廃教会の幽霊 その2
「そのときまでは、その女の子が幽霊だなんて信じていなかった。でも、この手が女の子の頭をすり抜けるのを見て、初めて理解したよ」
目の前に確かにいる。蜃気楼のように朧気でなく、陽炎のように不定でもない。
しかし、触れられない。
「なおさら困ったさ。でも、触ることができないときたら、できることは限られてくる」
スヴェンは自分に何ができるかを考えて、そして声を掛けることにした。
「『どうして泣いているのか』ってな」
それを聞いたアウラが呆れるように目を細めた。
「何て言うか……よく逃げださなかったわね」
「そりゃあ、やばい相手だったら逃げるけど、何せ泣いている女の子だったからなぁ」
「でも、触れなかったんでしょう? 恐怖以外の何ものでもないわよ、普通」
「そういうもんか……」とスヴェンは自分の感覚のズレに認めつつ、「でも、結局何もわからなかった。返事がなかったんだ」
少女は何かを伝えたかったのか、口を何度も開閉したが、そこから何かが発せられることはなかった。
次のスヴェンの問いは「君は誰?」だった。
少女はまた何かを話そうとして声にならず、諦めるように小さく首を横に振る。やはり、話せないらしい。こちらの言葉は届いているようだが、会話は難しそうだった。
「お手上げだよな。触れないし、話せないし」
困り果てた末にスヴェンは一つの名案を思いついた。
「『うちのところに来るか?』――当時の俺はそう言ったんだ」
深く考えての発言ではない。単に、同年代の子どもがたくさんいるし、きっと何とかなるだろう程度にしか思っていなかった気がする。如何に深刻な事態が彼女に起きているかなど、想像だにしなかった。
「『助けがいるなら手伝う』って言ったら、その女の子は小さく、でも確かに頷いたんだ」
そのとき初めて、少女がその端正な顔にぱぁっと笑顔を咲かせたことを覚えている。
「呆れた。どうして自分のところにわざわざ面倒事を呼び寄せるような選択をするのかしら?」
向けられた視線には、理解できないわ、という思いがありありと込められていた。
「仕方ないだろう。若気の至りにすら至ってない頃だったんだからな」
「本当、それがどうしてこんな重層世界の住人染みた人格になったのかしらね」
混ぜっ返すアウラにスヴェンは手を振って大人しく降参を示す。
「そんでもって、いざ孤児院に帰ろうとしたらついてくる気配がなくてな。振り返ったら霞のように消えていた、ってわけだ」
しばらくその場に留まったが、再び少女が姿を現すことはなく、仕方なくスヴェンは孤児院に戻ることにした。
翌日。
スヴェンは四十度近い高熱を出した。熱は数日もの間続き、その間ずっとうなされていた。後で聞いた話だが、いつ死んでもおかしくないような生死の境目を彷徨っていたとのこと。
結局、高熱の原因についてはわからなかったが、容体を診ていた援医――孤児院や貧困地などを回る有志の医者――曰く、体中の生命力という生命力が漏れ出ているような状態だったそうだ。
「もうね、それを聞いたら呪われたとしか思えないだろう?」
生者を憎む亡霊が祟り殺す構図。創作物でよく見る展開だ。奇しくもその祟り殺される登場人物と同じ道を歩んだわけだが、途中で道は大きく分岐したのか、今もこうして生きている。
「それからその女の子を再び見掛けることもなく、噂もいつの間にか消えていた」
復調後、スヴェンは幾度となく孤児院を抜け出しては廃教会へと足を運んだが、再度少女と見えることはなかった。やがて、通う頻度も少なくなり、ほとんど行かなくなったころに廃教会の取り壊しが決定し、それからさほど日を置かずにまっさらな跡地へと化した。
「もしかしたら、孤児院を抜け出す前から熱を出していて、あの女の子は熱に浮かされた脳が見せた幻だったのかもしれない、そう思ったこともある」
「と言うより、まともな感性を持っている人であれば、そうとしか考えないでしょうね」
「同意だ。実際、先生たちにもそう言われたしな」
スヴェンは否定するどころか、当然とばかりに首を縦に振った。
しかし――
「――あまりに鮮明だったんだ。風景が……涙を流す女の子の姿が……」
頭ではあり得ないことだと理解している。そこへの反論はない。だが、言いようのない違和感がどうしても理屈を拒絶してしまうのだ。
「俺は生まれてこの方夢というものを見たことがない。だが、仮にあれが夢だとしたら、そのとき初めて見たということになる。そう都合良く見るか?」
しかも、夢には色がないというのが通説だ。だが、スヴェンの見たものは、あまりに色彩豊かだった。
「それに、だ。噂の幽霊に会いに行くなんて、生死の境目の脳内で創り出されるか? 孤児院を抜け出す準備や外に出てからの廃教会へのルート……下見だけで実際に決行したことのない風景を描けるか?」
アウラに問い掛けてみるが、既にスヴェンの中で結論は出ている。裏付ける確かな証左はないが、それは証明する術が現状存在しないというだけにすぎない。
見た。感じた。それが全てだ。
「だから、俺は俺の見たものを信じている。卑怯な理屈だけどな」
スヴェンがそう嘯くと、「……卑怯なんかじゃないわ」とアウラは小さな声で呟いた。
「え……?」スヴェンは思わず聞き返してしまう。
「みんなに信じてもらえなかったり、反対されたりするのってとっても辛いことよ。その中で自分を信じるのって、すっごく大変なことだもの。だから、卑怯なんかじゃないわ」
そう言ってアウラは優しく微笑んだ。その瞬間、見慣れたはずの彼女の姿が別人のように映る。時折酷く達観したように振る舞う彼女だが、今はどこか神々しさすらある。
「どうしたの、そんなきょとんとした顔をして? なおさら間抜けに見えるわよ?」
目を擦ると、そこにはいつもの悪戯っぽい笑みを浮かべるアウラがいた。どうやら一瞬前の光景は錯覚だったらしい。今の彼女と先ほどの彼女が本当に同一人物かと疑いたくなるほどの豹変具合である。
「普段から間抜けそうで悪かったな」
反論し、一拍おいてアウラから視線を逸らし、
「……何だか、すげー良い奴みたいだな」
ポツリとそう呟いた。
その言葉にアウラは深いため息を突くと、その真紅の目を細めてジトリとした視線を向ける。
「何それ? 失礼しちゃうわね」
「ほらあれだ、普段素行の悪い奴がちょっと良いことをすると、その落差でめちゃくちゃ良い奴に見えるっていう、あれだな」
「あなたのそういうところ、本当に嫌いよ」
べぇっと舌を出すアウラ。軽口の応酬は、しかし不思議と悪くない。
ヒュウゥ、と一際強いビル風が吹き抜けていく。
すっかり話し込んでしまったらしい。完全に日が落ちている。
「さてと、それじゃそろそろ帰りますかね」
「明日からは気が抜けない一週間になりそうね」
「さっさと終わらせて、たんまりと報酬をサバろうじゃないか」
二人は夜闇に紛れるようにしてビルを降っていった。




