はじまりのはなし 1
森に風が吹いた。その風に、自分を呼ぶ声が乗っていたような気がして、少女は立ち上がった。少女が動く度に、咲き誇る花々が揺れる。風が吹くまで夢中になって読んでいた本を手に取り、少女は歩き出した。
森の奥深く。切り立った崖と、その天辺から流れ落ちる滝。滝の水がつくり出した、小さくも澄んだ湖と小川。数えきれぬほどの花々と、姿こそなかなか見せてはくれないけれど、愛らしい囀りを響かせている鳥たち。
それが少女の知る世界。森の外へ出たことのない少女にとって、生まれてからずっと暮らしている、愛おしい世界の全てだった。
歩み続けていると、小川のほとりに、小さな丸太小屋が見えた。小屋の扉の前に人影を見つけた途端、少女の足取りは軽くなる。
「メルヘン」
と呼びかければ、その人影が少女の方へ振り返った。
「お帰りなさい、マスター。今日は森で本を読んでいらしたんですね」
マスター。そう呼ばれた少女が、手の中の本を見下ろす。齢十六歳、名を花という。
「昨日、新しい本をくれたでしょう」
「ああ、『ヘンゼルとグレーテル』ですか。最近は神話を題材にしたものばかりを、マスターにお渡ししてましたから。昔のように、童話を読むのもいいかと思いまして」
花を呼んだ男の名はメルヘン。花が生まれてからずっと、この森で彼女を育ててきた、いわば親のような男だった。この森から出てはいけない。そう花に言い聞かせてきたのも、メルヘンだった。森から出てはいけない理由、花を何故か“マスター”と呼ぶ理由。どちらも教えてはくれないけれど、花は彼のことを大切に思っているし、信頼している。なんたって優しい。それにご飯が美味しい。
「メルヘン、私を呼んではいませんでしたか?」
「ええ。戻って来てくださって良かった。私は森の外まで買い物に行って来ます。留守中は、念のため家にいていただきたいので、お呼びしました。そろそろパンとミルクが切れそうなんですよね。マスター、何か欲しいものや、必要なものはありますか?」
「私は特に」
「では、いつものように新しい本をお持ちしましょう」
さあ、と促されて家の中へ入る。
「数時間もすれば戻ります。では」
「いってらっしゃい、気をつけて」
扉の前で見送ると、メルヘンは顔まで隠れるようなローブを纏い、出かけていった。野菜などは丸太小屋の裏の小さな畑で育てているが、パンなどは、定期的にメルヘンが森の外で買ってきたものを食べていた。
メルヘンが戻ってくるまで数時間。今日は森に行く前に掃除もしたし、お腹も空いていない。もう少ししてお腹が空いたら、昨日メルヘンと共に焼いたアップルパイを食べよう。畑は朝ご飯の後にメルヘンが見に行っていた。すべき仕事は特にない。となれば、花のすることは決まって一つだった。
壁際の本棚に『ヘンゼルとグレーテル』を戻す。そして、次は何を読もうかと本棚を見上げて考える。花は、本を選ぶ時間が、本を読んでいる時間と同じくらいに好きだった。
小屋とその周りしか知らない花にとって、本の中、物語の中は未知に溢れた、夢の世界だった。国も、言葉も、食べ物も、動物も、人も、全てが知らないことだらけの世界。幼い頃から、花は夢中になって本を読んだし、メルヘンも、森の外へ出かけるたびに新しい本を贈ってくれた。
「数時間で読めそうなもの……ここにはあまりありませんね……」
本棚には、童話などの手軽に読める本ばかりが並んでいた。せっかくまとまった時間があるのだから、メルヘンが帰ってくるまでずっと、物語に浸っていたい。
ならば。
手燭に火を灯し、奥の扉を開ける。地下へと続く階段は少し肌寒く、早足で降りた。その先にある少し重い木の扉を開ける。部屋の中へと進み、手燭の明かりを、大きなランタンに移し替えた。
ふわりと揺れるあたたかい色に照らされた部屋を見渡す。何度見ても、圧倒される光景だった。連なる本棚の中には無数の書物。花とメルヘンが今まで読んできた書物を収めた地下書庫だ。
ランタンの隣に置いてあった鞄を肩に下げる。分厚い本が数冊入るほどに大きいそれは、重い本を少しでも楽に持ち運べるようにと、メルヘンが用意してくれたものだった。今回は、何冊も持ち出すつもりではないが、書庫に来たら鞄を手に取るのが習慣になっていた。
鞄とランタンを持ち、棚の森を進んでいく。階段を下りながら、何を読むかは決めていた。目当ての本を見つけ、満足げに微笑む。
本を取ろうと手を伸ばした。
その時だった。かさり、とも、する、とも聞こえる、耳慣れない音が聞こえたのは。
なんだろう、と振り向いて、花は凍りついた。する、と体をくねらせ、こちらにゆっくりと、だが確実に近づいてくるそれは、蛇だった。見たことこそないけれど、本の中で得た知識と、確かに合致している。
(あれは……蛇、でしょうか)
蛇には毒を持つものもいると読んだ。迫ってくるそれが毒を持つ種類なのかまでは分からない。けれど、もしも。毒がある蛇に襲われても、今は誰にも助けてもらえない。自分で、切り抜けるしかないのだ。
「っ……!」
蛇に背を向け、走り出す。書庫は広いが、大量の本棚によって迷路のように複雑に入り組んでいた。現在地からでも、蛇のいる道を通らずに出口までたどり着くことは可能だった。
それなのに。
「な、ぜ……?」
頭の中に広げた書庫の地図。花とメルヘンしか知らない地下書庫。蛇が全ての道を把握している筈はないのに。行く道行く道に、蛇は現れた。そして、確実に書庫の角へと追いやられていく。
真正面に蛇。もう、逃げる事はかなわない。ちろちろと舌先を蠢かせていた蛇は、一瞬動きを止めると、牙を剥いて、花に飛びかかった。
「ひっ……!」
嫌だ、と固く目を瞑って、後ろの本棚に背を押し付けた。
がこん、と音がして、背にしていたはずのものが消える。一瞬だけ感じる浮遊感。直後、全身を衝撃と痛みが襲った。思わず喉の奥から「っぐ、ぅう……」と息が漏れる。階段を転げ落ちていたのだ、と気が付いたのは、ひらけた場所に放り出されてからだった。
「これ、は……、十六年の人生で五指に入るほどの痛みですね……。さっきのは、隠し扉……?何で、あんなところに……」
定まらない視界と思考の中、辺りを見回す。数歩ほど歩いたところに、一冊の本が置いてあった。小さな丸机の上に置かれたその本には、木と革、鉱物で出来た装飾が施されていた。
「何でしょう、この本」
自分の知らない隠し部屋、知らない本。メルヘンが置いたのだろうか。そう思って本を手に取った。
「錠がついていて、開けないようにしてある……?」
装飾は小口にまで及び、そこには錠がつけられていた。鍵がないと開けられず、本の中身を知る事はできないようだった。
花が本を眺めていると、また、する、とあの音が聞こえた。蛇が階段を下って追ってきたのだ。隠し扉から転がり落ちたり、見たことのない本を見つけた驚きで、つい忘れてしまっていた。
今度こそ逃げ場はないだろう。必死に、どうやって切り抜けるか考える。知らずのうちに手には力が入り、本を抱きしめていた。かた、と錠が揺れる。張り詰めていた心は、そのわずかな音にすら驚いてしまう。震えた手が、錠をすうっとなぞった 。
刹那、本がうっすらと輝きを放ち始めた。錠はとけるように消え、輝きはその強さを増していく。
「なに、なんで光って……?」
呆然と腕の中の書物を見つめる。蛇のことが気になりつつも、自然と体は動いていた。花はどこまでも本が好きだった。こんなにも不思議な本にかけられていた錠が消えたのだからだから、開いてみたくなるのは当然だった。ゆっくりと本を開く。
開いた最初の頁は。
「まっしろ……」
そう呟いたのとほぼ同時。本は開かれたことがきっかけだったのか、一層輝きを強めた。
その眩しさに耐えきれず、花は目を瞑る。
それは一瞬だった。全てを塗りつぶすほどに眩い光が花をつつむ。
光が消えた時には、花の姿も、本も。まるで元からなかったかのように、消えていた。
全てを視た蛇は、ゆっくりと、空気に溶けるように消えていなくなった。
数時間後。
「……マスター……?」
静かな、静かな声が、誰もいない丸太小屋に響いた。