六、禿鷲
前回の続きです
六/七話
きっと他の者からすれば、彼は何もかもを手に入れた男に見えていたのだろう。
だがそうに見えてしまうことは、彼を望まない隔たりの外へと追いやったのである。
「だから今のボクは、なんとなくで戦ってしまっている。まったく……一番なりたくなかった軍人の姿だよ」
あのハゲワシが、弱弱しく項垂れている。
その姿を見た瞬間、ヴァルの胸の内で何かがざわめき立つ。
それは怒りでもなければ同情でもない。
嫌に締め付けられるこの気持ちは、まだ彼女にとってよくわからないものであった。
黙って彼の話を聞き続けているヴァルの姿を見て、フローズンはハッとする。
「あぁ、すまない。つい自分のことばかり話してしまった。会ったばかりなのに図々しかったね。じゃあ次はキミのことを聞かせてくれないか?」
「私のこと?」
いきなり話を振られて、少しばかり声が裏返りそうになる。
「あぁ。ボクはまだキミの名前すら知らない。教えてくれるか?」
「名前は……」
迷った。
相手は敵の総大将のようなものであり、自身の名を素直に言っても良いものか。
そうは思ってはみたものの、活躍の一つもできなかったような一兵卒の名前を聞いてどうこうできるものでもない。
何より、戦場で甲冑の奥に見たものと同じ彼の瞳を見ていると自然に口が動いてしまった。
「ヴァル……ヴァル・ルインド」
「なるほど、それがキミの。よろしく、ヴァル」
人に名を呼ばれた。
軍にいた時も同じように誰かから名を呼ばれることはあったのだろう。
なのに、それは一切記憶に染みつかなかった。
明らかに今までとは違う。
子でなく、奴隷でもなく、兵でもない。
一人の人間として名を呼ばれた。
世間ではありふれている光景が、彼女にとっては残酷なぐらい特別に見えた。
思考がぐるぐるとめぐっている彼女は口を半開きにしたままフリーズしている。
フローズンは不思議そうにした後、彼女のこれまでの境遇から察したのか小さく頷いた。
「ねぇヴァル、キミはどうして兵士になったんだ? 見る限り……普通の兵士ではなさそうだが」
今は彼が与えてくれた服に身を包んでいるものの、それまではお世辞にも上等とは言えない軍服を着ていた。
彼はそのことについて言及したのだ。
「私は……奴隷だ。だから戦果を挙げて平民になりたかった」
ヴァルは拳をキュッと握りしめる。
「でもこのザマだ。大して戦えもしない癖に突っ込んで、勝手に頭をぶつけて今は敵に介抱されてる。みっともないことこの上ないよ」
言葉にしてみると、なんとも酷い顛末である。
普段は自嘲することがない、それどころか自嘲する相手のいないヴァルであったが、フローズンに影響されたのか自嘲するような口調になってしまっていた。
黒歴史を振り返るように、気まずそうにしている彼女を見て、フローズンは助け船を出す。
「運が良かったとも言う。もしドジを踏んでいなかったら、今頃どうなっていたかわからないよ」
「それは……そうかも」
あの間抜けな突撃は、結果として命を繋ぎとめることになった。
真っ当に攻撃していたら瞬く間に斬殺されていただろう。
彼はハゲワシのまま、フローズンとしての彼を見ることもなかっただろう。
その点に関してだけ、あの時の自身の行動に感謝できる。
「キミはきっと兵士には向いていないんだろうね。ボクと一緒だ」
戦う力だけを考えれば、彼ほど兵士に向ている者はいないだろう。
だが、兵士とはそれだけで続けられるものではないのだ。
たとえ周囲から英雄だ死神だと囃し立てられたとしても、彼にとって兵士として戦うことは不向きなものでしかない。
それになんとなく気が付いていたからこそ、ヴァルも彼の言葉を疑うことはなかった。
同じ不向きな者として、彼女も打ち明ける。
「でもこれしか……兵士になる以外に知らないんだ。奴隷から脱出する道を」
奴隷のことだけではなく、彼女は何も知らない。
ずっと自分だけの世界にいて、外の世界に触れることすらしてこなかったから。
ある意味、彼女は決めつけていた。
あらゆる可能性がないものであると。
ヴァルの言葉を受け、フローズンは何かを掴んだような表情になる。
「じゃあ特段、兵士でいたいわけでもないんだね?」
「え? あぁ」
「うん、そうか」
彼はそれだけを口にすると、壁に掛けてあるヴァルの剣を眺める。
そして彼の中で何かが定まったのか、膝を叩いて立ち上がった。
「夢中になって話し込んでいたらお腹が空いてきたな。そろそろ夕食の時間だ。適当に作っておくから、キミは先に風呂にでも浸かってくるといい」
「い、いいのか? そんな……」
まさかの言葉に驚く。
料理はともかく風呂にまで入ってくるように提案されるだなんて、彼女は微塵も想定していなかった。
嬉しい反面、悪臭をまき散らしていたのではないかと内心焦る。
「休息の意味も込めて、ゆっくりと浴びてくるといい。この部屋を出た廊下の突き当りが浴室だ。着替えは……妹の物がまだあったはずだから、取り敢えずはそれで我慢してくれ」
フローズンはそう言いながら、クローゼットに掛けてあるパジャマを取り出す。
確かに彼の妹の物なのだろうが、年齢を考えると相当前に着ていたものになるはずだ。
その割には色あせていたりすることもなく、とても清潔で可愛らしいものであった。
「あの、妹って――」
そこまで聞いた瞬間、ヴァルは後悔をした。
「妹はボクがまだ子供の頃に父さんと一緒にストーンライフル軍の爆撃で死んだ。あぁ、母さんに関しては何故かストーンライフルに行ったきりだけど……多分今も元気に過ごしているよ」
「あ、えっと……」
言葉が出てこなかった。
人と接してこなかったばかりに、どう返していいものかわからなかったのだ。
申し訳なさそうに縮こまるヴァルを見て、彼は言葉をかける。
「もしかして謝ろうとか、申し訳ないと思っているのかい?」
ヴァルは力なく頷く。
どうしても彼の目を見ることができなかった。
「それは違うよ。死んだ人間の家族に謝らなくちゃいけないんだったら、ボクは一生かけても顔を上げることができないじゃないか」
重い言葉をさらりと言う。
きっとヴァルの心のつっかえは、フローズンにとってはもうとうの昔に乗り越えたことなのだろう。
戦いの中で生じる人間らしい感情の曖昧さを捨てて割り切ることが、彼を人並み以上の強さに引き上げた所以なのかもしれない。
ヴァルは俯き、自身の手を眺める。
本来なら手錠を填められ、拷問にかけられて原型を留めていないかったかもしれない。
にも関わらず、彼女の手は綺麗に洗浄されており、石鹸の匂いが微かにしている。
「……あの、気になってたんだけど……どうして拘束もしてないんだ?」
これでは逃げ放題だ。
それに隙を見て外部と連絡を取ったり、破壊工作もされかねない。
彼女のした当たり前の質問に、フローズンは少し笑いながら答えた。
「必要かい? 逃げたいなら自由にしてくれて構わない。だけど、ここから逃げる理由ってある?」
「それは……」
確かに何も思い浮かばなかった。
ここから逃げ出して、火に包まれた故郷に帰ったところでどうするのか。
灰に塗れた一人ぼっちの国か、彩りがあり少し変わった同居人と暮らすこの国か。
そんなもの、比べる必要すらなかった。
「わかった、ありがとう」
ヴァルは小さく頭を下げ、パジャマを受け取って浴室へ向かった。
キョロキョロと辺りを物珍しそうに見回しながら歩く姿を見送りながら、フローズンは微笑んだ。