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第八話 氏康/椿/西堂丸のこと

 北条氏康による房総半島への遠征は、小田原北条家を敵とする諸勢力、特に山内上杉家や、旧扇谷上杉家などの『小田原北条家の宿敵』と呼ぶべき勢力から見て、反撃にかかる絶好の機会であった。


 ころは天文十五年(一五四六)九月末。


 北条氏康による遠征軍によって、安房里見家――ひいてはその影響下にあった房総半島の攻略が進み、いまや安房里見義堯のこもる上総佐貫城を包囲した。


 安房里見家はいつ降伏するか、あるいは、上総佐貫城をいつ攻略できるか。そのような情勢であった。


 北条氏康、そして小田原北条家は、安房里見義堯の扇動と侵攻による、滅亡の危機を迎えていた同盟国・下総千葉家を救い、また、氏康にしたがう佐貫武田義信の本領(上総佐貫城)復帰を目前としていた。


 いわば、戦争目的を達成し、ほぼ完勝と呼ぶべき結末を、いまか、いまかと待っている時であった。


『太田資正』


 ――岩付太田家の現当主・全鑑(小田原北条方)の弟。旧扇谷上杉家の家宰の娘婿/重臣の名前を聴いた時、氏康の胸に去来するものがなんであれ、小田原北条家の歴史、ひいては国家戦略は、いやおうなく、旧扇谷上杉領・武蔵国北部に重心をおかざるをえなくなるのである。


『太田源五郎(げんごろう)資正、武蔵松山城を奪取』


 武蔵松山城とは旧扇谷上杉領の拠点のひとつであり、小田原北条家の領国から見れば、最北端の要衝であった。


 言い方を変えれば、一方の最前線といえよう。ここを取られる、ということは、すなわち、前線崩壊を意味した。


 つまり、北条氏康の率いる小田原北条家は、房総半島における、安房里見家との戦争から、無理やり、手を引くことを要求されたに等しい――事実上の『敗北』を経験せねばならなかった。


 そうされたのだ。太田資正という男によって。


 ◇


 北条氏康の留守をあずかる正妻――ある種の女君主と呼べる椿は多忙であった。


 夫の留守中、決裁が必要なものは椿か、城代家老が決めねばならない。いわば小田原の臨時総裁/当主代行とか、そういう地位に椿はあった。当然ながら、決裁を与えねばならないものは多岐にわたる。


 軍事については門外()(女だけど)のため、そちらは城代家老の管轄だが、行政や訴訟に関しては、少なくとも、目を通して、案件を担当する人間(奉行ぶぎょう)を選び、これへ指示・通達する必要はあった。


 もちろん、椿が目を回さないで済むよう、これを補佐する文筆官僚には事欠かないのが小田原北条家の強みなため、別に夫の氏康が留守でも大過なく行政文書は出せているが、だからこそ――戦時中とかそういうのは関係なく、小田原北条領国は動いているため――決裁を要求される椿はたいへんなのだった。


(西堂丸が大きくなったらわたしは楽ができるのだけど~)


 おっとりした表情は崩さないまでも、あらあら、うふふ、とせわしなく文書を読み、侍女や、駿河今川家(実家)以来の近侍に手伝ってもらい、小田原北条家の文筆官僚の持ち込む案件をさばくのだが……。


 先述のように、椿は駿河今川家の人間であるため、氏康の正妻とはいえ、外部出身者が決裁をつとめるのは異例であった。


 本来なら氏康の兄弟が当主代行をつとめるのだが、すでに氏康・椿夫妻のあいだには、長男・西堂丸を皮切りに、松千代、藤菊丸ふじぎくまる(のちの氏照うじてる)、四男(幼名不明。のちの氏規うじのり)、と四人も男子がいる。


 ほか、椿の生んだ娘がひとり、お妾さんたちの生んだ娘がふたりいるのが現状だが、おそらく、子どもの数はもっと増えるだろう。


 しかし、どの子も若すぎる。元服した子はまだ、いないのである。


 すなわち、氏康の兄弟が当主代行(家督スペア)の地位にいる必要はなく、支城主(方面司令官/総督)に転任していって久しいのだが、一方で、息子たちの誰も当主代行の職責を果たせない時期なのだ。


 よって、椿がやらねば誰もやらない(やれない)状況にあるのが、氏康不在時の当主代行なのだ。


「御前さま、そろそろご休憩なされては――」

「あらそう~?」


 椿は眉間をもみ、ため息をついた。肩に手をあてつつ、侍女にこう言う。


「お仕事は楽しいのだけど、目が疲れて、肩がこるのは難儀ね~」

「いま、おやつのおモチを持って参らせますゆえ」

「干し柿の季節ではないものね~」


 と、雑談を交わしつつ、ふと、


「いま、お殿さまはどの辺りかしら~?」


 椿は夫・氏康の身を案じた。


 なお、氏康の呼び方は別に『御屋形おやかたさま』でも間違いではない。室町幕府・足利将軍家の直臣中、最高位に近い『相伴しょうばん衆』の地位を獲得している北条氏康は地方政権の長でありつつ、室町幕府の重臣でもあった。


 これは甲斐武田家や駿河今川家も同様、というか、戦国大名はおおむね、なんらかのかたちで幕府と関係を持っている。織田信長とて『ある時期』まではそうであった。


 ともあれ。


 太田資正の武蔵松山城奪取の報を受け、北条氏康の率いる小田原勢(小田原北条家本軍/主力)は転進。殿軍しんがりを遠山綱景の率いる江戸~葛西勢に任せ、急いで小田原へ取って返しているところだった。


「今宵のご帰還ではありませんか」


 と、侍女は言う。


 電信のない時代ではあるが、さすがに伝馬てんま(宿駅。替え馬の用意されている場所。この時代なりの通信・運輸施設の一種)を通過するごとに小田原に近くなっているのだから、遠方はともかく、近ければ近いほど情報は正確になる。およその帰城時間を推測するのは可能だった。


 椿は思案した。侍女が訊ねる。


「なにかお悩みが――」

「いえね……どのお妾さんに話を通しておこうかしら、って」

「ああ――」


 いくさ帰りの男はおおむね、酒か甘味か女を求める。ことに敗戦となれば、なおさらだろう。椿の配慮は当然であり、自分をその対象としていないのも、年齢――数えの二十九歳――を考えれば、この時代の女性としては妥当な判断であった。


 彼女らの年齢感覚は現代人のそれとは違い、三十路ともなれば、先(寿命)を見据え、妊娠・出産を控えるところがあった。若い妾に寝室を明け渡すのはけだし当然の判断だった。


 その時、台所から焼いたモチが運ばれてきた。侍女がなんとも言えない表情をし、椿がそれを見咎めて、さしだされたモチの皿をちょっと押しのけつつ、文句を言うのである。


「別に焼きモチは焼かないわ~」


 などと。


 さりながら、結論からいえば、確かに今晩の帰城を果たした氏康は女性を求めたが、対象は若い妾ではなく、正妻の椿であった。


 椿は仕事中とは別の意味合いの『あらあら、うふふ』と述べ、まったく少女のように頬を赤らめ、髪をなでつけたが、同時にこうも思った。


(よほどおつらいのね~……――)


 と。


 あるいは氏康の気持ちはそうであったろう。


 秋の夜。肌寒い季節であった。夫妻はお互いに甘えるような時間をすごし、多忙な夫君・氏康は名残惜しげに愛妻の頬をなで、


「あとのことを頼む」


 と、いつもの言葉を口にし、北方に去った。


「だいじょうぶよ~」


 朝方。日の昇らぬうちから庭に面した縁側に腰かけ、ぼうっとする椿を心配した侍女に対し、椿が返した言葉がそれだった。


「だいじょうぶ~」


 言いながら、椿は庭の小さなおやしろに祈願した。家族の無事を。これはいつものことだから、今日は少し欲を出し、


(あと、できれば……次の子は女子がいいです~)


 と。


 置いていかれることが、さびしいはさびしいのだった。


 違う庭から朝稽古の声が聴こえ始める。長男・西堂丸か、三男の藤菊丸の一党だろう。あるいは両方かも知れない。


「松千代さまは今日もお寝坊なのでしょうね」


 侍女の呆れが入った言葉に、椿はクスリとし、


「あの子は宵っぱり(遅寝)だもの。がんばりやさんでもあるから~」


 椿の管轄する決裁のなかには、松千代の近習・山角康定から差し出された行政文書も入っていた。


(やっとわがままを言ってくれたわね~)


 陽が昇る。我が子の声が聴こえる。どの子も元気だ。


 もっとも、次男は――たぶん昨夜も『印判状』にかかり切りで――いまごろは高いびきだろうけど。


 椿は朝日に目を細めつつ、手を合わせた。いろんなものから、少しずつ、元気をもらえた気がしたからだった。


 ◇


 渾身の気合を込め、木刀を打ち込んだ。しかし、練達の稽古役によって、軽々といなされ、西堂丸はたたらを踏んだ。


「クソッ!」


 氏康・椿夫妻の長男・西堂丸は数えの十一歳。ひどく凛々しい少年である。


「がんばれー!」


 と、三弟の藤菊丸が声援を発している。こちらはあどけない。数えの五歳なのだ。武芸の型を一通り練習したら、あとは年長者の立ち合いの見学である。応援はまったく藤菊丸の気分によった。


「もう一番!」


 西堂丸は叫び、稽古役の側近に挑みかかる。


 弟の松千代は数えの八歳にして印判状を出す、という異例中の異例といえる行為をしている――不思議には思わない。あいつは昔から頭がよかった――そう思えば、西堂丸の鍛錬は力が入った。


 また、木刀をいなされ、手のしびれのなかで稽古役の叱咤が飛んでくる。


「焦ってはなりませんぞ、御曹司!」


 西堂丸自身、分かってはいるのだが、


「まだまだぁ!」


 西堂丸はケモノのように挑みかかるのをやめないのだ。


(おのれはなにができるのか!)


 そう思っている。


 あの偉大な父すら、国家戦略の転換をはからねばならない状況。前々から『こいつは天才だ』と目をつけていた弟の松千代とて動き出している。


 いま、長男であり、また、長兄である自分が、なにができるのか。なにをすべきなのか。燃える気持ちは身体に休憩を命じないのである。もっとがんばらねば! そう信念させるのだ。


 時は乱世。多発する戦災に上下の身分は動揺し、自然災害はやむことなく、人心の休まる時がない。


 もし、ひとに賢明さがそなわっているのなら、いまこそ、その賢明さを出すべき時だ、と西堂丸は思っている。


 少なくとも、松千代はそうしようとしている。理屈ではなかった。松千代の生き方は美しかった。誰が怪訝な目で見ても、バカにしたとしても、西堂丸は松千代の生き方を認める気だった。


 だからこそ、負けてなんかいられないのだ。


 西堂丸は再度、いなされ、今度は足を払って転ばされた。そのままの勢いで体勢を立て直し、周囲が『おおっ』と感心するような武勇の片鱗を見せつつも、血を吐くような思いで言うのだ。


「まだまだぁっ!」


 だって自分は、北条氏康の嫡男であり、松千代ら、弟妹らの兄であるから。


 要するに――西堂丸は自慢の息子と思われたいし、頼れるお兄ちゃんと思ってもらいたいのだった。

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