開戦
谷があった。
巨龍の鋭爪で抉られたかのような、険しい谷だ。
切り立った崖の上には若葉をたっぷりとつけた木々が広がっている。崖端から離れるほど緑は濃くなり、奥の方では近づく者を皆飲み込んでしまうような深い森が待ち構えている。
そんな谷と森の境目近く。差し込む日の光から隠れるようにして大木の陰に座り込む人影が二つ。
「――アウラ、準備は良いか?」
黒髪の青年は、視線を正面の崖に向けたまま背後へと投げ掛けた。作戦前だというのに、抑揚に欠ける声には一切緊張した様子がない。その証拠に、夜を嵌め込んだような漆黒の瞳は凪いでいる。二十歳かそこらといった見た目だが、その落ち着き振りは、さながら熟練の老兵のようでもある。
ユザ・スヴェン――それが青年の名前だ。
「問題ないわ」
アウラと呼ばれた少女が凛然と応じる。一切の汚れを拒絶するかのような純白の長髪が風に撫でられ、ふわりと浮き上がる。
「そうか。ーーワクチンは?」
スヴェンは問い掛けながら自身の左腕に着けた細い腕輪型の端末――《エニグマ》を操作した。直後、辺り一帯の地形が彼の脳内で展開、眼前の風景に重ね合わされる。ほぼ同時に気温や風の強さ、ソナー探知による敵の捕捉位置など、各種情報が視界にリンク。不慣れな者であれば、今頃情報の氾濫によって目眩を起こしているところだろう。
「ええと……確かここを操作して……」
アウラの戸惑い交じりの声が背中越しに届く。どうやら《エニグマ》の操作に苦戦しているらしい。年配の者であればまだしも、彼女くらいの年頃で今時に不慣れとは珍しい。スヴェンが彼女と組むようになってから約半年が経つが、彼女に関しては未だにわからないことばかりである。
「……あった! 大丈夫、インストール済みよ」
「棄獣との戦闘でワクチンがないのは命取りだからな」
「……言われなくてもわかっているわよ」
諭すように重ねられたことで気を悪くしたらしい。鈴を転がしたような声音に少しばかり苛立ちが混じる。
「『棄獣の厄介なところは、その獰猛な攻撃性と強靭な肉体ではない。傷を負わせた相手の肉体を傷口から徐々に侵略・置換していき、最終的には自分たちと同じ棄獣へと変化させる、その特性にこそある。それこそが棄獣を棄獣たらしめている』――でしょう?」
「教科書通りの解答だな」
「つまらない答えで悪かったわね!」
「それにしても、こんな人気のないところに奴らが現れるのは珍しいな」
「大方、大森林に近づこうとした馬鹿がいたんでしょうよ。だって、棄獣が移動する理由なんて、人を襲う以外にないんだから」
「近づく? 棄獣の巣窟で有名なところにか?」
「私に聞かれたって知らないわよ」
「そもそもだ。交易路に程近いとかならまだしも、人里離れたところの棄獣を討伐しろってこと自体が腑に落ちない。ほっとけばいい話だ」
「なら、依頼なんて受けなければ良かったじゃないの」
「馬鹿言え。依頼主は天下の教皇様だぞ?」
「そんな教皇様にいちいち噛み付いてたのはどこのどいつよ?」
「俺とお前」
「あら、私はただ疑問解消のために、懸念点を丁寧に確認していっただけよ? 喧嘩を叩き売りしていたあなたとは違うわ。一緒にしないでくれる?」
「口調も態度も物腰も、不躾で無作法で無礼だった奴の言葉とは思えないな」
「口調も態度も、って結局、『物腰』についてじゃないの!!」
「強調するためだ、仕方なかったんだ」
「仕方なくないわよ!」
第一、とアウラの声が荒々しさを増す。
「何が教皇よ! いきなり来て棄獣の群れを倒せだなんて! しかもこっちの都合なんてお構いなし! おまけに『拒否したらどうなるかわかるね?』ですって!? ふっざけんじゃないわよ! 何様のつもりよ!!」
「何様って、そりゃあ教皇様だろ」
「知ってるわよ!! そんなことを言いたいんじゃないの!!」
ピシャリと返されてしまう。
「横柄だし、皮肉屋だし、めちゃくちゃ性格悪いし! どうしてあんなのが教皇になんかなれたのよ!?」
「一応だが、ここはまだルグリカ教国の領土内ーーつまり、教会のお膝元だ。信者たちに異教徒だなんだと大騒ぎされても知らないぞ?」
「ふんっ! それならその熱心な信徒とやらに棄獣の相手をさせれば良いじゃない! お得意の信仰心パワーで何でも解決できるんでしょう?」
「無茶言うなって……」
「そもそもよ!? スヴェンは良いように使われて腹が立たないの!?」
怒りの矛先がスヴェンへと向けられる。随分とご機嫌斜めらしい。
「まぁ、報酬自体は悪くないからな。釈然としない点は確かにあるが、それはそれだ」
「はいはい、あなたらしい合理的な判断で何よりですよー」
呆れたようなアウラの声を無視してスヴェンは静かに立ち上がる。そして、気配を殺すようにゆっくりと前進、崖端へと寄る。周囲を確認し、自身が立っている場所まで来るよう、アウラにハンドサインを送る。
眼下には棄獣の大群。事前に聞いていたよりも数が多い。通常であれば、大手の棄獣狩り事務所が念入りに準備して対処に当たる規模だ。それをこれからたったの二人で討滅しなければならない。自分のことを機械か何かかと勘違いしている、と評されがちのスヴェンであってもこめかみが痛むというものだった。
「ワクチンがあるとはいえ、くれぐれも油断するなよ?」
スヴェンは告げると同時に《エニグマ》を操作し、データ化していた武器の具象化を実行。《エニグマ》から生えるようにして出現した太刀【まほろば】を右手に、ナイフ【イニシャライザ】を左手に構え、谷底を見下ろす。
視線の先では、【牙狼種】と呼ばれる四足型の棄獣が呑気に我が物顔で闊歩している。大地を踏みしめる四肢は、離れていてもわかるほどの隆々とした筋肉で覆われ、突き出した口からは凶悪な牙が覗いている。狼にも似た外見だが、その体躯は巨象よりも一回り大きい。
そんな相手とこれから戦うというのに、臆すことも気負うこともなくただ静かに開幕を告げる。
「――状況開始だ」
「了解よ!」
アウラの返事を受けて、谷底目掛けて飛び込む。
「まずは手筈通り棄獣の注意を惹くとしますかね」
空中で身を翻し、崖の傾斜に着地。崖肌の凹凸を利用し器用に飛び降りていく。三分の二ほど下った辺りで崖から垂直に跳躍。そのまま重力に沿って放物線を描きながら頭から落下する。
落下点には棄獣の姿。無防備な首筋に体重を乗せた【まほろば】を突き立てると同時に体を捻り、棄獣の背に見事なまでの着地を決める。
――ガアアアアアアッ!!
急所を抉られ、倒れ伏す棄獣の地を這うような断末魔が谷底に響く。直後、襲撃に気付いた棄獣たちの咆哮により一挙に谷底が沸いた。
「おっとっと……」
スヴェンが体勢を崩したところに別の個体が正面から迫る。
颶風を伴って振り下ろされる凶爪。しかし、スヴェンは半身を逸らし、これを冷静に躱すと、その頭部へ肉薄。スヴェンの左手が閃き、棄獣の目玉に【イニシャライザ】が突き刺さる。棄獣が慟哭に身を捩らせる。その隙を見逃さず、【まほろば】で喉を切り裂く。
「キリがないな……」
スヴェンは殺到する棄獣たちをヒョイヒョイと往なし、躱し、仕留めていく。
しかし、あまりに多勢に無勢。周りは棄獣で埋め尽くされている。敵を殲滅するよりも、彼の体力が先に尽きることは明白だった。
「……頃合いか」
呟くと同時に【イニシャライザ】の具象化を解除。空いた左手をベルトに提げたラインスロワーへと伸ばす。頭上に視線を移し、崖から突き出すように生えている木目掛けてトリガーを引く。
勢いよく射出されたアンカー付きロープが、くるくると何回転かして狙い通り木に絡まる。それを見てすぐさま回収ボタンを押下。ラインスロワー内部でロープが巻き上げられ、体が引き上げられていく。
次の瞬間、谷底が朱に染め上がった。
爆風が駆け抜けていき、熱波がスヴェンの頬を撫でる。
――アウラの理術である。
世界に干渉する術ーー理術は、神々との契約により行使可能となる。
そして、アウラの放った理術は、今まさに地獄の業火ですら生温く思えるほどの炎をこの世に顕現させたのである。
爆炎は、スヴェンを狙って密集していた棄獣たちを瞬く間に包み込み、跡形もなく蒸発させる。ーー近頃、彼女が爆炎の使い手などと呼ばれている所以である。
「相変わらず凄まじいな……」
灼熱色となった谷底を見下ろす。先ほどまで足を付けていた大地は、今や溶鉱炉をひっくり返したかのように煮え滾っている。
「囮役お疲れ様」
スヴェンが崖の端に手を掛けると、アウラの華奢な腕が差し出される。
「そっちこそ、固定砲台役ご苦労さん」
伸ばされた手を取り、崖を登りきると、目の前にアウラの端正な顔があった。
少し垂れた眦に真紅の瞳。白磁のような肌と雪原を思わせる真っ白な長い髪。すっきりとした鼻筋に丸みの取れてきた頬の輪郭は、さながら精巧な人形のようである。線の細い体格ということもあり、深窓の令嬢と言われても何ら不思議でない。
しかし、そんな見た目に惑わされるべからず。戦場から最も縁遠い外見をしているが、彼女が操る業火の威力は、猛者ひしめく棄獣狩り界隈の中でも随一だ。
「うむ。我ながら名采配だな」
囮役にスヴェン。そして、殲滅役にはアウラ。これが今回の作戦であり、骨子である。まさに適材適所の見本のような布陣だ。
しかし、当のアウラはというと、辟易するように小さく首を横に振った。
「いやいや。こうせざるを得なかったというのが本当でしょう? だって――」
アウラは小首を傾げながらスヴェンを一瞥し、
「――あなたは理術が使えないんだから」
からかうようにクスリと笑った。
そう――スヴェンは理術が使えない【能無し】なのである。
タイトルという名のあらすじ
むしろネタバレ




