現代の怪談
その日、私は仕事で古びたビルに足を踏み入れた。
ビルは都心から少し外れた場所にあり、周囲には同じように古い建物が立ち並んでいた。しかし、このビルだけが妙に浮いているように感じられた。外壁の色が周囲と違和感なく溶け込んでいるにもかかわらず、どこか異質な雰囲気を漂わせていたのだ。
私は深く考えることなく、エントランスの自動ドアをくぐった。
「失礼します」
声をかけたが、誰も応答しない。受付には人の気配がなかった。
時計を確認すると、午後2時を少し回ったところだった。昼休憩が終わったばかりの時間帯としては、妙に静かすぎる。
不安を感じながらも、私は目的の会社がある5階へ向かうためにエレベーターのボタンを押した。
扉が開くと、中は薄暗かった。蛍光灯の一つが切れているようだ。躊躇いながらも、私は中に入った。
「5階...」
ボタンを押すと、エレベーターがゆっくりと上昇を始めた。
妙な違和感を覚えながら、私はエレベーターの中で深呼吸をした。大丈夫、ただの古いビルだ。何も変なことなんて起きない。
そう自分に言い聞かせていると、突然エレベーターが大きく揺れた。
「っ!」
思わず手すりを掴む。揺れは収まったが、エレベーターは動きを止めてしまった。
ディスプレイを見ると、4階と5階の間で停止しているようだった。
「まさか...」
非常ボタンを押すが、反応がない。携帯電話を取り出すが、圏外だった。
「どうしよう...」
不安が募る中、突然エレベーターが再び動き出した。しかし、上昇ではなく下降を始めたのだ。
ディスプレイの数字が、4、3、2、1と減っていく。そして、地下1階で止まった。
「ここは...」
扉が開くと、そこは薄暗い廊下だった。蛍光灯が点滅を繰り返している。
私は躊躇いながらも、エレベーターを出た。このまま中にいても仕方がない。どこかに非常階段があるはずだ。
廊下を進むと、両側に複数の部屋が並んでいた。どの扉も古びており、錆びついた金属の名札がかかっている。しかし、名前は読み取れないほど擦れていた。
「誰かいませんか?」
声をかけるが、返事はない。館内放送が聞こえてくるわけでもない。
不気味な静寂の中、私は廊下を進んでいった。
突然、後ろから物音が聞こえた。
振り返ると、一つの扉がゆっくりと開いていく。
「...誰か、いるんですか?」
おそるおそる近づくと、扉の向こうは真っ暗だった。
中をのぞき込もうとした瞬間、何かが私の足首を掴んだ。
「きゃっ!」
慌てて後ずさりすると、扉が勢いよく閉まった。
心臓が激しく鼓動する。何だったのだろう。幻覚だろうか。いや、確かに何かが触れた感触があった。
震える足で、私は再び歩き始めた。
廊下の先に階段を見つけ、そこへ向かう。しかし、上に登ろうとしても、どこまでも同じ景色が続く。何階分登っただろうか。腕時計を見ると、針が狂ったように回り続けている。
「ここは...一体...」
疲れ果てた私は、階段の踊り場に腰を下ろした。
そのとき、遠くから微かに人の話し声が聞こえてきた。
「誰かいるの!?」
声の方向に向かって走り出す。廊下を曲がり、また階段を上る。
声はだんだん大きくなっていく。
そして、一つの部屋の前で立ち止まった。ドアの向こうから、確かに人の話し声が聞こえる。
恐る恐るノブに手をかけ、ゆっくりと開けた。
「あの、すみませ...」
言葉が喉に詰まった。
部屋の中には誰もいなかった。だが、古びたテレビが一台、ノイズの中から人の声を発していた。
画面に近づくと、そこには見覚えのある光景が映っていた。
都心から少し外れた場所にある古いビル。そして、そこに入っていく私自身の姿。
「これは...」
突然、画面が激しくノイズで乱れ、そして真っ暗になった。
代わりに、部屋の隅にあった鏡が妙に輝きを増す。
おそるおそる近づくと、鏡の中の私が、こちらに向かって手を伸ばしてきた。
思わず後ずさりしたその時、背中が何かにぶつかった。
振り返ると、そこには見知らぬ男性が立っていた。
「お客様、お待たせいたしました」
男性は丁寧に一礼した。
「あの...ここは...」
「こちらでございます。会議室の準備が整いました」
男性は私を促し、部屋を出た。
混乱しながらも、私はその後を追った。
廊下に出ると、そこは最初に入ったはずの5階だった。
「どうぞ、こちらへ」
案内された会議室のドアを開けると、中には商談の相手が待っていた。
「お待たせしました。道に迷ってしまって...」
私は言い訳をしながら席に着いた。
商談は通常通り進み、特に問題なく終了した。
エレベーターで1階に降り、ビルを出る。
外の空気を吸い込むと、やっと現実に戻ってきた感覚がした。
振り返ると、ビルは何事もなかったかのように佇んでいる。
「あれは...夢...?」
そう呟きながら歩き出した私の後ろで、ビルのシルエットが一瞬歪んだように見えた。
しかし、再び振り返ったときには、いつもの古いビルの姿に戻っていた。
私は首を横に振り、急ぎ足で その場を立ち去った。
二度と、あのビルには近づくまいと心に誓いながら。
影の階段
それから一週間が過ぎた。
あの日の出来事は、どこか現実離れした夢のような記憶となっていた。思い出そうとしても、断片的な映像が頭の中を駆け巡るだけで、はっきりとした輪郭を結ばない。
そんなある日、再びあのビルを訪れるよう上司から指示があった。
「どうしても避けられないのか」と尋ねたが、重要な取引先だという。仕方なく、私は再び足を踏み入れることになった。
エントランスに立つと、前回と同じように妙な違和感が襲ってきた。しかし今回は、受付に中年の女性が座っていた。
「お世話になります」
声をかけると、女性は穏やかな笑みを浮かべて応対してくれた。
「○○様ですね。5階の△△商事さまがお待ちです」
普通のオフィスビル。普通の受付。何も変わったことはない。
そう自分に言い聞かせながら、私はエレベーターに乗り込んだ。
ボタンを押し、扉が閉まる。上昇を始めたエレベーターの中で、私は深呼吸を繰り返した。
「大丈夫。何も起こらない」
そう呟いた瞬間、エレベーターが急停止した。
ディスプレイを見ると、3階と4階の間で止まっている。
「ま、まさか...」
動揺する私をよそに、エレベーターはゆっくりと下降を始めた。
「嘘でしょ...」
ディスプレイの数字が、3、2、1と減っていく。そして、またしても地下1階で止まった。
扉が開く。
前回と同じように、薄暗い廊下が広がっていた。
「どうして...」
混乱する私の耳に、かすかな足音が聞こえてきた。
廊下の奥から、ゆっくりと近づいてくる。
「誰...誰かいるんですか?」
声を震わせながら問いかけるが、返事はない。
足音はどんどん近づいてくる。そして、薄暗がりの中から、一つの影が浮かび上がった。
人の形をしているが、どこか違和感がある。輪郭がぼやけていて、まるで霧のようだ。
その影は、私の前で立ち止まった。
「あの...」
言葉を発した瞬間、影が動いた。
私に向かって腕を伸ばし、そのまま体当たりをしてきたのだ。
「きゃっ!」
反射的に目を閉じる。しかし、予想していた衝撃はなかった。
恐る恐る目を開けると、影は消えていた。
代わりに、私の体が薄っすらと発光しているように見える。
「これは...」
自分の手を見つめていると、壁に映る影が動いた。
私が右手を上げると、影も右手を上げる。しかし、その動きはわずかに遅れていた。
「冗談でしょ...」
パニックになりかけた私は、とにかくその場から逃げ出そうと階段を探した。
廊下を走り回るうちに、ようやく階段を見つける。
しかし、上に登ろうとしても、どこまでも同じ景色が続く。何階分登っただろうか。時計を見ても、針が狂ったように回り続けている。
「ここから出られないの...?」
絶望的な気分になりながら、私は階段を上り続けた。
そのとき、ふと違和感を覚えた。
自分の足音が、妙に空虚に響く。
振り返ると、私の影が階段を下っていくのが見えた。
「え...?」
驚いて自分の体を確認すると、確かに影はついている。しかし、階段を下る影もまた確かに存在していた。
混乱する私をよそに、分離した影はどんどん下っていく。
「待って!」
私は慌てて影を追いかけた。
階段を駆け下りる。しかし、影との距離は縮まらない。
やがて影は、一つの扉の前で立ち止まった。
私が追いつくと、影はそのままドアをすり抜けていった。
「くっ...」
恐る恐るドアノブに手をかける。
ゆっくりと開けると、そこには広大な空間が広がっていた。
天井が見えないほど高く、床には霧のようなものが漂っている。
部屋の中央には、一枚の巨大な鏡が立っていた。
私は震える足で、その鏡に近づいた。
映り込む自分の姿。しかし、その後ろには影がない。
「私の影は...」
そう呟いた瞬間、鏡の中の自分が動いた。
こちらとは別の意思を持つように、鏡の中の私は笑みを浮かべた。
そして、ゆっくりと手を伸ばしてきた。
恐怖で体が硬直する。逃げなければと思うのに、足が動かない。
鏡の中の手が、ガラスの表面に触れる。
次の瞬間、鏡が砕け散った。
「うわっ!」
反射的に顔を覆う。しかし、予想していた衝撃はなかった。
恐る恐る目を開けると、そこにはいつもの会議室があった。
「○○さん、大丈夫ですか?」
「○○さん、大丈夫ですか?」
声に驚いて顔を上げると、目の前には取引先の担当者が心配そうな顔で立っていた。
「あ、はい...少し目眩がして...」
私は言葉を濁しながら、周囲を確認した。
いつもの会議室。窓からは街の喧騒が聞こえる。
机の上には資料が広げられ、コーヒーカップが置かれている。
「本当に大丈夫ですか?顔色が悪いようですが」
「はい、大丈夫です。申し訳ありません、少し休ませてください」
私は立ち上がり、廊下に出た。
トイレに向かう途中、大きな鏡の前で足を止めた。
鏡に映る自分の姿。髪は乱れ、顔は青ざめている。
しかし、確かに影はあった。
ほっと胸をなで下ろしたその時、鏡の中の私が一瞬だけ笑ったように見えた。
慌てて目をこすると、そこには疲れた顔の私が映っているだけだった。
「気のせい、きっと気のせい」
そう何度も呟きながら、私は会議室に戻った。
商談は何とか終わり、帰り際、受付の女性に声をかけられた。
「お疲れ様でした。お客様、これをお忘れですよ」
差し出されたのは、見覚えのない古びた手帳だった。
「いいえ、これは私の...」
言いかけて、手帳を開いてみる。
最初のページには、確かに私の名前が記されていた。
しかし、字体が少し違う。まるで誰かが私の筆跡を真似て書いたかのようだ。
「あの...」
受付の女性に尋ねようとしたが、彼女はもういなかった。
受付には誰もおらず、さっきまでそこにあったはずの椅子すら消えていた。
動揺しながらも、私は急いでビルを出た。
外の空気を吸い込むと、ようやく現実に戻ってきた感覚がした。
しかし、手には依然としてあの不思議な手帳がある。
アパートに戻った私は、恐る恐る手帳を開いた。
最初のページには私の名前。
そして次のページからは、見覚えのない文字で日記のようなものが綴られていた。
『また、あの場所に行った。
時間の流れが歪む場所。影が実体を持つ場所。
私はそこで何かを失ったのかもしれない。
でも、何を失ったのかさえ思い出せない。』
『鏡の中の私は、本当に私なのだろうか。
それとも、失われた何かの欠片なのだろうか。
今日も、廊下の影が私を追いかけてくる。
逃げなければ。でも、どこへ?』
ページをめくるたびに、私の中に奇妙な既視感が湧き上がる。
まるで自分が書いたもののように感じられるのに、同時に全く見覚えがない。
そして最後のページ。
そこには、今日の日付で次のように書かれていた。
『私は、ようやく気づいた。
あのビルは、現実と非現実の境界。
そして私は、その境界を彷徨っている。
いつまで彷徨えばいいのだろう。
いつになれば、本当の私に戻れるのだろう。』
手帳を閉じた瞬間、部屋の電気が消えた。
窓の外を見ると、街全体が停電したかのように真っ暗だ。
そして、闇の中で何かが動く気配がした。
振り返ると、薄暗がりの中に人影が見える。
しかし、どこか輪郭がぼやけている。
「誰...誰?」
声を振り絞る私に、影はゆっくりと近づいてきた。
そして、かすかな声で囁いた。
「私は...あなた」
その瞬間、影が私に飛び込んでくる。
意識が遠のく中、私は気づいた。
これは終わりではない。新たな始まりなのだと。
目が覚めると、私はあのビルのエレベーターの中にいた。
ディスプレイには「B1」の文字。
扉が開く。
そこには、薄暗い廊下が広がっていた。
「ここが、私の居場所なのかもしれない」
そう呟きながら、私は一歩を踏み出した。
廊下の先には、無数の扉が並んでいる。
それぞれの扉の向こうに、別の現実が広がっているのかもしれない。
私は深呼吸をして、一つの扉に手をかけた。
「さあ、本当の私を探す旅が始まる」
そう言って、私は扉を開けた。
# 鏡の階
扉の向こうは、予想に反して明るかった。
天井まで届くほどの大きな窓が並び、その向こうには青い空が広がっている。
しかし、よく見ると空に雲が一つもない。まるで絵に描いたような不自然さだ。
部屋の中央には、大きな会議テーブルがあった。
その周りには、背の高い椅子が十脚。
そして、それぞれの椅子に人が座っている。
「やっと来たわね」
声の主は、テーブルの一番奥に座る女性だった。
彼女は私とよく似ている。いや、正確には私そのものだ。
「あなたは...私?」
「そう、私たちは皆、あなた。あるいは、あなたの一部」
女性が言うと、他の人々も顔を上げた。
驚いたことに、全員が私にそっくりだった。
「どういうこと...?」
「説明するわ」
女性は立ち上がり、窓際に歩み寄った。
「このビルは、現実と非現実の境界にある。そして、この部屋は境界の中心。ここでは、可能性のすべてが交差する」
「可能性?」
「そう。私たちは皆、あなたの可能性。選ばなかった道、諦めた夢、失われた記憶...」
女性の言葉に、私は戸惑いを隠せない。
「でも、なぜ私がここに?」
「あなたが迷っているから。自分が何者なのか、どこに向かうべきなのか、見失ってしまった」
その言葉に、胸が痛んだ。
確かに最近、自分の人生に迷いを感じていた。
仕事も、人間関係も、すべてが上手くいっていないような気がしていた。
「私たちは、あなたを導くために集まった」
テーブルに座る別の私が口を開いた。
彼女は眼鏡をかけ、知的な雰囲気を醸し出している。
「しかし、選択するのはあなた自身よ」
今度は、スポーツウェアを着た私が言った。
彼女の腕には筋肉がついている。
「待って、何を選ぶってこと?」
「あなたの未来」
窓際の女性が再び話し始めた。
「この部屋を出るとき、あなたはどの私になるか選ばなければならない。そして、選んだ可能性とともに現実に戻るの」
「でも、どうやって選べばいいの?」
「それぞれの私たちと話してみるといいわ。私たちの人生、経験、感情を知って」
そう言うと、女性は私に椅子を勧めた。
私は戸惑いながらも席に着いた。
そして、一人一人の「私」と対話を始めた。
知的な私は、研究者としての人生を歩んでいた。
常に新しいことを学び、世界の謎を解き明かすことに情熱を注いでいる。
スポーツウェアの私は、オリンピック選手だった。
肉体を極限まで鍛え上げ、限界に挑戦し続ける人生。
芸術家の私は、感性豊かで自由な魂の持ち主。
絵筆一本で世界を描き、人々の心を動かしている。
ビジネスウーマンの私は、大企業のCEO。
冷静な判断力と強いリーダーシップで、会社を成功に導いている。
そして、母親の私。
家族を何よりも大切にし、子供たちの成長を見守る人生。
それぞれの「私」の人生は魅力的で、選びきれないほどだった。
「でも、一つしか選べないの?」
「そうよ。それがルール」
窓際の女性が答えた。
「でも、選ばなかった可能性はどうなるの?」
「消えてしまうわ。この部屋とともに」
その言葉に、私は動揺した。
どれか一つを選ぶということは、他のすべてを失うということなのか。
「時間よ」
窓際の女性が告げた。
外を見ると、空が少しずつ暗くなっていく。
「選ばなければ、私たち全員が消えてしまう。あなたも含めてね」
プレッシャーを感じながらも、私は必死に考えた。
どの人生が本当の私なのか。どの未来を選ぶべきなのか。
そして、ふと気づいた。
「待って」
私は立ち上がった。
「これは間違ってる」
「何が?」
窓際の女性が眉をひそめた。
「私は、これらの可能性のどれか一つじゃない。私は...これら全ての可能性を持つ存在なんだ」
部屋が静まり返る。
「確かに、今の私には足りないものがある。でも、それは一つの可能性を選ぶことで埋まるものじゃない」
私は一人一人の「私」を見つめた。
「私は、あなたたち全員の可能性を秘めている。知性も、体力も、感性も、判断力も、愛情も...全て私の中にある」
窓際の女性が驚いた表情を浮かべる。
「だから、私はどれも選ばない。私は、私自身を選ぶ」
その瞬間、部屋全体が光に包まれた。
目を開けると、私は自分のアパートのベッドの上にいた。
朝日が窓から差し込んでいる。
枕元には、あの古い手帳があった。
開いてみると、最後のページにこう書かれていた。
『私は、ようやく気づいた。
私は、無限の可能性を秘めた存在だということに。
これからは、自分のすべての側面を受け入れ、
バランスを取りながら前に進もう。
本当の私との旅は、ここからが本当の始まり。』
私は深呼吸をして、ベッドから起き上がった。
鏡の前に立つと、そこには笑顔の私がいた。
「さあ、新しい一日の始まりだ」
そう言って、私は扉を開け、外の世界に一歩を踏み出した。