第九話 松千代の長い連日/夢をひとつ、酒に溶かして
「ふがっ!」
と固い枕にうつ伏せの無理な姿勢で寝る松千代は、当然のようにおのれのいびきで目覚めた。
枕元には複数の印判状があったはずだが、近習・小姓衆が片づけたものか、見当たらなかった。
印判状とは――基本、中世日本の成人男性は人格をあらわす花押(サイン)を持つが、それ以外の人間は持たないため、なんらかの事情で未成年者や女性が行政文書を出さねばならない際、印判をおし、略式の礼となるが、花押の代わりとした。
これが印判状である。
語弊はあるかも知れないが――個人の人格から、公権力をあらわす様式に行政文書が変換し、もって大名権力の拡大と強化がなされている。
要するに、大名と直接の主従契約関係にない村落や商工業者に対し、印判状の形式ならば、命令を出すことが可能だからだった。
小田原北条家の場合、虎の意匠に『禄寿応穏』――『(あなた方の)財産と生命がまさにおだやかでありますように(我々がそれを守ります)』――という言葉が記された、通称『虎の印判状』が主なものである。
ただ、松千代の印判は違う。
これは後述するが、父親の氏康の出す『虎の印判状』に遠慮し、別の印判を用意したのだった。
松千代は夜着のなかで『むふ~』と笑い、『ニヨニヨ』しながら、
(なんか充実感があるな~)
と、初仕事の達成感を噛みしめている。
あくびをした。寝起きの絶妙な気持ちよさのなか、ともすれば夢の世界へ再び、飛び込みそうになるが、
「お目覚めにございますか」
と、松千代が印判状を発給しはじめたからだろう、常より深い敬意のこもった小姓の声がかかったため、
「あふぁるふほぁいあふ(おはようございます)」
と、朝の苦手な松千代はなにひとつ呂律が回っていないが、とにかく起床することにした。
朝食の前に台所で湯を借り、転生以来、あんまり湯船につかれない我が身に不満を覚えつつ、いつものように、湯にひたした手ぬぐいで身体をふく。
それなりにさっぱりしてから、小姓の選ぶ衣装に袖を通した。
ただ、
(近所に名湯・箱根温泉があるけど、そう毎日、毎日、湯治(医療行為としての入浴)に行ける身の上じゃないし~)
などと箱根温泉に恋焦がれながら、朝餉の膳をとった。なお、この時代の箱根温泉は未整備に近いため、
(おっきくなったら、絶対、でっかい温泉宿を建てるよう意見しよっと)
などと思っている。観光は観光で産業になるから、悪い話ではなかったろう。
たっぷりの白米と焼き魚や汁物、それから漬物を少々。調味料は少ないが、総天然食材の料理のため、魚や野菜などはうまい。
食事を済ませたあと、木へらの歯ブラシを持ち、水の入ったオケや手ぬぐいを小姓たちが持って、口内の洗浄。
終わったら、また、小姓から身だしなみのチェックが入る。
「はい。おうるわしい限りです!」
と、小姓から『オッケー』の意味の言葉を受け取ってから、業務開始だ。
松千代の引見を待つ人々を、特別に庭へ招き入れた。
数え八歳の松千代が印判状を出す、異例の事態なのだから、臨時のお役所というか、粉コンニャクの仕入れ・販売に関する会合の場も、異例の場所に設置するしかなかった。つまり『庭先』である。
粉コンニャクの仕入れ・販売に関与する顔役。つまり各地の有力者たちは、松千代の要請に応じて出資や労役の負担に応じる見返りとして、免税や特権/収入の分与を受けるわけだから、いまようの『株主』といえよう。
もちろん、現代の株主とは違う――大名領国、という巨大組織の意思決定権を『株主(比喩)』は持たない――から、たとえ話ではあった。
ともあれ、物流に関与する、各地の有力者を三々五々、招くのだから、この庭先の小さな会合は、さながら、ある種の『株主総会』のようなありさまとなった。つまり、必要事項の通達や権利関係の確認の場であり、たいへん重要な会合であった
(よ、よ~し。よしよし……よ~し!)
と、松千代が内心で動揺する。前世、今生、あわせて、このような仕事をしたことがなかったから、緊張するのは当然であった。
たとえば大小さまざまな関東の河川ひとつにつき、最低でもふたりの有力者と面通しせねばならない。以後の連絡をやりやすくし、また、
『おまえのツラァ知ってるぜ』
という点で連携をしやすくするため(ついでに、なんかあった時に誰をやり玉に挙げればいいかの責任の所在をあきらかにするため)である。
(おそろしい――つまり、オレの顔も覚えられるってことじゃないか!)
と、松千代はあらゆる生命の危機を感じつつ、
「あなたのことは知っています。書面のうえで、ですが、これこれこういう生業につき、これこれこういう功績を立てていますね。あっぱれなことです――」
と、小田原北条家の次男坊として、各地の有力者とあいさつを交わすのだった。
こういう日々が続けば、最初のうちこそ、
(あわわわわわわわ……――)
と、今生の――たとえ関東エリアに限っても――広大無辺さと、これに関与する無謀や、おのが身の非力・この世の無常とをさとり、
(いっそ出家して、お家と、前世の自分の菩提をとむらおうか)
と、あらぬことを考えたが、今生の肉体の性能がこれで高いのか、元々、数十万字の知識をおさめる若き秀才の魂を持っていたからかは知らないが、
(慣れた!)
と思うころには、堂々たる小田原北条家の次男坊であった。
結局、次男坊じゃん! なにが違うの? といわれれば、別になにも変わらないように思えるかも知れないが、昨日の小田原北条家の次男坊と、今日の小田原北条家の次男坊は、心身にみなぎる気迫が違っていた。
(オレはやればできる子だった――)
そう確信を深めている。
こころなしかイケメン度が増し、休憩時間の便所の行き帰りに侍女(特に奉公にあがりたての少女)へ流し目をくれれば『くらっ』とする侍女があらわれるほどであった。
ただ、これは完全にその場の雰囲気のなせる奇跡といえる。ありていにいえば『ハイ』の状態であった。
連日の面通しのあと、各地の有力者たちと後日の再会を約し、粉コンニャクの仕入れ・販売に関する会合を終えたころ、松千代は部屋へ帰る廊下で『バターン』と倒れた。あきらかに働きすぎであった。
「う~ん……ハッ!」
と、松千代が目覚めたのは丸一日たった夕暮れであった。
『なんか似たようなことが七年前くらいにあったな』、と前世の死因(徹夜のしすぎ)をフラッシュバックし、まったく学習してない(どうも、休憩する、という行為が苦手なようだった)自分に辟易したころ、今生の母の椿が血相を変えて部屋に飛び込み、松千代の短慮をなじった。
「あなたはなんてもう~……ヤダぁ~っ!!!」
と、要領をえない嘆き方をされたが、母の心痛は伝わろう。
あるいは前世の妹もこんなふうに嘆いたのだろうか。弟は妹――弟から見れば姉だが――を抱きとめてくれたろうか。松千代は我知らず、恥じ入り、
「ごめんなさい母上。次はお昼寝をはさみます」
と謝罪し、
「そうなさい――」
母の椿は袖で涙をぬぐい、まずは安堵のほほえみをもらすのだった。
◇
一方、面通しを終えた各地の有力者たちは、松千代の記憶力に驚いていた。
誰だって悪い気はしない。自分たちの経歴や業績をそらんじる相手は、いかに年端もいかない少年であれ、一目おく気持ちは働く。
松千代と会った有力者たちの間では『才気煥発』、『眉目秀麗』、『相模太守の隠し玉』などの評判が立ち――要するに、小田原北条家の驚嘆すべき天才児・俊秀かつ紅顔の美少年、とまでほめそやされた。
ただ、首をひねったのは、発給された文書の印判であった。
『大途』
大都、転じて、国家の意味を持つ言葉を印判にすえ、文書におしているのは、どういう考えなのだろう。虎に『禄寿応穏』印より、よほどえらそうであった。
「我こそが国だ、と言っているんじゃあるまいね」
「まさか。あの聡明そうなお顔を見たろう。第一、そんな居丈高な態度だったか?」
「う~ん……」
会合の出席者たちは近在の商家の屋敷で、お互いのあいさつ回りを兼ねる宴会をひらいていたが、印判の意味が分からない。
すると、我こそは――というおももちで手を挙げたお坊さんがいる。寺領の経営をなすお坊さんは基本的に裕福だが、出身はいろいろだ。このお坊さんは元・武家の生まれであった。
お坊さんは言うのである。
「きっと御曹司は我々の身分に配慮なされたのだ」
「なんだ。結局は『自分はえらい』って示したいだけですか?」
「さにあらず」
不貞腐れかかった豪農/名主を手で制し、お坊さんは言うのである。
「安房の宗富殿が見込むほどの賢明な御曹司のお志を想ってみよ。『大途』印の意味はおそらくこうだ。『大途(国家)のもとに貴賎なし』。その証拠に、招かれたものたちを、よくよく見まわしてみるがよい――」
人々は隣席する人間と視線をかわし、さらに広い視野でながめた。
なるほど、言われてみれば、この宴席の場には、商家に限らず、豪農、運輸業者、牛馬の売買をなすもの、と、身分・業種はさまざまだ。
しかし、はいそうですか、と納得はしかねる。
牛馬売買の頭目が、噛みつくように言った。
「なにが貴賎なし、だ。ここにいるのは有力者ばかり。ほんとうのミソッカスなんか呼ばれてないじゃないか」
「確かに、おぬしの申す通り。ここにおるのは有力者ばかりじゃのう……身分の上下は厳しく、乗り越えようとしても乗り越えられるものではない。世に等しきは寿命くらい。あいや、それとて、病やなにかで長短の差がある――しかしのう」
お坊さんは、まばゆげな目で天井をあおいだ。誰を思い浮かべているか、この宴席にいる人間なら、はたと思い立つだろう。
「まさか、いや――なんてこった……」
牛馬売買をなす頭目が、両目を見開いて、額に手をあてる。チラ、ホラ、と、牛馬売買の頭目と似たような理解にたどり着いたものが出てくる。まさか。いや、そんな。そんなことって――?
「さよう――」
お坊さんは説教の段取りそのまま、ゆったりと周囲を見渡し、両手を合わせて、おごそかに告げるのである。
「御曹司はおそらく、『大途』の御名を借り、我々の目線まで降りられたのだ」
ピン、と背筋の伸びたものは多数にのぼった。牛馬売買の頭目など男泣きに泣いている。いまだに事情が呑み込めない、商家の青年が問う。
「いったいなんのことです? 私にはさっぱり……」
「分からぬか。ならば分かるように言おう。御曹司はな、あえておのれの上位たる言葉を用いることで、御みずから『自分はそんなにえらくないよ。大途のほうがえらいから、気兼ねなく話し合おうじゃないか』とおおせになられたのじゃ」
「まさか、そんな、まさか――」
「そのまさかじゃろう」
「漢気ってやつだぜ、なぁ」
「ご次男であられるのが惜しい。いや、漢籍のなかにしかいないような名宰相になられるのやも……」
と、宴席の面々は好き勝手なことを言っていた。絶対に酒のせいには違いなかったが、十割中、二割くらいの真理を衝いてもいた。
『ぶえっくしょーい!』
この時、城内の館で寝ている松千代はくしゃみをし、宿直の小姓をビクッとさせた。
松千代はいうまでもなく転生者だが、元現代人の魂を持つものとして、
『法のもと、ひとは平等』
という理念は持っていた。要するに、国家との法的権利や義務は人々に平等にあつかわれるべきだ、という考え方である。
もちろん、世の事実をあらわす言葉ではない。あくまで理想。人々の歩く方向を規定する『夢』のひとつ。いくつもあるうちのそれ。こうであればいいな、こうしたいよね、という考え方/思想には違いないが、宴席の面々の指摘は確かに、松千代のなかのなにかを、言いあらわしてはいたのだった。
「方々――どうされます?」
お坊さんの問いはあきらかだった。今回の話を受け入れるか、蹴るか。
「呑むぜ、オレは」
牛馬売買の頭目が、盃を掲げて応じる。宴席の面々はほぼ残らず盃を挙げた。
「おぬしは――?」
お坊さんが訊ねた。残ったのは先の商家の青年だった。
「呑んでもいいものでしょうか……なんだか、おそれおおくって」
「なんだ、おめえ。かわいいやつだなあ」
「よしてくださいよ、野盗の親玉みたいなひとに言われたくない。ちょっと! いいこいいこしないでくださいよっ!? ――ねぇ、お坊さん、これ、呑んでもいい話なのでしょうか……――」
「決めるのはわしではあるまい。おぬしは呼ばれた。呑むか、呑まざるかはおぬしの腹次第じゃろう」
「ああ――分かりました。呑みます、呑みますよ!」
「よおよお、いい気構えだ!」
「はぁ、なんだか夢のような話ですねえ」
「夢か。あるいは、そうに違いあるまい――」
宴席の面々は盃を掲げた。こののち、かれらは粉コンニャクの仕入れ・販売において、家族のような協力関係を築くことになる。かれらの同志的結合の中心にいるのは、松千代、及び、『大途(国家)』の観念に違いなかった。
「いざ!」
『いざぁ!』
たとえそれが酔夢であっても、かれらの活力の源は確かに、松千代からもらった夢のひとつだった。