第3話 ヌシとバカ魔女
「マジかよ……ッ!!」
なんで滅多に姿を現さないヌシが出て来た? 近くで戦闘したからか!?
強い魔物は総じて魔力の気配に敏感だ。
オオオオオオオオオオオオォォォォォォオォオォォオオォオオオ――
響き渡る咆哮。
空気までもが痺れたかのように振動し、あまりの音量に耳が壊れそうになりながらも進路を反転。
こんなのと戦うなんてありえない。
時間はかかっても他の札を探すべきだ。
「一旦退くぞッ!」
「っ、わかっている!」
俺の声で我を取り戻した二人も即座に応じ『逆さ滝』から離れるべく足を動かす。
だが――
「リリーシュカ、お前も逃げろッ!」
リリーシュカだけはヌシを見上げたまま、逃げる素振りすら見せていなかった。
初めは途方もない脅威の出現に足が竦んで動けないのかとも考えたが、すっと細められた青い瞳に怯えの色がないことから違うのだと理解する。
そして、推測を裏付けるかのようにリリーシュカの中で魔力が渦巻き、
「永久の氷河は万物を拒む牢。凍え、途絶え、潰えし地に咲く華よ」
滔々と続く詠唱。
これは確か上級魔術の……まさかヌシと戦う気か!?
幾らなんでも無茶だと止めたいのは山々だったが、もしもリリーシュカが準備している魔術が本当に上級魔術だとしたら問答無用で巻き込まれる。
というかもう、遅い。
「隔て遮れ無謬の壁『障壁』ッ」
少しでも被害を抑えるために第一階級の無属性魔術『障壁』を展開し、来る衝撃に備えて近くの木を遮蔽として使い身を隠す。
直後、さらにリリーシュカの魔力が膨れ上がり、
「――『氷華月輪』」
凛とした声。
一気に気温が下がり、空気が軋む音がして――『逆さ滝』が巻き上げる飛沫すらも時間を切り抜いたかのように凍てつく。
それだけではなく周辺の木々も一瞬のうちに凍てつき、空気中の水分が極小の氷となったのかキラキラと輝いていた。
『逆さ滝』はまるごと氷像に代わり、ヌシの体表にすら霜が降りている。
「……相変わらずバカみたいな魔術の規模だな。しかも疲れた様子すらない。あいつの魔力は無尽蔵か?」
吐き出す息を白く染めながら、はた迷惑な魔術を行使したリリーシュカへ視線を向ける。
これだけの魔術を扱える生徒は二回生……いや、学園でも両手の指には入るだろう。
だが、当の本人に気にした様子はなく、霜を振り払うかのように身体をうねらせ、地上へ迫りながら怒号をまき散らすヌシを見上げていた。
完全にリリーシュカに……いや、俺たちに狙いを定めたのだろう。
こうなればもう逃げるのは至難の業だ。
「やるしかない、か」
覚悟は決めるが最後まで戦う必要はない。
離脱する隙を作って、すぐさまここを離れる。
無属性魔術、しかも下級魔術しか使えない俺がヌシと正面切って戦うなんて土台無理な話だ。
しかもヌシを共通の敵と据えているだけでリリーシュカには連携を取るという意識はないはず。
「面倒なことになったな、本当に。なんで授業でこんなに疲れる思いをしなきゃならないんだ」
ため息をつきつつ、ただでさえ緩く締めていたネクタイをさらに緩めた。
右手で握っていた杖は左手に持ち替え、腰に備えていた長剣を右で構える。
幸いと言うべきかヌシは地上へ降りて来つつあり、足場はリリーシュカの魔術が固めた滝がある。
魔術ではまともに戦えない俺でもなんとか手が届く。
「纏いし刃は万物を断つ、『刃纏』」
魔力で作った刃で剣の射程を拡張する第二階級の無属性魔術『刃纏』を行使。
軽く振って感覚を確かめてから氷の地面に滑らないよう注意しながら踏み込む。
狙うは比較的鱗による防御の薄い腹。
俺の刃が通りそうな場所はそこか眼球、口腔くらいしかない。
「疾く駆けよ駿馬の如く――『脚力強化』」
魔術で脚力を強化し、未だ空を悠然と漂うヌシへ迫るべく凍った『逆さ滝』を駆け上がる。
流れる視界、遠ざかる地面を極力意識から外し、ヌシの微細な変化を見逃さないよう視線は固定。
あの巨体は確かに脅威だが、懐に潜り込めば隙だらけだ。
しかし、そう簡単に接近はさせてもらえない。
隆起する魔力の気配。
「オオオオオオォォオォオオオォオオオオォオオオオオッッ‼‼」
耳を劈く咆哮、そして巻き起こる暴風。
まずい――そう思った時には俺の足は凍った滝から離れていた。
この高度から叩きつけられれば無事では済まない。
やっぱり一縷の望みにかけて逃げるべきだったか、と自分の選択を悔やむも、まずは対処が先。
足を下にして姿勢を立て直してから『障壁』の魔術を曲面として展開。
不可視の壁に着地し、勢いのまま滑ったのちに上方へ跳び上がる。
視線の先には隙だらけのヌシの腹。
「う、らッ!!」
勢いのままに分厚い腹へ切っ先を突き立てる。
だが、酷く硬い感触が刃越しに伝わってきて、まともに刃が通らない。
ヌシを相手にするには剣の質も俺の魔術の腕も足りないらしい。
それでも注意は引いたようで、低い唸り声が間近から聞こえた。
俺の方も姿勢を維持するのが困難になり、重力に引かれて地上へ身体が落下していく。
遠ざかるヌシの腹。
ふと地上へ視線を向ければ――案の定、リリーシュカは次なる魔術の準備を終えていた。
「俺を時間稼ぎに使うとか……ほんと、いい性格してやがる」
俺も同じ筋書きを思い浮かべていたから文句はない。
これが最善の策だと俺も思う。
瞬間、ヌシよりもさらに大きな影に覆われた。
原因はヌシの頭上から落下しつつある巨大な氷塊。
恐らくは空気中の水分を凝固させて作ったのだろう。
これが直撃すればひとたまりもない。
問題があるとすれば――このままだと俺も氷塊に押しつぶされることだ。
「少しは人のこと考えろバカ魔女ッ!?」
悲痛な俺の叫びは華麗に無視された。
そうこうしている間にもタイムリミットは近づく。
『障壁』で衝撃を和らげながら着地した俺は即座に氷塊の範囲から退避しつつヌシの様子を窺う。
するとちょうど氷塊がヌシに直撃し、苦悶の声を上げながら更なる速度で落下してくるのが目に映る。
そして、轟音と共に凍った地面に叩きつけられたヌシと氷塊によって凄まじい揺れが生じ、衝撃で氷塊は粉々に砕け散った。
ヌシはというと気絶しているようだが、死んではいなさそうだ。
復帰する前に離れよう。
「札を回収して――って、川まで凍ってるんだが……?」
そもそも札はヌシの下敷きになってしまっている。
回収は不可能か。
「まさかヌシを倒したのか?」
「気を失っているだけだ。今のうちに逃げた方がいい」
恐る恐る聞いてくる二人組にも告げると、二人は顔を見合わせ安堵したように息をつき、後ずさるようにしてその場を去っていった。
「リリーシュカ、俺たちも退くぞ。別の札を探さないと時間切れになる」
「あなた、さっきバカ魔女って言ったわね?」
「巻き込む前提で魔術ぶっ放すやつがどこにいる」
「問題ないでしょう? 推薦入学試験で私の魔術を一つ残らず見切って躱したあなたなら」
平然と言い放つリリーシュカ。
思わず俺からもため息が出てしまう。
こいつに何を言っても無駄だ。
「……時と場合を考えろ。札も取れなくなったし、ヌシとの戦闘なんて想定外だ。単位落としたらどうしてくれる? 俺はお前と違って成績に余裕がないんだが」
「札は必要で、一番近かったのはここで、運悪く出て来たヌシは私が対処した。結果的に札が取れなくなっただけよ。文句あるの?」
どうやら自分に非があるとは思っていないらしい。
話が通じないなら言い合う時間も惜しいな。
「文句は大ありだが、伝えたところで意味がないだろう?」
「話が通じないって言いたいの?」
「そう言ったつもりだが」
「……あなたを囮にして仕留めるのが一番確実だったわ。逃げる時間もあった」
「ならせめてそれを伝えてからやれ。勝手に巻き込まれる側からすると迷惑だ」
俺は至極真っ当なことを言っているはずなのに、リリーシュカは心底不満げな視線を向けてくる。
「小うるさいわね。無事だったんだからいいじゃない」
「あのなあ……」
「文句を言いたいのはこっちよ。……ほんと、なんであなたなんかと」
「何か言ったか?」
返事はない。
代わりにリリーシュカは『逆さ滝』に背を向けて去ろうとしていた。
まともにコミュニケーションを取ろうとは思わないのか?
それは俺も似たようなものかと思いつつ、今はこの苛立ちを抑えることにして単位のために次なる札を探し始めた。
結果から言えば二枚目の札は見つからず、制限時間を告げる信号弾が上がったのを確認して俺たちは集合場所へ戻った。
単位は取れず、数時間の苦労が徒労に終わったと認識した途端、急激な眠気に襲われたため近くにあった木の幹に背を預けていると、
「――ウィルくんっ! やっと見つけた!」
俺の名前を呼ぶ、聞き慣れた声が耳に届く。
駆け寄ってきたのは左目を赤い前髪で隠した少女――レーティア・ルチルローゼ。
ルチルローゼはクリステラ王国の三大公爵家の一つであり、レーティアはその娘。
王族に次ぐ身分の持ち主で……一時期は俺の婚約者でもあった相手だ。
今は事情が変わって婚約者の話は白紙になっているものの、交友自体は未だに良好なまま続いている。
怒ってはいるけれど安堵の方が勝っているような表情で、露わになった右の淡い金色の瞳が心配そうにやる気のない俺のことをくっきりと映している。
顔立ち自体はおっとりとしていて優しい雰囲気がある……いや、優しいのはその通りだけど、これで一度言い出したら梃子でも動かない頑固な意思の持ち主だと幼いころからの仲である俺は知っていた。
「やっと来たって……少し遅れただけだろ、レーティア。あと、ウィルくんは流石にやめないか?」
「だって信号弾が上がったのにウィルくんが帰ってきてなかったし、凄い音も聞こえてたから何かあったのかと思って……」
凄い音、というのは多分ヌシが落ちたときの音だろう。
あれだけの巨体なら離れたこの場所まで聞こえていても不思議ではない。
「ちょっとした事故に巻き込まれただけだ。怪我もないから気にしなくていい」
「事故?」
「札を回収しようとしたらヌシと出くわしてな」
「ヌシ!? 本当に無事なの!?」
レーティアは大袈裟に驚く素振りを見せた後に、そっと両手が伸びてくる。
細くてしなやかな指、一回りは小さな手のひらが頬、肩からどんどん下へと無事を確認するかのように降りていく。
「どこか体調が悪いとか、頭痛がするとか、吐き気がするとか、そういうのはなんともない?」
「何を心配されているのかは理解できるし、そう思われても仕方ない過去を積み上げてきた自覚はあるが、なんともない。出来る限り一歩も動きたくないレベルで疲れている以外は健康体だ」
本当に無事だから早く手を退けてくれと視線も含めて訴えるも、レーティアは気が住むまで俺の身体を触って確かめ続けた。
明らかに周りからの嫌悪を示す視線が集中していて居心地が悪い。
「落第寸前の落ちこぼれ王子がいきりやがって。魔術も碌に使えないくせに」
「あれで推薦入学者って絶対コネだろ」
「しかもヌシと出くわした? 絶対嘘だろ。あんな雑魚が生きて逃げられるわけがない」
舌打ちやら謂れのない暴言も影口も聞こえてくるし……本当に勘弁してくれ。
そんな中、視界の端にリリーシュカが映り込むも、こちらを見ようともせず完全に無視。
実習も終わったから関わる気はないという意思表示か。
俺としてもその方が楽だ。
「もしかしてリリーシュカさんに迷惑かけたの?」
「かけられたのは俺だ。危うくヌシと一緒に地面のシミになるところだった」
「…………」
これには流石のレーティアも言葉を失っていた。
俺もその気持ちはよくわかる、当事者だしな。
金輪際、リリーシュカと関わる機会がないことを祈るばかりだ。
「ともかく無事ならよかった、かな。リリーシュカさんにも悪気はなかったんだと思うよ? ……多分」
レーティアは持ち前の人の良さでリリーシュカを弁護するも、実際に被害者になりかけた身からするとあり得ない話だと感じてしまう。
「――実習に参加した全生徒の帰還を確認した。これにて実習授業は終了とする!」
実習を担当していた教師が終了を宣言し、散り散りになって学園迷宮を出て行く集団の後方で俺もあくびをしながら外へ繋がる門を潜った。