
その瞬間、飛鳥は割れた窓ガラスに体当たりし、二階の窓から飛び降りた。
つづく