リーナシアの日常2
「まぁ、雨を防げるなら全然問題ないんだがな」
ポツリと呟くスヴェン。そんな彼からリーナシアは少しずつ距離を取る。しかし、そういうところは変に敏いスヴェンである。
「ん? そんなところにいると雨が当たるぞ?」
確かに、スヴェンが言う通りリーナシアの肩には、崖肌を伝い落ちる雨が垂れていた。
「それはそうなんすけど……」
リーナシアもそれはわかっている。
しかし、こうするしかないのである。
やんごとなき事情というものがこの世にはあるのだ。
「何やってるんだよ? 風引くぞ?」
しつこい。いや、彼がそう言うのは至極もっともである。極めて合理的な判断である。しかし、リーナシアにとって今やそんなことは関係ないのである。
「ほら、こっち来いって――」
「ちょ! 離すっす!」
伸ばされたスヴェンの腕を咄嗟に振り払うリーナシア。これには流石の彼であっても怪訝そうな表情を浮かべる。
「あのなぁ……まださっきのこと怒ってんのかよ?」
――違う。そんなことはもうどうでも良いのである。
「あれは俺が悪かったって。もう少しお前らの気持ちを考えるべきだった」
――だから、そうではない。
しかし、スヴェンはまるで気付かない。変なところは妙に感が良い癖に、こういうことにはとんと気付かないのである。
「なぁ? 機嫌を直して――」
「だから違うって言ってるっす!」
語気を荒らげるリーナシア。
「じゃあ、何を気にしてんだよ?」
「……っす」
「え?」
「だから、汗をかいたんすよ!」
「……は?」
「逃げるのに必死でめちゃ汗かいたんすよ! 女の子にこんなこと言わせるなんてスヴェンってほんっと最低っす!」
「いやいや! 意味がわからんのだが!? 汗かいたことの何が悪いんだよ!?」
理解できないとばかりに応じるスヴェン。
どうやらこの男は、言葉にしないと本当にわからないらしい。
「その……今のアタシは汗臭いっすから……」
リーナシアが真っ赤にした顔を背けながらそう応じた。
(はぁぁ……アタシは何を言っているっすか……本当に最悪な日っす……)
口にしてこの上ない恥辱と後悔に襲われる。
久しぶりの再会だというのに、考えうる限り最悪な状態になりつつある。ここで臭いなどと言われたら自刎ものである。その瞬間に崖下に飛び込む謎の自信すらある。
しかし、そんな彼女の苦悩とは裏腹に、「はぁぁ」とスヴェンはため息を一つ。
次の瞬間、リーナシアはスヴェンに手を掴まれると、引き寄せられギュッと抱きしめられた。
「ちょ!? ななな、何をするっすか!?」
じたばたと暴れるリーナシアを他所にスヴェンは彼女を抱きしめて離さない。
「いや、だってさ、別に臭くないが? てか、良い匂いだぞ?」
「何を口走っとるっすかっ!?」
リーナシアの頭突きがスヴェンの顔面に放たれる。しかし、スヴェンはひょいとこれを躱すと、それからもずっと鼻をスンスンと鳴らすのだった。
「うん、やっぱり良い匂いだ。前にも言ったが、リーナシアの匂いは好きだぞ?」
「かかか、嗅ぐなっす!!!」
「だって、リーナシアが臭いとか言うから――」
「わ、わかったっす! わかったからやめてほしいっす!」
「じゃあ、大人しくするか?」
卑怯だ!
狡い選択肢の強制に思わず声を上げそうになる。
しかし、この状況でそんなこと言えるはずもなく……。
「……(コクリ)」
小さく頷くことしかできなかった。
…………。
密着したまま沈黙が流れる。
(き、気まずいっす……)
あれこれどうでも良いことを考えて気を紛らわそうとするが、こんな密着した状態で気を紛らわせるも何もない。
(こうなったら……)
意を決するリーナシア。心の中で握り拳を作り、気合を入れる。
「スヴェン! その、アタシのことどう思っているっすか!?」
直球勝負。駆け引きは性に合わない。
しかし、目はぎゅっと瞑っている。すぐ目の前にスヴェンの顔があるのだ。こんな至近距離で見つめあったまま言えるはずもない。
「…………」
突然のことに虚を突かれたのだろうか。スヴェンからの返答はない。
「あ、あの――」
「……すぅ」
「え?」
恐る恐る目を開けたリーナシアの視界には小さく寝息を立てるスヴェンの姿。余程疲れていたのか、まるで起きる気配がない。
「…………はぁぁ」
思わず大きな大きな溜め息。ただ空回りしていたことに気付いて酷く疲れてしまった。
「何だか馬鹿みたいっす……」
一人だけ気合を入れていたことに虚しさを感じたときだった。
――パチリ。
スヴェンの目が何の前触れもなく開かれる。
「――奇妙なこともあるものだな」
突然の事態に呆然とするリーナシアにスヴェンが首を傾げる。
「どうしたのだ? 間抜け面をしおって?」
「あ、いや、その……」
慌てて視線を外すリーナシア。
先ほどの言葉は聞かれていたのだろうか。いや、そんなことはない。確かにスヴェンは熟睡しているように見えた。それに、この気配。話し方にしてもスヴェンとは思えない。
そこまで考えたところでハッとする。
「【神喰らい】……イオキベ・イベリス……」
「久しいな」
「どうしてあんたが?」
「言ったではないか? 奇妙なこともあるものだ、と」
「いやいや、何が何だかさっぱりなんすけど」
「ふむ……」
それもそうか、と呟く『スヴェン』。
「いや、なに、この戯けが珍しく周囲の注意を怠っていると思ってな」
「注意?」
きょとんとするリーナシアに『スヴェン』が頷いた。
「ああ。常に気を張っていると言うべきか。この戯けは眠っていても深い眠りに就くことはない。必ず意識の表層部分を残している。野生の獣か何かかと自分自身を勘違いしているのではないかと思うくらいだ」
クハハ、と愉快そうに『スヴェン』が笑う。
「そんな奴が完全に意識を手放しているのが気になってな。出てきてみたらこの状況だ」
「余程疲れていたってことっすね」
「それもあるだろうが、この戯けは随分と貴様のことを信頼しているようだ」
そう言って『スヴェン』は含みを込めた視線をリーナシアに送った。
「さっさとこの戯けを襲って『喰らって』しまえばよかろう?」
「はぁぁ!?!? な、何を言っているっすか!?」
「この戯けのことを好いているのだろう? 何を動揺する必要がある?」
「べべべ別にそんなことは――」
「この戯けは相当に朴念仁だぞ? 無理矢理襲いでもしない限り気付くことなど万に一つもないだろうな」
「…………」
そんなことは、イベリスに言われずともわかっている。同じ時間を共有するようになり、自分の気持ちに気付いてからどれほど経っただろうか。その間一切の進展はなし。ただもどかしい思いをするばかりだった。
そんな思いを知ってか知らずか、『スヴェン』は底意地悪そうに笑う。
「この戯けは相当に馬鹿だが、アッチの具合は相当に良いぞ? 随分と耳長たちに仕込まれたらしいな。この我をして一介の娼婦よろしく喘がずには――求めずにはいられないほどだ」
嗜虐的に笑いながら『スヴェン』がリーナシアの顎へと手をやり、舌なめずりをする。体は同じだというのに、粘着いた声はまるで別人だ。きっと、リーナシアが聞きたくないことを理解した上でわざと嫉妬心を煽っているからだろう。
「何なら我が相手をしてやろうか? 何せ、体は正真正銘ユザ・スヴェンだからな」
「ふざけるなっす!」
バチンという乾いた音が響いた。
「アタシはそんなに安くないっす!」
「我に歯向かうその意気や良し。だが、これは貴様のために言っているのだぞ?」
そう言って『スヴェン』はねめつけるようにリーナシアを見た。
「見たところ貴様……生娘だろう?」
「――――っ!!」
図星を突かれたリーナシアが一瞬にして顔を朱に染め上げる。それを見てクスリと『スヴェン』が笑う。明かに反応を面白がっているのだ。
「そんなもの大事にしていて良いことなどないぞ? さっさと捨てて、交わることの悦楽を体に刻み込んだらどうだ? 今はこの戯けと同化しているが、我も女だ。その我が言うのだ、大人しく耳を貸すべきだと思うが?」
「そんなこと……!」
ない、と否定しようとして、できないことに気付く。わかっている。このまま待っているだけでは何の意味もないことに。
だからこそ、臆病風に吹かれて何もできずにいる自分に腹が立って仕方ないのだ。
だからこそ、こんなにも悔しくてたまらないのだ。
大きな瞳に涙を浮かべるリーナシアを見かねてか、『スヴェン』が初めて苦笑を見せる。
「助言のつもりが、いじめすぎたな。許せ」
あの不遜な【神喰らい】が許しを請うたことに驚くリーナシア。
「別に、貴様を憎らしく思ってのことではないからな。ただ、傍から見ていてもどかしく感じただけだ。まぁ、我も相当に嫉妬深いからな、本当に少しばかりの親切心という奴だ」
「ふん。あんたに気遣われたって嬉しくなんかないっすよ」
「まぁ、そう言ってくれるな。貴様には期待しているのだ」
「期待? 何のことっすか?」
「簡単な話だ。この戯けは自分の優先度を低く見積もる傾向にある。それもかなり、だ」
「あー、それは確かにあるっすね……」
リーナシアがスヴェンに腹を立てた理由がまさしくそこにある。
彼は判断基準が明確だ。明確過ぎるほどに明確だ。最善という名の合理性を貫く。そこに、自己保身という考え方はない。あるのは、最適か否か。それだけだ。だからこそ、危なっかしくて仕方ないのである。
「故に、貴様にはこの戯けのタガになってもらわねば困る」
「アタシっすか?」
「そうだ。貴様だ。この戯けが完全に意識を手放しその身を預けるのは貴様くらいのものだからな」
「でも、アウラっちだっているっすよ?」
「アレはダメだ。アレはこの戯けと同じ系統だからな」
「あー」
思わず同意を漏らすリーナシア。
二人して自分から貧乏籤を引きに行く傾向がある。英雄願望に駆られているわけでもないのに、だ。性根が馬鹿真面目なのだろう。損な性格をしているなと常々思う。
「だから、貴様でないとダメなのだ。貴様がこの戯けを最後の最後に踏み止まらせる存在にならねばならないのだ」
「アタシが……」
「まぁ、そういう意味でも早いところこの戯けと寝てしまえ。我が言えるのはそこまでだ」
もっとも、と『スヴェン』が続けた。
「ライバルは少ないに越したことはないのだがな……」
最後に挑発的な視線を寄越して『スヴェン』は目を瞑った。
「好き放題言ってくれるっすね……」
突然現れ、霞のように消え去った嵐に辟易を零すリーナシア。
「……ふふ」
微笑というよりはニヤケ顔。イベリスの言葉を思い出してつい頬が緩んでしまうのだ。
「信頼されているっすか……そうっすか、そうっすか……」
悪い気はしない。前進したわけでもないのだが、これまでの鬱屈とした状態に比べればずっと良い。
気持ちよさそうに眠っているスヴェンの前髪に手を伸ばし、さらりさらりと掻き分けてみる。くすぐったいのか、スヴェンの眉間に皺が寄り、不機嫌そうな声が漏れる。
「おっとっと……」
慌ててリーナシアは手を引っ込めた。
――危ない危ない。
起こしてしまうところだった。
もう少しこの状態を味わっておきたい。
未だ世界は予断を許さない状況だ。いつどこで何が爆発するかわからない。自分たちも例外ではない。何があるのかわからないのだ。
それでも、と思ってしまう。
今この瞬間が永遠に続けば良い――と。
――――――
「んん……」
リーナシアは朝の匂いに目を覚ました。
寝ぼけ眼を擦り、一つ大きく伸びをしようとして、洞窟の壁に頭をしこたまぶつける。激痛を以て、自分たちがいる場所を思い出させられた。
「ッタタ……」
頭頂部を擦っていると、
「効果覿面の目覚ましだな」
皮肉めいた声が投げかけられた。
「むぅ。見ていたなら止めてくれても良かったじゃないっすか」
「無理だな。お前はいつだって急なんだよ」
「そりゃそうっすよ。時間は大切っすからね。何もしなければ何も起こらないっすもん」
意味深な発言にスヴェンが首を傾げる。
「ふむ? 何かあったのか?」
「べっつにー」
ベーと舌を出すリーナシア。そして、何が可笑しいのかカラカラと笑い始める。昨日の不機嫌さはどこにいったのか、実に晴れ晴れとした表情だ。
「そんなことよりも、朝っすよ! 早いところ戻らないと皆心配しているっす!」
「そうだな。いくらこの森が暗いつったって、流石にこの時間なら視界も利くだろうしな」
リーナシアとスヴェンはいそいそと洞穴から身を乗り出し、崖下へと視線を落とした。
そして……
「…………」
「…………」
二人して言葉を飲み、ゆっくりと互いの顔を見る、両者とも反応に困るといった顔をしていた。
「こ、こんなのありっすか……?」
笑いを堪えるのに必死そうなリーナシア。これにスヴェンがポリポリと頭を掻いた。
「まぁ、笑い話にはなるだろうな」
――洞穴のすぐ下には地面が広がっていた。




