001「恋を失ったアラサー」
「本命が別にいながら、一途なフリをしやがって、あの野郎め。こちとら、遊んでる時間なんか無いんだぞ!」
居酒屋のテーブル席で、ジャケットを脱いだアラサーの女が、飲み干してわずかに泡が残るばかりのジョッキをドンとテーブルに叩きつけながら吼える。
「どうどう、和泉ちゃん。落ち着きなさいって」
「わかるなぁ、先輩のくやしい気持ち。だって、結婚まで考えて、一緒に暮らしてたんですもんね」
ジョッキを持ち上げてテーブルを拭きつつ、和泉と呼ばれた女の向かいに座るスーツ姿の男が軽く窘め、女の横に座るカーディガン姿の二十歳そこそこの女は、和泉の二の腕あたりを両手で掴みつつ、上目遣いで同情する。
これだけ見聞きすれば、ブラウス一枚の女が和泉という名前で、最近、同棲相手の浮気が発覚し、結婚計画が狂ったことが、誰の目にも明らかであろう。
「ういっ。今日は、とことん飲むぞー!」
拳を高々と突き上げて宣言した和泉であったが、この二時間後には、すっかりメレンになってしまった。
「うぅ……。今度は大丈夫と、思ったのに。チックショー」
和泉が怒りの炎が冷めやらぬまま、リビングのソファーで横になっているころ、そのマンションの下では、先程の二人がタクシーに乗っていた。
「あのままにしておいていいんですか、課長さん」
「平気よ。今頃、ソファーにでも横になって、グチグチと文句を呟いてるだろうけど、明日になればケロッとしてるわ」
「そういうものですか?」
「そうよ。傷付いたハートは、時が癒してくれるの。春日ちゃんが心配すること無いわ」
「そうですか? まぁ、課長さんが太鼓判を押すのなら、きっと問題無いんでしょうね。新入りのわたしには、不安に見えますけど」
「無問題よ。和泉ちゃんだって、おバカじゃないもの。それに、明日は土曜日でしょう?」
そんな他愛もない会話をしながら、オネエ課長と春日と呼ばれる新入社員の二人が、それぞれの家に帰宅した頃、和泉は、まだソファーの上に横たわり、すっかり脱力しきっていた。その様子は、さながら、焼きたてのパンにのせたチーズのようである。
そこへ、ソファーの前にあるローテーブルに置かれたハンドバッグから、バイブレーションの音がする。
「うん? 花崎さんか? それとも、課長かしら」
下半身をソファーに残したまま、和泉は腕を伸ばしてハンドバッグを掴むと、中からブーンブーンと鳴っている携帯端末を取り出し、画面を覗き込む。そこには、デフォルトの背景画像とともに、鷲宮家という文字が表示されている。
「実家かーい! ――もしもし?」
無駄に景気よくツッコミを入れながら、和泉は画面をタップして通話を始めた。