四話 双子④
何もない場所だった。
光が一切存在しないその場所はある種の地獄と言ってもいいかもしれない。目を開けても瞑っても変化はなく、身体は動かせない。いいや、もしかしたら動いているが、認識できていないだけかもしれない。
生きているという感覚が湧かないのだから死んでいるのと同じだ。
『だが、オマエはまだ生きてやがる』
声がした。男か女か、子供か老人か。口調から察するに気の強いチンピラ、というのが濃厚であるが。
『おい、誰がチンピラだっ。ったく……にしても、また妙なことをしてるもんだ。強盗に襲われてるってのに、呑気に寝やがって。そのまま殺されちまってもしらねぇぞ』
ああ確かにその通りかもしれない。
拳銃を常に向けられているのにもかかわらず、一緒に食事をしてそのまま寝るなど、馬鹿だの阿呆だの罵られても言い返せないだろう。
しかし、何故だろうか。あの双子は人殺しをするような連中ではないと思ったのだ。
『ハッ!! 随分な憶測だなぁオイ。そんな証拠がどこにある? 奴らは人殺しの道具を持ってたんだぞ? もしかしたら、誰かを殺して逃げてるかもしれねぇじゃねぇか、ええ?』
その可能性は否定しない。だが、そうだったとしてもそれは彼らの意思ではないのだと考える。
好きで人を殺める事ができる連中なら、とっくの昔に自分は死んでるはずなのだから。
『そりゃどうかな。今はオマエに利用価値があるから生かしてるだけかもしれねぇぞ? んで、用済みになったら口封じってな』
かもしれない。その未来が絶対に来ないとは言い切れないのは事実だ。
彼らは自分に気を許したかもしれないが、しかし信じてはいない。だからどんな時でも銃口は下げずにいるのだ。
けれど、それでも。
彼らが悪い連中にはどうしても見えないのだ。
本当に悪人であるのなら、厄介ごとに首を突っ込まないでとか、背負う覚悟だとか、そんなことを口にはしないと思う。
『クッ、ハハハッ!! 何だそりゃ。全くもって馬鹿馬鹿しいなぁ、オイ』
かもしれない。明快な答えになっていないのは百も承知。これは単なるこちらの思い込み、独りよがりな感想。彼らがいい奴らだと勝手に思いたいだけなのかもしれない。
それでも、一つ。たった一つだけ確かなことがあるとすれば。
鍋料理が美味しかったのだ。
『……は?』
きょとんとしたような声。意味が分からない、とでもいいたそうだ。
しかし、結局それが真実なのだ。例え相手が犯罪者でも。それが例え拳銃を向けられていたとしても、それでも誰かと一緒に何かを食べる……そういうものが本当に久しぶりで嬉しかったのだ。
『……くだらねぇ』
どうやら呆れられてしまったようだ。まぁ当然か。こんな理由で犯罪者に心を許す、なんてことはどうあっても頭がイカレていると思われるだろう。
『まぁ? オマエの人生だし、オレ様が口出しするのも筋違いってのもあるだろうし、これ以上は何も言わねぇよ、勝手にしな』
ただ。
『代わりに一つ、言わせてもらうのなら。さっさと起きろ。流石にこれはまずい』
刹那、地獄に一筋の光が見えたかと思うと、次の瞬間光が闇を支配した。
*
目を覚ますと見知った天井がそこにあった。当然である、ここは自分の家なのだから。
そんなどうでもいいことを思いながらも不条は意識を覚ます。未だおぼろげな世界。目をこすりながら開らき、欠伸をする。
段々とはっきりとしていく視界と意識の中で、何か奇妙な夢を見たことを思い出す。しかし、内容を覚えておらず、何だっただろうと呑気な事を考えてると気づく。
毛布が二つ、綺麗に畳まれており、その上に一つの小さな置手紙があることに。
「……『毛布、お借りしました。ありがとうございました。お金も幾分か拝借します。後、ゴミ出しは絶対に忘れないように。分別のゴミ箱も作ってます。ちゃんと分けて捨てて下さい。掃除も忘れないように。あと、朝食も作っておきました。野菜も必ず食べること。肥満になってからじゃ遅いので、栄養の偏りには気をつけること。それから―――迷惑をかけてごめんなさい』……」
短く纏められた文章を不条は何度も読み返していた。
最初のところはクロが考えたなとか、ゴミ出しやら掃除やらはシロが書いたんだなとか……最後の一文は彼女達なりの謝罪なんだなとか……。そんなことが彼の頭をぐるぐると回っていた。
「挨拶くらい、してけってんだ……水臭い」
ふと周りを見渡すと以前とは比べものにならない程、綺麗になったリビングが広がっていた。本当に自分の家かと思うほどの光景に、しかしてどこか寂しさを感じていた。
たった一日……いや、半日か。嵐のようにやってきた双子は、やはり嵐のように即座にどこかへと去って行った。
立つ鳥跡を濁さず、と言うが逆にここまで綺麗にするとは思ってもみなかった。
「……さて、と。とりあえず、アレ片付けるか」
言いながら、自分の寝室を開ける。
見ると言われたように机の上に例のブツが山積みにされていた。
「っていうか、ベットの裏まで掃除するか、普通……」
エロ本を元の位置に戻しながらぶつぶつと文句をたれる。
「この分だと、机の中まで見られてそうだな」
流石にそれはない……と思いたいが、あのシロである。他人の家をここまで掃除してしまう女の子である。
もしかして、という思いに駆られ、確認のために机の中を開く。
と。
「……おいおい」
その光景に唖然とする。
それはない。それはないだろう。
瞬間、今朝の夢の内容、そして言われた事を思い出した。
「確かにこれはまずいっ……!!」
言いながら急いで仕度を済ませる。
シロ、クロ。彼らがどんなことに巻き込まれているのかは知らない。けれど、悪い連中でないのは分かっている。だから金はいい。服もいい。食糧もいい。何だったら車だって貸そう。
ただし。
それだけは、何があってもダメなのだ。
*
「本当によかったの? あのまま出てきて」
クロのどこか不安そうな言葉にシロはきっぱりと言い放つ。
「いいのよ。あれ以上、あそこにいる理由なんてなかったんだし」
「でも、黙って出てくることないじゃないか。お世話になったんだし、ちゃんとお礼言って、挨拶して……」
その言葉を聞いて、シロは目を細めながら己の兄の馬鹿さ加減にうんざりする。
「……あのね、わたし達はあいつにとってただの強盗よ? そんな奴らがいつまでいても迷惑なだけでしょ。それを言うにことかいて挨拶ですって? 本当、考えなしな兄ね」
正論すぎて否定できない。
荒事が無かったとはいえ、一般的にみれば自分達は強盗以外の何者でもない。銃で脅して家まで入り込み、衣食住をした上で金銭までぶんどった……どう考えたって言い訳のしようがない。
「それに、わたしにはあの男が何を考えているのか、さっぱりだったわ。銃を向けられてるのに、けろっとしていて。普通はもっとこう、驚いたり、怯えたりするものでしょ。なのに、全くそんな素振りはなくて、何だか普通に話されたし」
これまた正論であり、否定できない。
あんなに穏やかな会話をしていたが、彼は自分達に殺されるかもしれない立場にいたのだ。それを自覚した上でのものか、はたまた鈍感だったのか……何にしても読めない相手だったのは間違いない。何せ、昨日の食事が終わった途端、本当に眠ってしまったのだから、無防備にも程がある。
しかし、一つ言えることがあるとするのなら。
「でも、いい人、だったよね。ぼく達の事、心配してくれてたみたいだし」
「……さぁ、どうでしょうね。こっちの機嫌をとってただけかもしれないわよ」
「もう、シロはそうやってすぐ心にもない事言う。君だって、あの人を巻き込みたくないから昨日はあんな事言ったんだろう?」
その言葉に一瞬の間があく。見るとシロは明後日の方を見ており、こちらに視線を向けないようにしていた。
「別に……そんなつもりはないわよ。ただ面倒な事を聞かれたくなかった。それだけよ。まぁ……確かに、悪い人間じゃなさそうだったのは認めるわ。でもダメ人間なのは確かよ。あの汚い部屋、洗ってない食器、ゴミの山……っていうか、ちゃんとゴミ出ししたんでしょうね。こっちは分別用のゴミ箱まで作ったんだから、これで掃除してなかったら承知しないわよ」
厳しい意見に、しかして苦笑する他無かった。
だが、悪い人間じゃなさそうだった。妹がそれを言ったということは、少なくともあの男は今まで会ってきた数少ない『悪くない』部類に値する人間であるということだ。
昨夜の突き放すような冷たいシロの言葉。彼女があんな風に話したのは、迷惑だから、ということもあるだろうが、しかし一番の目的は彼をこれ以上自分達に近づかせないようにするため。
彼から見れば自分達は犯罪者のはず。だというのに、宿を貸してくれたり、こちらに気を使い、何も聞かずに流してくれた。それだけで、クロからしてみれば彼は『良い人』だと思えてしまう。
もしかしたら、助けを求めれば助けれくれたかもしれない。
もしかしたら、守ってくれと頼めば守ってくれるかもしれない。
しかし、だからこそ。だからこそダメなのだ。
自分達は子供。それは事実だし、自覚している。だからといって、ただの大人が首を突っ込んでいい環境ではないのだから。半端な気持ちで手を出せば命を落としてしまう。そして、そんなことをクロは勿論の事、シロも望んでいない。ましてや、自分達に優しくしてくれた人の人生の破滅などみたくもない。
「取り敢えず、【特務係】とやらに連絡を取ってみるわ。本当なら昨日のうちにあの男の家で電話しておきたかったけど、流石に証拠が残りそうなことはしたくなかったし」
「とか何とか言って、本当は迷惑がかかるからやらなかっただけでしょ?」
瞬間目潰しによって視界が真っ暗になる。
「下らないこと言ってないで、公衆電話探す」
「は、はい……」
「あと、それからこれ」
と渡されたのは一本の短剣。
剥き出し状態の刃には何やら奇妙な文様が書かれたそれにクロは怪訝そうな顔付きで睨んでいた。
「シロ、これ、まさか……」
「ええ。ちょっと拝借したわ」
「拝借したわって、何考えてるんだよっ!! 人の物を勝手にとってきちゃためでしょ!!」
「しょうがないでしょ。あなたもわたしも、〝本来の武器″が使い物にならないんだから。いつまでも素手のままだとあなたもまずいでしょ」
「そ、そうだけど……」
「わたしもあなたも戦う技術はないけど、無いよりはマシなはずよ……まぁ、こんなもんでどうこうなる連中じゃないけれど」
その通りである。
普通の人間ならいざしらず、これから追ってくるであろう連中は銃や短剣など通用しない。それでも武器があるとないとではやはり差は大きい。
恩人の家から勝手に持ち出したものという点は罪悪感を感じるが、それは今更というべきか。何はともあれ、こんなものを使うことがないことを願うばかりだ。
と、そこで気づく。いや、ようやく気づいた、というべきか。
周りを見渡しながら公衆電話を探してみる。携帯電話が普及した現代でも、数は少なくなったものの、公衆電話は存在する。特に公共機関の乗り物や店などの近くにはあるはず。
そう思っていたからこそ、二人は電車の駅を目指していたのだ。
だというのに。
「あ、れ……」
口から出てきたのはそんな言葉だった。
一言で言うのなら唖然。そう表現するしかない光景。
今日はクリスマス。イブではないにしろ、休日のこの日には多くの人が外出するはずだ。特にバスや電車ならば尚更。
だというのに。
電車の駅近にもかかわらず、人混みは愚か、人が誰一人としていなかった。
「っ、シロ……」
「まさか『術』……っ!?」
「気づくのが遅いよ、二人共」
視線を向ける。そこには駅前の時計。その上に立っている子供が一人。
年齢は十三、四といったところか。緑色のキャップ帽子にその隙間から見える紫色の髪。意地の悪そうな目付きな少年である。
そして、クロ達は彼のことを知っていた。
「ムラサキ……」
「まーったく。何やってるんだ、シロ、それにクロ。【研究所】から抜け出すなんて、一体何考えているんだい。ほら、迎えに来てあげたからさっさと帰るよ」
「そう言われて従うと思う?」
「だろうね。でなきゃ脱走なんてしないもんね。よっと」
ムラサキと呼ばれた少年ははその場から身体を投げ出した。かと思えば、まるで何の重力も感じさせない立ち姿のまま、地面へと立つ。
「でもさ、正直理解できないってのはあるかな。何で脱走なんて考えたんだい? あそこにいれば身の安全は保証されるのに」
「鳥籠の中の鳥になるつもりはもうないのよ」
「ふーん……クロもそれは同じなの?」
「そうだね。ぼくもシロと同じ意見だ。それに、あそこで行われてる実験を見て見ぬふりをするのはもうごめんだ」
ここまでシロに引っ張ってもらう形になっていたが、しかしあそこから逃げるという点においてクロもまた同じ思いなのだ。
「二人の意見はわかったけど、それは困るなぁ。【研究所】が襲撃されちゃったから、天堂様も忙しくしてるんだ。だからボクが代わりに連れ帰ってくるよう言われたんだ。だから、ボクの手を煩わせないでくれないか?」
「お断りね」
「ムラサキ。ぼくらはもうあそこには戻らない。外の世界で生きる……あの人と約束してそう決めたんだ」
「あの人……? ああ、仙道梨花のことかい? 全くあの女も面倒な事してくれたよね。君達、あの女に何か吹き込まれたんだろう? それで【研究所】から抜け出そうと考えたわけだ。本当、余計なことしてくれたよ。おかげでぼくも天堂様も大迷惑してる。ま、だから殺さたのは当然の報いってやつだね」
不愉快な笑みを浮かべてきた同時、シロは拳銃を即座に向ける。
しかし、ムラサキは全く動じることなく、続けた。
「無駄だよ、無駄。ぼくたち【剣鬼】相手にそんなものが通用しないのはよく知っているだろう?」
癪に障る言い方。しかもそれが事実なため、余計に腹が立ってしまう。こんなもので倒せるとは思っていないし、そんな実力がないのは言われるまでもない。。
「大人しくしていれば、危害は加えないよ。さっきから言ってるけど、ぼくの目的は君らを連れて帰ること。殺せ、なんてことは言われてない。何せ、君たち……特にクロは、天堂様の計画に重要だからね」
ただ。
「抵抗するのなら、手足の一、二本は切り捨てても構わない、とは言われているけど」
瞬間、シロの銃口が火を噴いた。
銃声は三発。しかし、その場を動くことなく、その全てを躱す。まるで当たらないことを最初から予見していたかのように。
「言ったろう? そんなものは意味をなさないって。だけど、そうか。君らは敵対するんだね。仲間を傷つけるのは心が痛むんだけど―――しょうがないよね、アオイ、アカリ」
刹那、クロとシロ、二人の背後に少年少女が迫っていた。それぞれの手に一本の日本刀が握らており、こちら目掛けて振り下ろされる。
「クロッ、逃げ……」
言い終わる前に間合いを詰められる。
一瞬。ほんの刹那。距離にして約八メートルはあるであろう間を瞬く間に詰めてきた。尋常ではないその動きにシロは無論、クロも反応はできない。
そして、それは即ち防御も回避も不能ということであった。
一閃。
鋭利な横薙ぎのひと振りがシロとクロの背中を切り裂く。
「ッ……!!」
苦痛に耐えながら何とか後ろへと飛ぶ。
その様子を見てムラサキは「へぇ」と感嘆の声を漏らした。
「本来なら立つことすらも不可能な一擊なんだけど……攻撃する刹那、前へ飛び切り傷を最小限に抑えたってことか。なるほどねぇ。君らも一応はぼくらとは違うけれど、最低限の訓練は受けてきたから、身体能力はそこそこあるってわけか」
けど。
「戦闘能力の方はいまいちだね。本当なら今の一擊は何が何でも防御するか、回避するべきだった。刃によって傷を付けられた。それは【剣鬼】同士の戦いにおいて、致命傷になるっていうのは最初に教えられることだからね」
パチンッと指を鳴らすと同時。
「うっ、が、あああああああっ!!」
理解不能な熱がシロの全身を襲う。
「シロッ!!」
「クロ、君もアカリの【妖刀】―――『真紅』の能力は知ってるだろう? 斬りつけた相手の温度を操る能力。今、シロは高熱にうなされてる状態だ。さながらマグマの中に身を投じた状態ってところだろうね」
パチンッと再び指が鳴ると、シロがさらに苦痛の悲鳴を挙げ悶え苦しむ。
「やめろムラサキ!!」
「そう言われてもなぁ。君らは抵抗するんだろう? 抵抗する奴に対処するにはこれが一番手っ取り早い。安心していいよ、さっきも言ったけど殺しはしないから。身動きできないようにするだけ。そして―――それは君も同じ」
その言葉と同時、クロは自分の身体が全く動かないことに気がついた。
腕を動かそうとしても、脚を動かそうとしても、全く動かない。いや、それどころか身体全体が重くなったかのような感覚に襲われ、その場に膝を落としてしまう。
「君を斬ったのはアオイだ。彼の【妖刀】―――『金剛』は斬った相手の重さを操る能力だ。今の君の体重はおよそ三百キロってところかな? どうやっても身体は動かないよ」
説明されるまでもなく、知っている能力故にクロは理解していた。目の前の敵はどうあがいても自分が勝てる相手ではない、と。
そもそも、自分には戦う能力も腕力もない。知恵もなければ、話術もない。そう、自分には何もないのだ。ある一点を除いてしまえば、自分の価値など無に等しい。そして、その一点というのも今ここでは何の役にも立たない。いや、そのせいで自分達は追い込まれていると言っても過言ではない。
ならばどうするか?
一番の選択肢は逃亡。勝てない相手にとは戦わない。それが最善だ。
しかし、この場においてそれは通用しない。一瞬で間合いを詰めた速さは尋常ではなく、クロが逃げたとしても即座に背中を斬られるのがオチだ。
だとしたら、やることなど一つしかない。
と。
「やめときなって。これ以上足掻いたところで君達にはなんの意味もないんだから。」
行動を起こす前に忠告される。こちらの動きは予測済みというわけか。そして、それは無駄だと笑っているわけか。
しかし、それがどうしたというのか。
「……ぼくじゃ君らに勝てない。そんなことは分かってるんだ」
そう。【研究所】にいた時から理解し、分かっていたこと。自分では彼らの中の誰一人として勝つことができない、と。
しかし。
例え勝てないと分かっていても。
例え何もできないと理解していても。
それでも、
「ここで何もしないなんてこと、ぼくにはできない!!」
言い終わると同時、ゆっくりと、けれども確かにクロは立ち上がる。そして、震える両手で短剣を握りしめ、前へと突き出す。今にも地面に突っ伏してしまいそうになる中でそれが精一杯のこと。
何のことはない。ただ突き出しているだけのそれを構えているというのもおこがましい。
だが、それこそが彼の覚悟の象徴であり、決意の顕れ。
震えながら、恐怖に怯えながら、けれども決して妹を見捨てないという意思。
けれど、そんな彼を見て、ムラサキは。
「何それくっだらない。ちょっとは楽しめるかなぁと思ったけど、もういいや。アカリ、アオイ、さっさと連れてかえっちゃおう」
そんなものは無価値であると言わんばかりに嘲笑し、切り捨てる。
こんなはずではなかった。
【研究所】から出たのはこんな苦しい思いをするためじゃない。妹にこんな痛い思いをさせるために出てきたわけではない。ただ、自由というものを味わいたかった。それだけなのだ。あの何もない場所ではないどこかに行きたいと、そう願っただけなのに。
そんな小さな願いすら、この世界は叶えてくれないらしい。まるで、お前達にそんな権利があるはずはないだろうと、そう言いたいようだ。
こんなはずではなかったのに……。
だが、せめて。妹だけは何としてでも逃がさなければ。例え自分がどんなことになったとしても。
そうして向かってくる刃は、クロの腕を切り落と―――
「おいおい。最近の子供の喧嘩は、日本刀もありなのか?」
不意に唐突に突然と、聞きなれない声が響き渡る。
いきなりの事で、ムラサキの動きは止まり、クロもまた呆然とする。いや、聞きなれない声ではない。これは聞いたことのある声だ。
ふと、視線を向けると、そこには一つの人影があった。
短い黒髪。
着崩れた灰色のスーツ。。
年齢以上にやつれた顔付き。
たったそれだけで、クロにはその正体が誰かがわかった。
だが、どうして彼がここにいるのかが理解できなかった。
「……あんた、誰?」
まるで異物でも見るかのような睨みを効かせるムラサキに対し。
「通りすがりの無職だ」
男――――不条斬雄は面倒くさそうな表情を浮かべながら呟いた。