はじまりのはなし 3
——君がいた世界が、観測できないんだ。
ケイトの言葉をすぐに飲み込むことは出来なかった。観測出来ない。あらゆる世界を観測し見守るのが役目という、この境界が観測出来ない世界。それがどういうことなのか、聞くのが怖くてたまらなかった。
それでも。
「……ケイトさん、何が起きているのか説明して頂けませんか。私、聞かなきゃいけないんです。そうでないと、何をすることも出来ない」
怖くてたまらないけれど、それでも、聞かないと、大切な人の今を知ることも出来ない。教えて下さいと、頭を下げた。
「君には、辛い話かもしれないけれど。ありのままの全てを話そう。……観測できない、といったでしょう。境界の世界を観測する力は絶対的な精度を保っている。俺の知るあらゆる方法で君のいた世界を探してみたけれど、世界消失の残り香すら、いや、存在した痕跡さえ見つけられなかった」
「痕跡さえ……それって、元から存在しなかったことになっている、ということでしょうか」
声が震えそうになるのを、必死に堪えた。まだ、まだ彼の話は続くようだ。最後まで聞き届けなければ。そう自分に言い聞かせる。
「ああ。……俺も、信じられない。過去も現在も未来も、全てを記録するこの境界は、すでに滅び消滅した世界ですら、記録として観測できるんだ」
状況、事態、現実。それらを人間が(・)理解できるように言語化する作業は、番人にとって不得手な部類に当たる。それでも彼は、目の前の少女の気丈さに応えるべく、
「仮に、君が境界にやってきた直後に元いた世界が消えたのだとしても、その存在自体は境界に記録として残っているはず……なんだけど。どう検索しても見つからなかった。これが意味するのは、元々そんな世界は存在していなかったという事実、っ花ちゃん!」
強張っていた身体から、力が抜ける。浮いているような状態のおかげで、倒れこむようなことこそなかったけれど、座り込むように膝を折った。今度こそ、耐えられなかった。
今まで確かに自分は、あの世界で過ごしてきたのだ。小川の水の冷たさも、花の甘い匂いも、鳥の囀りも、大好きな本のページをめくる感触も、大切な、大好きなメルヘンの手のあたたかさも、全部覚えている、思い出せる。それなのに、それが存在しないことになっているのだという。信じられない、信じたくなんてなかった。
「ゆっくり、息を吸って。そう。ゆっくりでいい、息を吐いて」
ケイトは花のそばに歩み寄り、殊更穏やかな声音を意識して声をかけた。
「……元の世界に、大切な人がいるんです。森の中で、ずっと一緒に暮らしていた人が。森の外に出たことのない私が知っている、たった一人の大切な人なんです」
森の外には、もしかしたらもっと多くの人や生き物たちがいたのかもしれない。彼らごと、世界がなかったことになっているのかもしれない。けれど、彼らのことを私は知らない。彼らも心配してあげたいけれど、でも、それよりも。
たった一人の大切な家族のことが、心配で堪らないのだ。今無事なのか、何処にいるのか、知りたくて堪らない。
消えてしまったなんて、信じたくない。
花の胸の内を聞き届けたケイトは、俯いた花に悟られないように、いっそう深くフードを被った。花が大切に思っているという、その人物。果たして何者なのだろうか。森から出るな、と花に告げるなど、話を聞くにその行動は、花には悪いが不審としか言いようがなかった。本当にこの本を隠していたのが彼だというのなら、その疑念は一層深まる。
だが、それを花に言うつもりはなかった。ただでさえ、今は混乱の最中だろうに、これ以上悩みの種を植え付けるのは酷というものだ。
しかし、そうなると問題になるのは、彼女のこれからだ。どうすべきか。考えた結果、思いつく限りの最良を、花に提案することにした。
「ねえ、花ちゃん。俺から提案があるんだけど、いいかな?」
「提案、ですか……?」
此方を振り向いた、その瞳が濡れていなかったことに安堵する。全て事実であり、彼女から請われたこととはいえ、自分の話で少女を泣かせるというのは流石に心地が悪い。
「君のいた世界は、観測が出来ない。かといって、君一人を他の見知らぬ世界へ送る、なんてことは絶対に出来ない。だから、俺からの提案だ」
何だろう、と。先の見えない不安と道が拓けるかもしれないという期待が混ぜこぜになった表情で、花は首を傾げた。
「ねえ、花ちゃん」
安心させるように、ケイトは口元を緩めた。
「その本と共に、箱庭に来る気はないかい?」
予想もしていなかった提案。それを理解するのに、数度瞬きするほどの時間を要した。
「箱庭、って、さっきのお話の……?」
「そう。主軸の世界から切り捨てられた、並行世界の幻想たちが、訪れる世界。彼らもね、並行世界ですら、存在を否定されたり、あるいは、世界が滅びてしまったり。いる場所、帰る場所がなくなって、箱庭にやってくるんだ」
「箱庭にやってくる事情はそんな感じだけど、箱庭は鬱々とした暗い世界なんかじゃないよ?」と、ケイトは言葉を続ける。
「俺もね、境界でのお役目の時以外は箱庭で過ごしてるんだ。一緒に暮らしている仲間が二人いて、どっちも騒がしいけど、いい奴らだよ。花ちゃんさえ良ければ、俺たちのところへおいでよ」
そこで、一緒に元の世界の手がかりを探そう、とケイトは言った。箱庭なら、その本についても何か分かることがあるかもしれない、とも。
「いいん、ですか?私が、急にお世話になっても……」
「大丈夫大丈夫。どっちも、人見知りとか出来るような可愛い精神したのじゃないし。コミュニケーション力の塊みたいなところあるし」
ケイトが仲間だという二人を語る口調には、遠慮はなく、強い親しみが感じられた。
どうしようと考えるが、答えは一つしかない。花のいた世界、大切な人。探し出すためにも、まずは今ここで、自分で道を決めなければならないのだ。
ケイトの示してくれた道を選ぶ。そう決めた。抱きしめるように持っていた本を、鞄の中へ仕舞う。ケイトとの間に、もう本の盾は無い。フードの奥のケイトの瞳。見えはしないそれを真っ直ぐに見つめて、花は答えを告げた。
「私、箱庭に行きたいです。そこで、私は、メルヘンを探したい……!」
「それが、君の答えなら」
ケイトはそう言って微笑んだ。
刹那、視界は一気に開けた。
一瞬の強烈な浮遊感の後に訪れたのは、紛れもない高揚感。未知の世界が、脳を、心を支配して、惹きつけて止まない。頭上、そして横には遥かな紺碧の空が、足先のずっと、ずうっと下には、果ての見えない緑の大地が広がっていた。そして何よりも、花の目を引き付けたのは。
悠々と空に浮く、数多の“島”。花は、それに限りなく近しいものを知っていた。
「あれ、は……“ラピュタ”……?!」
スウィフト作、『ガリバー旅行記』。その中に登場する、磁力によって空中に浮遊する巨大な島。
作中で描かれていたように一国の首都足り得るほどに巨大なものから、その数十分の一程度のものまで、様々な大きさの島が、数えきれぬほどに空を漂っていた。
……などと。物語の中でしか知らなかった、憧れの島に驚いていられたのはわずかな時間。
現在地が問題なのだ。高度は一体どれくらいなのだろうか。
(数百メートル、なんて高さじゃないでしょう、ここは……?!)
驚きに加え、恐怖で声も出ない。
落下しているわけではないのが、せめてもの救いだった。境界にいた時も謎の浮遊感と地面の見えない不安はあったが、遥か彼方の地面を見ながら空に浮くのも、それはそれで怖いものだと花は知った。知りたくはなかった。何故ってとんでもなく怖い。花の体を支えているケイトは「いやあ花ちゃん、軽いねぇ」と呑気に呟いている。ケイトは空を飛ぶことも出来るらしい。それも、番人の力というものなのだろうか。
「あ、あの、ケイトさんっ!」
「大抵、みんな驚くんだよね。この景色を見ると。まあ神様連中なんかは流石に肝が据わってるようで、少なくとも表面上は平静を保ってたけど」
神様と一緒にしないでほしい。こちらは今まで登った一番高いところですら、丸太小屋の屋根裏程度なのだ。
花とケイトは、地上から見てかなりの高度にいるのだが、風はさほど強くもなく、また気温も不快感を感じるほどに低くはない。
呆然と見知らぬ世界を眺める花を見て、ケイトは口元に笑みを浮かべ、少しばかり大仰に咳払いをした。
「君の推察通り、あれらの浮遊島の名は“ラピュタ”。本物でこそないけれど、『空に浮かぶ島』の名を借りて存在している。この世界に訪れたもののうち、特に強力な力を持つ者たちが棲まうところだ」
次にケイトが示したのは、遥か下に広がる、果ての見えぬ大地。
「あの島は“アトランティス”。最も巨大なラピュタ。この世界の一番下にあって、世界を支えていると言っても過言ではない。箱庭に訪れた者の多くは、あそこで暮らしているんだ」
“アトランティス”。古代ギリシアの哲学者プラトンの著書などに名を残す、伝説の島。主軸の世界で切り捨てられ箱庭に訪れたのは、神や悪魔、伝承の中の者たちだけではないのだ。
ふわり、箱庭に風が吹く。風は、青年の顔を隠していたフードをそっと外した。
後頭部で結われた黒く長い髪が、風を受けてさらりと揺れる。
(黒い髪……。金の髪は、見間違い?)
境界の番人であるという、ケイトと名乗った男。空間転移や宙に浮く、そんな夢のような、魔法のような、まるで物語の登場人物のようなことを容易くこなしてみせる、不思議な男。
「ケイトさん、貴方は……なんですか?」
花の言葉に、男は一瞬きょとりと目を瞬かせた。そしてくすくすと笑いだす。困惑した様こそみせていたけど、今まで落ち着きはらった態度を崩すことがなかった男の、幼子のような仕草に、あたたかな感情が湧くのがわかる。
「『なんだ』かぁ……そうか、懐かしいな。そう聞かれるの、実は二回目なんだ」
ようやく見ることができた彼の瞳は、美しい射干玉の色をしていた。
「あの時と同じように、君にも答えよう。君にも、改めて告げよう」
そう。忘れてなどいない。忘れなどしない。あの時は、こう答えたのだ。
「『誰だ』と聞いてもらえれば、答えるのは容易かったのだけれどね」
もう一度、名乗りをあげる。
「俺はケイト。世界の狭間を預かる境界の番人だ」
一つだけ違うのは目の前にいる相手。
「花ちゃん。ようこそ、箱庭へ」
艶やかな黒髪を風になびかせながら、境界の番人は、心底楽しそうに、愛おしそうに、眼下の世界を見つめながら、少女に言葉を紡ぐ。
「ここに集うのは、数え切れないほどのif。『もしも』の可能性に棲む者。幻想として切り捨てられた神々や英雄。主軸の世界で『有り得ない』とされたものたちが最後に訪れるのがこの世界だ。
ここは異世界。字の如く、主軸の世界とは異なった世界、名は“箱庭”。この世界は、君を歓迎する。君の望みを言ってごらん。この世界なら、きっとその望みを叶えてあげられるから」
と。
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——嗚呼。
世界を動かす、最後の歯車。
ようやく、見つけた。
お帰りなさい、
お帰り、なさい。
まだ、糸車は回らない。
針に触れる前に、どうか。
世界が眠ってしまう前に、どうか。
おかえりなさい。
私の、--。わたしの、----。
おかえりなさい。
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【序章 はじまりのはなし】