稲作民族
結論から言うと基本O1B2の移住は稲作を伴ったものになる。言ってる事が違うじゃないか?ならその中の一部O1b2a1a1 (CTS713)(旧47z)は海路の別ルートを通った可能性があると言う話。他の先祖系とO1b2a1a2a (L682)は渤海湾まで北上して半島に南下するルートを通ったとなる。
山東省の揚家園遺跡で水田跡が見つかり、ここをさらに深く掘ると、粗放水田跡が見つかった。このタイプの稲作は山東省の他の遺跡でも見つかった古代の水田と良く似たタイプであるって点。古い時代に行われた稲作が山東半島で発達したとなる。次に遼東半島でプラントオパールが見つかった場所をさらに掘ると似たタイプの水田が見つかった。
この水田の特徴は黄河的な畑作に似た水田跡になる。これは黄河農業と長江農業が合体した証しで山東省の特定の集団の移住を示す。さらにこの付近で半島でのO1B2の分布と重なる支石墓が出現するようになる。
別の調査で以前から批判が多かった陸稲じゃないのか?ついて調査した結果、陸稲ではないとの判断が下される。だがその判断の根拠は示されてない。一つ明らかに畑作であると判断した場所で見つかった稲のプラントオパールについて、調査したところ、まず微量であったため、別の場所の混入じゃないか?との判断から回りを調査すると、それらしい水のたまる稲作向きの場所がみつかった点。これらの判断から陸稲栽培は無かったとの判断が下される。
この点以前から半島の米は満州の陸稲が混ざったって調査があったが、これらは時代測定が問題で、稲作伝播の時代ギリギリまでしか遡れないため、後の時代に混ざったものでは無いか?と私は見ていて、そのためこの半島の学者の判断はある程度信用できると見ている。
続いてドルメンの問題についてで、まず長崎の原山遺跡のものがやや異色で江南のものと近いかもしれないといわれてるが、後はすべて半島南部からの影響を強く受けていて、江南ルートはほぼ考えられないとの見解。ドルメンについて詳しく話すと、元々この地方には積石墓と言うピラミッドの様な文化があり、それが混ざったものが初期ありそれらと後に発展したものが混ざってるのではないか?との指摘がある。
これら分けたものだと南方北方って2分ではない。3つのパターンがあるとの見方になる。新しい形の南方系との違いは墓に蓋をするだけなのが、古いタイプで、確かにコレは積石墓の発想と良く似ている。新しい形は、北方のテーブルのような天上の石を大きな石で支えて鳥居のように置くタイプになる。
この支柱を小さくすると碁盤のようになる。これは見た目にも北方から進化した新しいものと見える。北から南へ支柱が小さくなるように進化したと見える。蓋式は古いタイプで別系統なのではないか?との見方になる。ただ蓋式はそれまでの遼河文明で多かった積石墓との合作のようなもので、これらはすべて渤海湾周辺から南下したと見てよい。
しかも、原山は他に似てないってだけで、特に江南のものに似てるわけじゃない。より似ているもので濟州島のものが似てるんじゃないか?との学者の指摘があるのだが、私はそれ写真で確認して無いからなんとも言えないが。濟州島はポイントが高くて、とにかくここはいろいろ変わった島で、ハプロも確か変なハプロだった。だが江南のものではない。
C系になる。(別に多数派ではない)確かここに王族が逃げてきたなど聞いていて、その影響か?となるが、捕まった殺されたとの話がありその影響なのか?は分からない。後モンゴル軍がここを拠点にしたとも聞いている。独特の分離したものがありかつ、ここが一番大陸に海ルートだと近くなる島になる。海ルートがあった可能性はかなり高いが、それが主流であったか?ならほぼ間違いなく否になる。
次に海ルートでO1Aであったんじゃないか?でまず山東省で主に活動していたのはO1B2だろうとって点。以前も書いたが、中国北方でO1が多いのは夏王朝の影響が大きいと思う。そちらに合流したO1B2も多いが、それでも異民族的な東夷と言われた集団側に入っていたと思われる。
この後越が占領するため、その時海洋性のO1Aが広がった可能性はあるが、どのみち日本への移民としては低頻度であるため、あまり重要じゃない。むしろその後のここ出身のO2系の徐福の方が重要。龍山文化の黒陶からすでにイネのプラントオパールが見つかっていて、りょうしょ文化崩壊前からここに稲作民族が稲作を行っていた証拠も有る。
O1B2は必ずしも他のO1系と行動をともにしたわけじゃない。だが、遼河文明の高い青銅器技術が半島にすぐ持ち込まれたのは、O1B2が広く陸にも範囲を広げていたからだと思われる。朝鮮族として活動していたか?は不明。特にO1b2a1a2a (L682) の系統は南部よりやや北側に位置してて、L682の集団の一部は北部で青銅器と関係していたと推測している。