021「追憶の先へ」
「伊勢さんは、彼女じゃありませんよ。ただのクラスメイトです」
「分からないわよ? 親しく付き合ってるうちに、いつの間にか、友情が恋愛に切り替わるものなんだから」
ソファーの端に座りつつ、剛志は、和泉がトイレに向かったあとも、和海と通話を続けている。
「まぁ、そんな話は横へ置いといて。今、そこに和泉は居るのかしら?」
「いえ。廊下のほうへ出たところです。でも、グラスはテーブルに置いてありますから、すぐに戻るつもりではないかと」
「そう。なら、お手洗いかしらね。……こういうことを言うと、残酷なことに思えるかもしれないんだけど」
和海が声のトーンを抑えて話し出すと、剛志も小声になって続きを促す。
「(両親のことかな)何でしょう?」
「金剛くんと志織さんのことなんだけどね」
「(やっぱり)事務手続きなら、伯母さんに一任してありますけど」
「ううん。そういうお役所関係のことじゃなくて、剛志くんの気持ちの問題なの」
「(おや? いつもと違うな)僕の気持ち、ですか?」
「そう。和泉との二人暮らしも、学校生活の方も、うまくいってるみたいだから、そのまま未来に進んで欲しいと思って」
「(どういう意味なんだろう?)それは、つまり……」
「過去に囚われないで、ということよ。余計な御節介かもしれないけど、いつまでも不運に浸っていると、差し伸べられた手に気付かずに、幸せを逃してしまうから。……気を悪くしたかしら?」
「いえ。ただ……」
剛志が語尾を濁して口ごもると、和海は、言わんとせん所を代弁する。
「今の幸せな状態が、これから先も続くだろうか? 今の幸せに浸っているうちに、両親との思い出を忘れそうで怖い。――と、そんなところかしら?」
「えぇ。細かな不平が無いわけではありません。けど、満足というか、幸福というか、こちらに来てから、充実した毎日を過ごすことが出来てます。それ自体は、とても嬉しいことなんです。でも、それと同時に、だんだんと両親のことを思い出せなくなってきているんです。柔らかな微笑み、バリトンの声、整髪剤の匂い、絵の具が染みた手。その一つ一つに、薄く靄が掛けられていくようで、夜中に、ふと恐ろしくなるんです」
「そうね。失ったモノへの哀惜は、大事にしたいところよ」
「だったら」
「でもね、剛志くん。朝が来たら、どれだけ寒くても布団から出なきゃいけないように、いずれは、幼少期を抜け出さなきゃいけないものなの。それだけは覚えておいて」
「……はい」
「大丈夫よ。気が利かないところや、負けず嫌いで意地っ張りなところがあるけど、和泉は良い子だから。困ったら、どんな小さなことでも良いから言ってみなさい。きっと、剛志くんの助けになるわ」
「はい。――あっ!」
話に夢中になっていた剛志は、携帯端末を取り上げられて初めて、リビングに和泉が戻って来ていることに気付いた。和泉は、和海に二言三言告げると、アッサリと通話を切って端末をローテーブルの上に置き、剛志の横に腰を下ろしながら、申し訳なさそうに言う。
「ごめんね、木崎くん。途中から、話を聞いちゃった」
「えっと、いつから、――ワッ!」
剛志が狼狽しながら、しどろもどろに質問している途中で、和泉は剛志を背中から抱きしめ、にわかに赤面しだした剛志をよそに、囁くように言う。
「駄目な男に引っ掛かってばかりいるような、どうしようもないアラサー女だけど。何があっても、わたしは剛志くんに味方するから。だから、剛志くんもわたしを信用して。良い?」
「(近い。近すぎるよ、鷲宮さん)……ワカリマシタ」
小さく頷きながら、剛志がリンゴのように耳まで真っ赤になってカタコトで答えると、和泉は腕を解き、グラスを持ってキッチンへと向かった。剛志は、和泉が二人分の水を持ってリビングに戻るまで、呆然としたままだった。




