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前哨戦か先触れか

   ■■■


 誰かが叫んだ。

 大門を潜り抜けてすぐの大衆酒場で。

 棄獣が現れた――と。

 しかし、その言葉は誰にも届かなかった。

 正確には、伝わらなかった、だが。

 届きはした。しかし、馬鹿馬鹿しいと切り捨てられたのである。

 棄獣など存在しない。そんなものは妄想だ。酒の飲み過ぎだろう。

 皆、酔っぱらって真っ赤にした顔でそう笑った。


「――家族が殺されたんだ!」


 男が悲鳴を上げるように叫んだ。

 鬼気迫る何かを感じたのだろう。そこで初めて周囲は、彼の言葉に耳を傾けるようになった。

 酒場が静まり返ったのは一瞬。すぐに彼は捲し立てるように話し始めた。

 リポリードに棄獣が出現したこと。一瞬にして住民が棄獣化していったこと。彼の家族もまたその犠牲者であること。

 そして、マレニアにもすぐに棄獣が到達することを……。


「じょ、冗談だろう……?」


 酒場にいた者たちは手にしたグラスを置き、ゴクリと固唾を飲む。

 しかし、彼は首を横に振って、震える手で袖を捲った。

 服の下から何かに引き千切られたかのような大きな傷が露になる。

 傷は深く、骨まで達している。

 しかし、不可解なことに血の一滴も垂れていない。

 それどころか、ズクズクと傷口が脈動し、欠けた部分を埋めるかのようにボコボコと盛り上がっていくのだ。


「お、おかしいだろ……? こ、こんなに酷いのに、いいい、痛くないんだ……」


 彼は無様な泣き面を晒し、周囲の者たちに傷口を見せ付ける。


「なぁ、教えてくれ! オレは……オレはどうなっちまうんだ!?」


 傷口が一際大きく蠢いた瞬間、彼の右腕が内側から爆発するように太くおぞましい見た目へと変じる。

 彼の身長ほどに巨大化した右腕は、彼自身を飲み込まんとばかりに肩を伝い、彼の顔にも変化を促す。


「は、はすへてふれ……」


 顔の右半分が猛烈に痙攣している所為で、呂律も回らないらしい。

 グリングリンとあらぬ方向へと回転を繰り返す右目が、異様さを一層増している。


「……やべぇ」


 誰かがポツリと呟いた。それが引き金となった。


「に、逃げろぉぉぉぉ!」


「誰か、誰か呼んで来い!」


「誰かって誰よ!」


「知らねぇよ! 近衛騎士軍とか警邏隊とかいんだろ!」


「お前が行けよ!」


 一瞬にして恐慌状態に陥る酒場。

 喧嘩を始める者。泣き出す者。ただひたすらに喚く者。我先に逃げようと必死になる者。逃げ出そうとして運悪く足を挫き、倒れたところを踏み付けられる者。

 たった一つの異物により、秩序が崩壊した瞬間である。


 ――ギィィアアァァァァァ!


 人のものとは思えぬ金切り声。

 或いは、再誕を祝う歓声だったのかもしれない。

 全員の目が、新たに生まれた棄獣へと向けられる。

 瞬間的な戸惑い。次いで、眼前に姿を現した脅威への怯懦。

 脳の処理能力の限界を超えた事態に全員が固まる。

 死。目の前で明確な死が姿形を得て顕現している。


 ――逃げられない。


 誰もが悟った。酔いなど関係ない。本能が確信したのである。

 ガチガチガチと歯の根が合わないのか、皆一様に真っ青になった顔で震えている。

 絶望的な事実は、気を失うことすら許さない。

 ただ、食い入るようにソレを見つめ続けることだけが許されている。

 順番。順番である。誰が先にソレの仲間入りをするか。

 この場で重要なのは、ただそれだけとなっていた。


「せ、精霊術だ!」


 勇気ある誰かがなけなしの精神力を振り絞ったらしい。

 声の質的に若者だろうか。


「精霊術で追っ払うんだよ!」


 その勇ましさに奮い立たったのか、人々は頷いた。


「そ、そうだ! 精霊様に頼めば良いじゃないか!」


「そうだとも! 精霊様が何とかしてくれる!」


「うぉぉぉ! やれる! やれるぞ!!」


「やった! 私たち助かるのね!!」


 今度は堰を切ったように思いの丈を吐き出す。

 活路が見え、死の重圧から解放されたのだろう。

 それがまやかしとも知らず――。


「お願いします! 俺たちを助けてください、精霊さ――んぃぅっ!?」


 誰かが精霊術を行使しようとした瞬間だった。

 ぽーん、と一つ首が宙を舞った。

 犠牲者、第一号である。

 ゴトリと落下した首は、コロコロと呑気に床を転がる。


「いやぁぁぁぁ」


 喉をつんざくような女性の悲鳴。

 不幸なことに、首だけになった者と目が合ったらしい。

 恐怖のあまり、じょおおお、と小便を漏らし、酒場の床を濡らす。

 嫌な臭気が立ち昇るが、誰一人として気にも留めようとしない。

 沈黙。

 一転して嘘のような静寂が流れる。大自然の真っ只中のような静謐さである。


「「「「…………」」」」


 誰も彼も呆然としている。

 ソレは跡形もなく消えていた。

 突然、ソレの巨躯が何の前触れもなく真っ白な炎に包まれたのである。

 ついでに言うと、酒場が酒場でなくなった。

 天井が吹き飛び、壁が倒れ、最早中と外の区別がつかなくなったのである。


「――他に襲われた奴はいるか?」


 一体いつからいたのだろうか。

 鮮やかな金髪の青年が、酒場の入り口だったところに佇んでいた。

 彼は周囲を確認するかのようにゆったりとした様子で視線を巡らす。

 そして、元は一つだった犠牲者第一号を発見すると、徐に右手を体の正面に翳した。

 すると、再び白炎が灯り、あっという間に滅却したのである。


「精霊術……?」


「いや、違う! あんな精霊術見たことないし、そんな精霊様もいらっしゃらない!」


「てことは……まさか……理術……?」


 人々の視線が金髪の青年へと集中する。

 次の瞬間――


「理術使いがどうしてここにいる!?」


「悪の権化が裁かれに来たか!?」


「ここで理術を使ったこと後悔させてやる!!」


 先ほどまで彼らを縛っていた恐怖はどこに行ったのか、口々に罵倒を始める。

 それほど理術への反抗意識が強いのだろう。

 或いは、憎悪していると呼んで差し支えないくらいの勢いだ。


「――だから言ったじゃん。どうせ、こうなるってさ」


 そこで初めて人々は、彼の隣にもう一人立っていたことを知る。

 青年同様、眩いばかりの金髪の少女。人形染みた美しさだが、人形ではない。

 辟易したかのような、蔑むかのような目付きがその証拠だ。


「知っていたことさ」


 どこ吹く風で青年が踵を返す。

 すると、居合わせた一人が彼の行く先を阻む。


「な、何をするつもりだ!?」


「棄獣を狩る」


「ふざけるな!! 理術使いの情けを受けろと言うのか!?」


「違うが?」


 どう聞いたらそうなるのかとでも言いたげに小首を傾げる青年。


「理術使いに助けられるくらいなら死んだ方がマシだ!」


 青年の態度が勘に触ったのか、一際応じる声が大きくなった。


「なら勝手に死んでろってーの。既に助けられたんだしぃ」


 少女の独り言に青年が「コラ」と叱る。


「まぁ、俺としてはお好きにどうぞ、と言いたいところだけど、死んだ方がマシというのはあんたの家族も同じ意見か?」


「と、当然だ!」


 問われた者が上擦った声で応じる。

 すると、青年は別の者に向かって訊ねる。


「あんたは?」


「自分は……」


 言い淀んだのを見て、青年はまた他の者へと訊ねる。


「じゃあ、あんたは? その隣のあんたは? 後ろのあんたは? 信仰のためなら死んだ方がマシだと、家族全員思っているのか?」


「「「「…………」」」」


 問われた者は一様に口を噤んだ。それが答えだった。


「――皆、アレを見ろ!!」


 突如、血相変えた若者が酒場跡へと乱入。

大門から走ってきたらしい彼は、わなわなと震える手で自分が来た方角を指している。

 皆、誘われるように指された方へと視線を向け、そして絶句した。

 まだずっと遠く。しかし、視認できる程度には近い距離。

 そこで何かが蠢いていた。大地を闇が這うように黒の絨毯が近付いてきているのである。


「アレ……やべぇんじゃねーの……?」


「アレ全部さっきの奴と同じだっていうの……?」


「終わった……」


「今から逃げても間に合わない……」


 遠近感の所為で正確な速度はわからないが、アレの進行速度は速い。

 少なくとも、走って逃げられ切れるとは思えない。

 全員が絶望を表情に浮かべた瞬間だった。


 ――ざりっ。


 金髪の青年があろうことか大門に向けて歩み出したのである。


「お、おい! 無茶だ!?」


 青年の背中に制止の声が投げ掛けられる。

先ほど、問われて答えに窮した者だ。


「まさか、アレに突っ込むつもりじゃないだろうな……?」


「別に突っ込んだりはしないが――迎え撃つことはするな」


 飄々とした口振りで応じる青年。緊迫した事態だというのに、まるで気負った様子がない。


「無茶だ! どうにかできるわけがない!」


「そりゃあ、精霊様にはできないだろうな」


「ほ、他の奴らがどう考えているかは知らないが、一度助けられたのは事実だ! 親切心で止めているんだ!」


「なら、二度助けられたって構わないだろう?」


「なっ……!」


「出来る限り大門から離れておけ。巻き込むかもしれないからな」


 青年は背中越しに告げると、再び歩みを開始する。

 再度青年のことを止める者は、誰一人いなかった。

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